一枚岩がそんなにたくさんあるとは思えません

 フランスの暴動事件に関しては、あちこちのブログでとりあげられるようになりました。わたしもワールドミュージックにかこつけて書いているうちに、いろいろこの問題の諸方面での扱われ方自体が気になってきました(もっとも今回の事件の背景に経済的貧困の問題があるのはいわば当たり前でわたしが述べるまでのこともないのに対し、こういう問題に対して文化というものがどういう働きをしうるのかということについて日本ではかなり粗雑なイメージしかないように思われます。だからわたしが文化、音楽に焦点をあてることはまちがいではないと思うのですけど・・・)。

 いろいろブログのあるなかでもTBをいただいたヤマグさんのご指摘はたいへん適格なものと拝察いたしました。 (^_^) m(_ _)m
 わたしのブログについてのご指摘も的をえたものです。たとえば全てのフランス人がフランス精神(というのももちろんわたしの想定するフランス精神です)を100%具現しているかというと、ヤマグさんのおっしゃる通り、そんなことはありません。ただ、矛盾を含んだ話ではありますが、ものを書く時にはどこかで一般化するところがないと何も書けない気がしてもどかしいというか歯がゆい思いをするのです(フランスというのはとくに複雑な対象で、これをいっぺんも見たことのない人に理解してもらうことは、結局不可能なのではないかと思えるくらいです)。このブログでのいろんな主張に全部実例を十分あげて証明することはわたしにはできません。だからだいたいこのくらいのところかと、今のわたしには思われる、ということでしかありません。ご寛恕下さい。
 他にもコメント、TBいただいた方に御礼申し上げます。 m(_ _)m みなさんにコメントをお返しできない失礼をお許し下さい。じっくり考える時間がなくて自分の考えをある程度まとめるだけで精いっぱいなんです・・・ (;_;)

 さて今回はフランスの暴動事件が日本の人々の目にどのように写るか考えてみたいと思います。 
 最大の問題のひとつは、日本の新聞の報道のみを見ている日本の読者がフランスの現実を想像すると、つい「フランス人は白人であり、おしなべて裕福である。おしなべて人種差別主義者であるか人種差別を容認しているかであり、気持ちの上で一枚岩をなしている。移民二世層はおしなべて不当な抑圧に苦しんでおり、いつ全員が不満を爆発させるかもしれない。いったん反抗運動が起こったらそれに参加する者もしない者も気持ちの上で一枚岩をなしている」ように見えてしまいそうなことではないでしょうか。
  
 そんなに一枚岩がたくさんあるとは、わたしには信じられません。 (^_^;)
 
 フランス国民の白人部分が一枚岩で、自由、平等、博愛、人権・・・等々の美名を掲げならがら、裏でもまた一枚岩になって人種差別を平然とやっているというイメージ(言い換えれば「美辞麗句を並べるくせに卑怯」という、わたしの知っている限りでの「日本人」のいちばん嫌悪するイメージ)が正しいとは思えません。人種差別を平然とやっている人たちと、フランス建国の理念を文字どおり信じて人道的方向に世界が進むよう日夜努力している人が同一人物で、そういう人たちが一枚岩のグループになっているとは思えないのです(そういう例がないとは言いませんが。それはそれで人間性というものの奥深さを示す興味深い事例、文学で扱うべき事例といえるのではないでしょうか)。
 また移民二世、三世が一枚岩になってフランス社会に敵意をもって反抗しているとも思えません。「フランスの移民同化政策が完全に失敗しているわけではない。暴力行為をお貸した若者らは、仏共和国の理念である『自由・平等・博愛』を語る。彼らは自分たちも完全な仏国民だと認知してもらいたいのだ」というロラン・ムキエリの言葉(読売11月10日)は大筋あたっていると思うのです。

 そこには、書き方の問題がたしかにあります。
 ジャーナリスムの報道では日本とはずいぶん違うフランスの社会についてのただし書きをいろいろ添えておかないと、新聞記事の字面自体は必ずしも間違いとはいえなくても、大多数の読者の脳裏にずいぶん現実と違った一枚岩がたくさん登場する単純な像が定着してしまうように思います。もっともただし書きを添えても効果は100%ではないでしょう・・・
 
 だから、それは読む方の問題でもあります。
 この事件をもって「フランスの移民政策は(一枚岩みたいにまるごと)失敗であった」ことの証拠と言いたそうにする論調も単純すぎるように思いますが、これは、「白人が非白人を差別するという根深い不正が正されなければならないのだ」という、日本人の心の底流にある思いが、どうしても事態を、報道をそのように読ませてしまうのかな、という気もします。
 ちなみに移民政策問題については、100%間違いの政策が数十年、なんの見直しもされずにのほほんと続いてきた、ということではないようにわたしには思えます。
 いったんフランスに来た人々は数十年のスパンに渡って生活し続けているのです。その間フランスの移民政策も相当変わります。その変化の要因には経済不振という外的要素もあれば、人権尊重という理念の要素もあります。それにあわせて、フランスの人々の移民に対するまなざしも変わります。
 1998年、ジダンたち移民二世が主力のチームがワールドカップでフランスに勝利をもたらし、1、2、3、ソレイユ・コンサート(上は録画DVD)がベルシー・スタジアムを満員にした頃は、移民政策はある程度成功しそうだし、いい方向に向かいそうだとみんな思っていました。

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 はなしかわりますけど:だからこういうのフランスで話題になってますって日本でも少しは報道して、レコードも出したらよかったのに、と思うんです。
 だけどユニバーサルさん(あえて名前を出します)はビジネス以外のことはまったく冷淡でした。いまだにライの歴史的イベント、アン・ドゥ・トロワ・ソレイユは、レコードもビデオもDVDも日本盤が出てません。
 レコード会社は営利企業なのですから、利益の度外視などというド素人的なことはやりたくない、だいいち株主に対してそういうことは許されないと思うのはいわば当然なのですが、やはりこれも日本人の性というべきか、「禁欲的に利益追求に走ってしまう」ために、結果的に文化流通が阻害されてしまう現象が起こっていると思います。
 そして文化の流通が阻害されていると、社会の現実も同時に伝わらなくなってしまうのです。1998年ころどれだけライが盛り上がったかということも、また2004年でさえフランスのクラブで一番かかった曲はライ系統の曲 Un Gaou a Oran だったということも、日本では全然知られないままなのです。

 皆さん、こういうのってどうしたらいいと思われますか?
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