そもそも論者の放言

ミもフタもない世間話とメモランダム

アマゾン税

2011-06-28 23:16:41 | Economics

今日の日経新聞夕刊コラム「ウォール街ラウンドアップ」に面白い記事が載っていました。
金融危機後も好業績を続けるアマゾン・ドット・コムについて。

好調なネット通販だが、喜ぶ人たちばかりではない。最も苦々しく見ているのは州政府だ。今の法解釈では、州内に店舗などの物理的な存在がない限り、小売業者に売上税は課されない。しかし悪化する財政対策として、何とか課税したいという動きが出ている。
別名「アマゾン税」とも呼ぶこの動き。多くは「物理的な存在」を拡大解釈して、課税を迫る。全米が注目するのが、テキサス州対アマゾンの争いだ。同州は昨年、物流拠点が州内にあることを理由に売上税の納付を要求。反発したアマゾン側が拠点の閉鎖を示唆。事態はもつれている。

課税権限が州にある米国ならではの話ですね。
日本だと消費税が全国一律の制度なので、こういう問題は起きない。
ただし、今後道州制、税源移譲が進めば、日本でもこういう話が起きてくるんでしょうね。

一方で、ネット通販各社は、州の公共サービスを受けていないと反論する。州ごとに異なる税制そのものが複雑で「連邦で統一された税制がないこと自体が問題」と問う。
この構図を大きく見れば国境を越えた法人税論議とも重なる。既存の境界や制度を突き崩すネットとグローバル化は10年以上の問いかけだ。恩恵が全ての人に及ぶとの期待が後退したときに、摩擦も大きくなっていく。

確かに、その通り。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「国の責任」=「国民の責任」

2011-06-27 23:36:51 | Society

「国の責任で最後まで対応する」「当然、国の責任は逃れられないとの認識だ」…菅サンや枝野サンからよく聞かれる発言です。
こういうセリフを聞くと、政治家や官僚が責任を負うと言っているように聞こえますが、実は政治家や官僚は「国」ではない。
彼らは立法や行政を担っているだけ。
そのことを誤解している人が多いな、と感じます。

例えばこのブログ記事も典型的だな、と。

国も福島原発事故で賠償し無責任姿勢を正せ(Blog vs. Media 時評)

定検あけ原発の再稼働難航問題も、根底は欠陥がある安全審査指針を放置したまま、安全対策の付け焼き刃的な追加で誤魔化そうとしているからです。国の賠償を現実化することで官僚に痛みと責任を実感させるのが、早期の事故収束、破綻したエネルギー政策の合理的再建の近道です。その方向付けこそ民主党が掲げる「政治主導」の出番でしょう。

国が賠償責任を負ったところで、官僚が痛みを実感したりしないでしょ。
そりゃ多少の後悔と良心の呵責は感じるかもしれないけど、たまたまその時、行政の担当者だったってだけで、官僚個人が賠償するわけじゃない。
B型肝炎被害の賠償だって、財源のために増税、なんて話も出ているくらいで、結局「国が責任を負う」ってのは「国民が責任を負う」ってのと同義。
そのことに気づいてない人が世の中多すぎるな、と思います。

しょうもない政治家を選挙で当選させたのも国民だし、無責任な官僚がのさばるのを容認しているのも国民。
だから、そのツケは結局国民に回ってくるというだけのこと。

国民は善良だけど、お上は悪徳…時代劇みたいな分かりやすい構図に疑いを持たない人が多いうちは、この国は変わらないなと思います。
変わるのはすごく難しそうだけど。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「苦役列車」 西村賢太

2011-06-23 23:07:09 | Books
苦役列車
西村 賢太
新潮社


著者の小説を読むのは「暗渠の宿」に続き二冊目。
前作は野間文芸新人賞受賞、そして本作はご存じのとおり芥川賞受賞作品であります。

正直、「暗渠の宿」に比べてイノベーションがあるかというと特に何も感じられません。
煩悩まみれの人生を自虐的に曝け出す作風は微動だにせず維持されており。

「暗渠の宿」収録の2作品が異性との交わりを題材にしていたのに対して、「苦役列車」は若き日の同性の友人との儚き友情を描いたもの。
異性に対しては虚勢、同性に対しては卑屈、いずれにしてもどうしようもない野郎です(笑)。

表題作の他、もう1作収録されている「落ちぶれて袖に涙のふりかかる」は、中年になり作家として活動するようになってからの自身を描いたもの。
こちらもしみじみしていてなかなか乙なものであります。

いずれも実に面白いんだけど、しかし、ずっとこの芸風でいって、果たしてネタが持つのでしょうかね…心配になります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

これで安心だなんてとても思えない

2011-06-19 15:32:31 | Politcs

昨日、海江田経産相が、各地の原発の安全対策が適切に実施されていると発表するとともに、定期点検中の原発22基の運転再開を求めました。

経産省原子力安全・保安院のウェブサイトで昨日の大臣談話・声明と発表資料を読むことができます。

原子力発電所の再起動について(平成23年6月18日)

これを受けて原発の地元自治体からは「特段新しい内容はなく、(再稼働を認めない)方針に変わりはない」(福井県)などの反応を示していると報じられています。

正直、上にリンクした保安院サイトの発表資料を読んでも、これで安心、なんてとても思えません。
ざっくりと、こういう対策が採られていることを確認しました、ってのが並べられているだけで、個々の原発・原子炉の個別条件(稼動年数だとか地理的条件だとか)が考慮されているように見えない。

発表資料の「別添2」に個別の原発ごとの措置が一覧で出てますけど、例えば「全交流電源喪失時における中央制御室の作業環境確保」という項目をみると「<電源確保>・電源車(緊急安全対策により既設)」とか「<運転手順の整備等>・運転手順の整備済み」とか書いてあるだけで、これで十分な措置と言えるのか、誰か判断できるんでしょうか。

いや、実際にはもちろんこの発表資料が全てではないんでしょうけど、だったら詳細な調査結果を包み隠さず全部さらけ出して、国内外の専門家の目に晒して、それで初めて「安心」って言えるのでは。

相変わらず、浜岡については、大臣談話で、

想定東海地震とそれに伴う大規模な津波襲来の切迫性という特別な状況を踏まえ、「一層の安心」を確保するため、例外として、運転停止を求めた

なんて言っちゃってますが、これも詭弁です。
被災の確率が高かろうが低かろうが、いざシビアアクシデントが起きてしまった場合の対策を講じておかなければいけない点では同じなわけで、「浜岡と何が違うんだ?」という知事さんの懸念は正当なものと考えます。

電力供給不足の経済に与える影響を鑑みれば、一刻も早く安全性を証明すべきであって、そのために必要なことは徹底した情報開示に尽きると思うわけです。
もう誰も安全・保安院なんて信用して無いんだから。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「松永安左エ門―生きているうち鬼といわれても」 橘川武郎

2011-06-12 21:46:58 | Books
松永安左エ門―生きているうち鬼といわれても (ミネルヴァ日本評伝選)
橘川 武郎
ミネルヴァ書房


戦前の「五大電力」の一つ、東邦電力の名経営者にして、戦後の民営九電力の生みの親となった「電力の鬼」松永安左エ門の評伝。
評伝形式ではありますが、今まさに日本社会を震撼させている原発や電力不足、東電の補償問題に連なる日本の電力行政の歴史を振り返ることができる著作であります。

著者の橘川教授は、ちょうど今、日経新聞「やさしい経済学」に「日本の電力 民営の成り立ち」という連載をされており、そちらを読めば本著のサマリーを理解することができます。

明治時代に電力事業が興って以来、戦前の日本の電力事業は一貫して民営形態にて行われてきました。
「科学的経営」によって東邦電力を発展させてきた松永は、「電力戦」と呼ばれる五大電力による激しい需要家獲得競争が繰り広げられていた1928年に「電力統制私見」を公表します。
そこでは、全国を九地域に分けて民営民有の一区域一会社による発送配電一貫体制を構築して、料金は認可制、監督機関として公益事業委員会を設けるといった、戦後占領期の1951年に実現した電気事業再編成を予見するかのような先見的なものでありました。

太平洋戦争を挟んだ1939年~1951年の間、日本の電力事業は国営の独占会社・日本発送電と九つの配電会社による電力国家管理の時代がありましたが、松永はこれに徹底的に抵抗し、電力事業を民有民営により行うことで、電力料金の低減と電力供給の安定的な提供を両立することへの信念を抱いていました。

このあたりは、現代に生きる我々の感覚からすると意外に感じられます。
電力会社といえば、民間の会社といいながらも如何にも「お役所」的な存在で、規制に守られて非効率な経営を繰り広げているというイメージが強い。
原発推進における官民持たれ合いをも考えるに、民営による電力事業という形態を強調することの意義は正直理解しづらいところがあります。

が、著者の解説によれば、1951年の電気事業再編成以降、高度成長期においてはこの民営による電力事業という体制が非常にうまく回っていたとのこと。
東京電力の木川田一隆、関西電力の太田垣士郎・芦原義重ら、松永の影響を受けた名経営者が自律的経営を展開し、市場競争はなくとも各電力会社が低廉で安定的な電力供給を競い合う健全な私企業性が発揮されていた、と。

そのような戦後の九電力体制を取り巻く状況も、石油ショックを契機に暗転します。
火力発電のエネルギー源である原油価格の高騰、高度経済成長が止まったことによる電力需要の頭打ち、電力消費の夏季ピーク尖鋭化による負荷率(平均電力/最大電力=電力設備の稼動率)の低下、電源開発の立地・環境問題の深刻化など、電力各社は多重苦の同時発生という逆境に直面していきました。
こうした逆境の中、電力各社は電源の脱石油化路線を指向していきますが、著者が「石油危機のトラウマ」と呼ぶように、産業の体質を硬直化させてゆくことになります。

特筆される問題点として、「LNGの割高な調達」とともに挙げられているのが「核燃料サイクルへの固執」です。
後者については、先進各国が技術的理由や経済的理由から自前の核燃料サイクル確立を断念していく中、日本だけが官民一体となって固執を継続し、国際的に取り残された存在になっていったことが指摘されています。
行政への依存を強めた電力各社は、高度成長期に見られた自律的な経営姿勢を喪い、立地問題の解決を電源三法スキームによる交付金政策に委ねて、反原発運動に対抗する一枚岩的な行動様式を強めるとともに、横並びの料金値上げを繰り返す「お役所のような存在」に変貌していくことになります。

やがて電力各社の非効率な経営に起因する電気料金の内外価格差がやり玉に挙げられるようになり、折からの規制緩和路線もあり1990年代以降電力事業の自由化が漸進的に進められてくることになりました。
本著は2004年に刊行されており、当然のことながら東日本大震災による福島第一原発の事故、反原発意識の高まりによる全国的な電力供給危機といった事態を踏まえた内容にはなっていませんが、日本の電力業の未来を予測した終章の記載はなかなか示唆的です。
即ち、電力各社が電力自由化をビジネスチャンスとして「松永安左エ門精神」による自律的経営に復帰すれば、電力各社相互が市場を争奪し合う「九電力体制の発展的解消」が遂げられる可能性がある一方、経営革新に対する消極的な姿勢に留まることで世論の批判を浴び続けることになれば発送配電分断を強制される「九電力体制の突然死」もあり得るとしている点です。
(因みに、著者自身は、電力自由化に起因して2000年に発生したカリフォルニアの電力危機を教訓に挙げながら、安易な発送配電分離には懐疑的であり、発送配電一貫経営による垂直統合の経済性が実現されていることを重視すべきとの立場です。)

東電の賠償問題もあり、原子力推進政策の転換が不可避な状況を考えれば、いずれにしても今の九電力(沖縄電力を含めれば十電力)体制を現状のまま維持することは困難でしょう。
再生エネルギーのイノベーションがどれだけのスピード感で進むのかは別として、発電事業の自由化、発送電分離、スマートグリッド化という方向に進んでいくのは間違いない情勢と思われ、一方で原発事業の分離、場合によっては国有化なんて話も出てくるのかもしれません。

現行の地域独占電力体制が、非効率ではあるにせよ、国際的にみれば驚異的なレベルで安定的な電力供給を実現してきたのは事実なわけで、自由化の過程では電力の安定供給が損なわれる事態が発生する恐れがある一方、原発停止やエネルギー価格の継続的な高騰により中期的には電力料金がますます高騰せざるを得ないような気はします。

この本を読むまで、東京電力/関西電力/中部電力…という地域電力会社体制って、NTT東日本/西日本やJR東日本/東海/西日本…などと同列のイメージで考えてたんですが、成り立ちとしては全く違うんですね。
もともと官営独占だった電電公社や国鉄と違って、電力会社は全国に群雄割拠の民営会社があり、それが歴史の流れの中で再編を繰り返して今の体制となった。
そのイメージを一新できただけでも、読む価値がある本でした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする