そもそも論者の放言

ミもフタもない世間話とメモランダム

字幕テロ雑感

2010-11-29 23:45:46 | Entertainment
「龍馬伝」暗殺シーンに「愛媛知事選」当確テロップで苦情200件

ネットの世界じゃ、「字幕テロ」っていうみたいですね。
誰が言い出したんだか知らないけど、絶妙なネーミング。

しかし返す返すもなんであのタイミングだったのかねえ。
もしかして、選挙速報の当確情報ってコンピュータと連動してて、人の判断を伴わずに自動で表示する仕組みになってたりするのかな?
なんか当確って、他局に先駆けて出さなきゃいけないみたいな強迫観念に捉われてるからねえ(特にNHK)。
別に出すのが5分遅れたからって結果は変わらんのに。

せっかく強制的に地デジ化させようってんだから、技術的に何とかならんのですかね。
字幕のスーパーインポーズって、映像に被せて表示するからこうなっちゃうわけであって、映像の放送とは別にデータ放送の情報ルートで流したりとか。
録画には影響を与えずに、リアルタイムで視聴している場合のみ強制的に画面が一回り小さくなって周囲の枠の部分に速報の文字情報を表示するとか。
もはやリアルタイム視聴ばかりじゃなくて、ディスクに録画しておいて視るスタイルが一般化してるわけだし、録画で視てりゃ速報とか関係ないですからね。
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龍の魂

2010-11-28 22:29:28 | Entertainment
「龍馬伝」が完結しました。

最終回は地上波の放映で観ましたが、一年納めのクライマックス、近江屋での暗殺場面のまさにその時に、愛媛県知事選の選挙速報字幕が表示されるいという興醒めの極致。
NHKも無粋なことしてくれるもんです。
まあでも、龍馬が夢描いた「上も下も無い」自由な民主社会の象徴である公職選挙の速報ですから、仕方ないとしましょうか。
幸い夕方のBSハイビジョン放映のほうも録画してあるので、あとでもう一回観直してみようと思います。

個人的に、大河ドラマをちゃんと観たのは20年以上前の「独眼竜政宗」や「武田信玄」以来。
しかもそのときも最後までは観なかった憶えがあるので、一年通してとなると小学生の頃の「峠の群像」以来かもしれません。
といいつつ、「龍馬伝」も初回から観ていたわけではないんですが。
2月くらいからかな?

最初は、その映像作品としてのクオリティの高さに惹かれて観始めました。
撮影、照明、美術などの質の高さが、従来のテレビドラマのレベルを遥かに越えていましたね。
それから段々と内容面にも惹かれるようになり。

社会が成熟し、旧来型の政治経済が行き詰まる中、グローバル化という新たな開国を迫られている今次のご時世において、この「龍馬伝」が描いたものは現代的意義を持っていたように思います。

ドラマの前半部、開明的な思想に傾倒していく龍馬が、攘夷という形で武士社会の真髄を守ろうとした武市半平太と袂を分かっていきますが、その二人が京の土佐藩邸(だったかな?)で最後の別れになる腹を割った語り合いをした場面がもっとも印象に残っています。
大きな目的は共有しながらも、守るべきものを捨てられない武市と簡単に捨ててしまうことができる龍馬。
何かを変えることは、何かを捨てることであり、時に苦しさを伴う。
そのことを誤魔化さずに描くことがこのドラマには通底していました。
そして龍馬も、結局は急激に「変える」「変わる」ことへの反発から生命を奪われてしまいます。

他に特に印象に残っているシーンを挙げると、
・薩長同盟のための西郷・木戸会談実現についに辿り着いた龍馬が、会談に向かう直前寺田屋でみせた得も云えぬ高揚感
・後藤象二郎と対決した清風亭会談の緊張感
の演出あたり。
特に後藤役の青木崇高の怪演は、個人的にこのドラマのベストアクトだったと思います。

それにしても、ドラマとはいいながらも、龍馬という人間の人生を目の当たりにすると、生きる活力が湧いてくる感じがします。
ビジョンをストーリーとして語り、地位の上下を問わず周囲を巻き込むことによって、考えを実現していく。
日常のビジネスでも必要なことですね。
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「写楽 閉じた国の幻」 島田荘司

2010-11-28 00:37:30 | Books
写楽を巡るミステリーについては恥ずかしながらほとんど何も知らなかったんですが、知れば知るほど挑み甲斐のある謎であることを深く思い知らされます。
著者によれば構想20年ということですが、このように小説の登場人物を通じて結論に到達する過程を展開させられると、何だかこれ以外に真相はありえないんじゃないかと思わされてしまう。
それくらい、結論に到達していく終盤は高揚感があります。
さらに、間に挟まれる江戸時代パートが佳い。
蔦屋重三郎とか喜多川歌麿とか山東京伝とか、日本史の教科書で名前をみたような人物が生命を吹き込まれて甦ります。
浮世絵が書かれた当時、18世紀の終わり寛政年間頃の江戸の世相についても生き生きとイメージが湧く。

しかし一方で、小説としては不格好な点も多々あります。
まず680ページにも及ぶ大著でありながら、同じことを何度も繰り返して説明している部分が多く冗長。
しかも現代パートでの登場人物の間の会話が如何にも説明的。
主人公の子供が犠牲になる回転扉事故や、主人公が写楽にのめり込むきっかけとなった肉筆画や、謎めいた美人東大教授の素生など、冒頭のほうで投げかけられた要素が、伏線なのかなと思っていると最後まで全く回収されることなく放ったらかしのまま、中盤以降写楽の謎解きに終始してしまいます。
このへんの事情は著者自身によるあとがきにも心残りとして触れられていますが、もともと週刊新潮で連載されていたものなので、連載を進める中で収拾つかなくなっちゃったというのが本当のところのようです。
せっかく単行本化するなら、その際に整理してすっきりさせればよいのに、と思うのですが。

写楽 閉じた国の幻
島田 荘司
新潮社
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「なぜあの人はあやまちを認めないのか」 キャロル・タヴリス、エリオット・アロンソン

2010-11-27 00:14:23 | Books
心理学で云うところの「認知的不協和」と「自己正当化」について語った本。

「認知的不協和」とは?
心理的に相容れない二つの認知事項(思想、態度、信念、意見など)を抱え込んだときに起きる緊張状態のこと。
人間、不協和が生じると心の平穏が失われてしまうため、相容れない認知事項のうちいずれかを「曲げる」ことによって不協和を解消しようとします。
例えば、「タバコは体に害をもたらす愚かな嗜みである」という認知と、「自分はヘビースモーカーである」という認知が矛盾を起こしたとき不協和が生じます。
不協和を解消するために後者の認知を改めれば「禁煙」という解消方法になりますが、禁煙がなかなかうまくいかないと今度は前者の認知を改めようとする心理が働きます。
即ち、「言われるほど身体に悪くない」「喫煙してても健康な人はたくさんいる」「吸えば気持ちが落ち着くし、悪いことばかりじゃない」などと自分に言い聞かせることで不協和から逃れようとする。
これが「自己正当化」につながっていくわけです。

この本には実例が数多紹介されているのですが、最も身につまされ、共感をもって読んだのは「夫婦間の諍い」の例。

どんなに仲の良い夫婦にだって、配偶者の態度や言動でどうしても気に入らない、許せないという点があるはず。
「この人を愛し、素晴らしい結婚をした」という事実と「この人は自分を尊重してくれない、自分が気に入らないことばかりする」という思いが不協和を起こします。
このときに後者の認知を改め、「自分のほうにも配慮の足らない点があったのかもしれない」「あの人がああいう態度をとったのは何か理由があったのかもしれない(仕事や家事で疲れていたとか)」となれば平穏に済むが、「自分は悪くないのに、あの人はどうしてああなんだろう」と自己正当化が始まると夫婦の亀裂が広がっていく端緒となってしまう。

自己正当化の恐ろしいところは、それがスパイラル的にエスカレートしていくこと。
「自分には問題がない。あっちの性格に問題がある。」と一旦考え始めると、その考えを支持し補強する事実ばかりが目につくようになり、自分自身の悪さを示す事実は目に入らなくなってくる。
そのことでますます自己正当化は強固なものになっていくわけです。
しかも、お互いに。

更に、自己正当化していく過程で相手を非難したりすると、別の不協和が生じることになります。
他人を非難することは普通の人にとってけっして気持のよいことではなく自己嫌悪をもたらすもの。
「自分は善良な人間である」という認知と、「相手を非難した」という認知が不協和を起こし、それを解消するために「相手は非難されても仕方のない酷い人間だ」という考えが頭をもたげてきます。

それでまた自己正当化が強化され、相手に辛く当たる→相手も自己正当化の殻にこもって反撃→ますます嫌悪感が募り…
もはや泥沼状態、後戻り不可能。
そうなってくると、自身の記憶を改ざんしようとする心理すら働き出します。
「最初からあの人を愛してなんていなかった、自分は騙されて結婚したのだ」と…

この本ではピラミッドを別の方向に下りるという比喩が何度も出てきます。
最初はピラミッドのてっぺんですぐ傍にいたのに、別の方向にピラミッドを下りて行っていつしか姿が見えないほどの遠い距離が生じてしまう。

こんな実例が個人レベルから国家レベルまで、これでもかというくらい列挙されていきます。

しかし一方で、自己正当化による認知的不協和の解消という心の働きは、平穏な気持ちで生きていくために必要なもの、という面もあります。
必要悪というわけです。
それでも、自己正当化の罠から逃れることはできないにしても、自分は今認知的不協和に陥ってるな、自己正当化が働いてるな、ということを意識することができれば、不合理な言動に突っ走らないようにコントロールをできるようにはなりそうです。

というわけで、なかなか興味深い内容でしたが、同じことを手を変え品を変えくどいほどに主張している感があり、読み物としては少々冗長な印象です。
あと、児童施設での虐待を巡る訴訟が流行した話などが例示されるんですが、このあたりは米国特有の事例という感じがしてあんまり真実味を感じられませんでした。

なぜあの人はあやまちを認めないのか
キャロル・タヴリス、エリオット・アロンソン
河出書房新社
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日本サッカー、上々な2010年

2010-11-25 23:49:46 | Sports
日本男子が初優勝=アジア大会・サッカー(時事通信) - goo ニュース

後半から中継を観たんですが、押されてましたねぇ。
タイ戦もイラン戦も押され気味の辛勝だったようだし、このチーム、圧倒的にボールを支配するだけの力は持っていないようです。
でも、球際には結構強いな、という印象。
あと、運動量。
強行日程で疲労も貯まっているだろうに、試合終盤になっても走り負けてなかったし、中盤でボール奪ったときには前線に駆け上がる人数も揃っていた。
話題のFW永井は確かに魅力ありますね。
永井の他にも前線は仕掛けられる選手がいるし、実藤の決勝点も落ち着いていて素晴らしかった。

他国がどの程度のメンバーで臨んできていたのか知らないので力関係は何とも言えませんが、大学生との混成、J1でレギュラークラスの選手皆無というチームでこういう結果が出ると、日本サッカーの層の厚さを示しているようで、やっぱり嬉しい。

南アフリカでの健闘、ザッケローニ新監督の希望あふれる船出、そしてアジア大会優勝と、2010年後半は日本サッカーにとって上々な感じになりました。
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どん底から這い上がった男

2010-11-24 21:12:43 | Sports
大リーグ ハミルトン外野手が初受賞…ア・リーグMVP(毎日新聞) - Yahoo! ニュース

全米ドラフト1位→交通事故→ドラッグ&アルコール中毒で出場停止→復活→MVP…なんとも壮絶な山あり谷ありの人生。

しかし日本ではこういう感動的な復活劇になかなかお目にかかることがありませんね(田代ま○しとか、清水○太郎とか、田原○貴とか、性懲りもない人はたくさんいますが)。
まあ現状ドラッグに溺れる人の絶対数が彼の国とは桁違いだからというのもあるんでしょうが。
ハミルトンも、どん底に陥った際にはキリスト教に救いを求めたということなので、信仰の違いという点もあるかもしれません。
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密集とパニックのリスク

2010-11-23 23:15:17 | Society
カンボジア「水祭り」死者378人に 橋の上で押し合い(朝日新聞) - goo ニュース

このニュースを知って思い出したのは、先日読んだこの本。

「生き残る判断 生き残れない行動」

この本の中ではメッカ巡礼を例にとって過密状態になった群衆にパニックが生じる過程が分析されていました。

かつて神戸の花火大会でも多くの犠牲者が出る事故が起こったことがありましたが、気をつけなければならないのは密集状態になれば必ずパニックが起きるというわけでもないということ。
密集状態すなわちパニックというわけではなく同じ密集でもパニックが起こる場合も起こらない場合もあり、且つその発生を正確に予測することは不可能ということ。

考えてみればいつパニックになってもおかしくない密集というのは案外日常的に存在しているように思います。
例えば通勤ラッシュの駅ホームや車内。
あれだけの人間が一所に集まっていれば、ちょっとしたきっかけで何が起こるか分からない。
そう考えるとけっこう恐ろしいかも。
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”鳩・菅”の実像

2010-11-21 23:56:38 | Politcs
鳩山前首相、菅政権に苦言=「何をしたいのか」(時事通信) - goo ニュース

「苦言」の内容は的を射ているんだけど、この人だけには云われたくないというか。
「独自色を鮮明」どころか暴走して事態を収拾不可能にしたことを全く憶えてないんですかね、この人。
実にいい性格をしていますな。

民主党って自由党と合併するまでは長らく「鳩・菅」2枚看板だったわけですが、この二人がここまでパーソナリティが異なっていたとは全然解りませんでしたね。
片や常人には理解しがたい信念で確信的に突っ走る、片や信念も素養も無く日和見で蠢くばかり。

まあいずれにしても、日本の最大野党のリーダーってこの程度だったんだってことが見えてきたことが、政権交代の最大の功績なのかも知れません。
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グーグル・ヤフー提携は何が問題なのか(続き)

2010-11-17 23:28:06 | Economics
昨日の続き。
日経朝刊「経済教室」、「グーグル・ヤフー提携を考える」シリーズの「下」は、林紘一郎・情報セキュリティ大学院大学学長。

グーグル・ヤフーの提携が、独禁法が禁じる「私的独占」「不当な取引制限」に該当するかについては明確な判断が避けられています。
 曰く「一定の取引分野における競争」を阻害しているかどうかは、「一定の取引分野」をどの範囲で線引きするか細部に立ち入った検討が必要であると。

昨日の記事で書いた自分の疑問も、競争している「市場」をもっと広く捉えたほうが実態と合っているんじゃないかという点にあったので、そういう意味では林氏の指摘と重なるところもあるのかなあ、と。

林氏は、そういう論点よりもむしろグーグルの経営者のメンタリティに関心があると云ってます。
「技術的な可能性をトコトン追求し、仮に弊害があればその後で対策を考える」というグーグルの”オプト・アウト”志向は、クロード・シャノンの「情報理論」の正当な末裔であるように思えるとのこと。

個人的にはこういうグーグルの行動様式は嫌いじゃないんですが、林氏も指摘するように世間の「常識」とは間違いなく衝突するし、どこで調和を取るのかは難しい問題ですね。

ちなみに林氏は「グーグルの行動すべてを擁護するつもりはないが」という留保付きながら、グーグルのリスクテークの姿勢には評価を与えています。
以下、引用。
セキュリティの専門家であろう氏の言葉には肯かされるところがあります。

いま、日本企業は自信を喪失し、ひたすら「コンプライアンス」を「法令順守」という意味だけでとらえて、内向きの経営を続けている。株式会社はもともと、多くの出資者がリスクを分担して大プロジェクトを可能にする仕組みであった。そしてセキュリティーとは、ゼロにできないリスクにどう対応したらよいか考察するものであった。ところが、日本では「ひたすらリスクを避けること」に変化してしまっている。
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グーグル・ヤフー提携は何が問題なのか

2010-11-16 23:26:52 | Economics
本日付け日経新聞朝刊「経済教室」は、「グーグル・ヤフー提携を考える」というテーマで滝川敏明・関西大学教授が執筆(今頃になって何故このテーマ?という気はするが…)。
日本のヤフーが検索エンジンにおいてグーグルと提携するのは、健全な競争を制限し、独占禁止法上大きな問題がある、との立場。

指摘されている問題点は大きく2点あります。

・検索連動広告市場におけるシェアが極端に大きくなることで価格競争が失われ、広告主に対する課金が引き上げられる懸念がある。
・グーグルとヤフーの検索連動型広告のイノベーション競争が停止ししてしまう懸念がある。

2点とも理屈は分かるんですが、素人的にはどうも納得しかねるところがあります。

まず前者について。
以前にも書いたことがあるけど、検索連動広告というのは数多ある広告手段の1つに過ぎないのであって、広告主は様々な広告媒体の中からネット広告を選択し、さらにその中で費用対効果を勘案して検索連動広告を選ぶわけです(実際そういう立場で仕事をしたことがあるのでよく分かる)。
検索連動型広告の料金が高止まりすれば、広告主の立場からすると検索連動型広告の費用対効果が小さくなることを意味するので、他の広告手段・広告媒体へ選択をシフトさせるだけではないか。
そうすると、媒体側としては結局、検索型広告の価格競争力を取り戻すために料金を元の通り下げざるを得なくなるんじゃないでしょうか。

後者についても、検索エンジンは絶え間ない技術イノベーションを繰り返してきたことにこそ価値があったのであって、イノベーションを停止してしまい利用者に価値を認めてもらえなくなったら、単に使われなくなってしまうだけではないでしょうか。
そんな自らの首を絞めるような道をグーグル・ヤフーが進むとも思えないし、仮にそうなったとしたら、新陳代謝が大きいネットの世界のこと、取って代わるプレーヤーが代替手段としていくらでも出現するんじゃないかと思います。

何となくこの論文を読んでいると、今の独禁法って、旧来のモノ中心の経済、且つ、相対的にモノが希少であった時代に合わせて作られたものなんだな、と感じました。
モノづくりで高シェアを取るには莫大な設備投資が必要、だから市場を支配されてしまうと簡単には逆転はできない。
一方で、よいモノが希少だったので、価格が高止まりしても消費者は簡単には離反しない。
そういう経済を前提にしてるのかな、と。
ネットでのサービスって、それとはまったく違う世界で、アイデアと技術さえあればあっという間にシェアの劇的な逆転が起こり得るし、成熟社会では質が悪くなればすぐに消費者にそっぽを向かれる。
そういう変化に独禁法がついていけてないのかなという気がします。

グーグルによる検索市場独占は、この論文で書かれているのとは別のところに問題があるような。

同じテーマで明日は別の論者による論考があると思われるので、どんな感じなのか楽しみにしています。
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