授業はイベントに、イベントは授業に

La classe est une chose qui a lieu, se passe une fois pour toutes. Elle n'est pas un équivalent du document, écrit ou sonore, qu'on utilise dans la classe. La classe est inséparable d'une personne qui se donne dans la classe et qui montre que ce qui est donné vaut la peine d'investir du temps et du travail d'un être mortel dont la force et la vie ont forcément une limite.
いま他の先生方と同じようにわたくしも授業のためにがんばって「教材」をどんどん作っています。ただ、それが普通の授業をビデオで撮ったものであれ、パワーポイントに音声をいれたものであれ、他のものであれ、教材は「授業の等価物」でないことははっきりさせておかなければいけません・・・ 有名な先生が優れた「教材」をビデオやパワーポイントで作る;その先生が退職するときに勤務校が「おやめになったらどうせ使われないのですから、学校に引き取らせていただけませんか」てなことを言って代価を申し出る;有名な先生でもお金は欲しいしその方面でもう業績を上げる気もなかったとしたら、妥当な代価でその教材の使用権を売る;学校としては「〇〇先生の授業」というものを持っていることを、持ち続けていることをセールスポイントにできる;レポートのチェックのできるひとを雇っておけば、特に高給の先生を雇っておく必要はない・・・ そうなると若い人が職業として学業を続けられる可能性を減衰させるはず。初音ミクの出現が修行中ミュージシャンのアルバイトを困難にしてしまったように。

結局それに類したことが起こるのは不可避なのかもしれません。

そうなっても、学業への嗜好は続くだろうし、精神は思索を続けようとするでしょう。それは「人は知ることを愛する」からですが、それよりも「この営みは力も命も限りある存在が喜んで労力と時間を捧げる価値のあるものだ」ということを「先生」から自然に伝えられるから、であるはずなのです。
命はかない人間が喜びと共に教室内で語る言葉は、アクションペインティングの刻印のようなものを自らの身体に刻むアーチスト同様、「先生」の身体とともにあるべきで授業は、人間の身体が一回きりの生のものであるのと同じに一回きりのもの――ととらえるべきだと思います。



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いま必要なこと 1.女性への配慮

Ben, à mon avis, le Japon ne doit plus être si machiste institutionnellement après la crise coronavirus, comme avant. N'oubions pas que la culture proprement japonaise a été inaugurée par les femmes intellectuelles comme Sei Shonagon ou Murasaki Shikibu (Lady Murasaki)...
わたくしが最近変なことを言っておりますのは、要するに「まず」これです。800年くらい前に北条氏が権力を握って以来、日本の指導層は女性の力を低くみようとする「武」のひとたちがやってきたんだけど、いまや女性の力を生かさなければ日本社会はにっちもさっちもいかないところまできたのではないでしょうか。ただ現指導者層の政治家のひとたちのバックにはたぶん非常に男性優位的傾向のひとたち、団体が控えていて、たぶんそのひとたち、それら団体の構成員は平均年齢が高くて、自分たちが消えてしまう前に女性を押し返さないと「日本」自体が潰れると信じておられるのだと思いますよ。安倍首相の振る舞いはそういうひとたちの考え方についのってしまっているもの、なんではないですか。あとはネットの発達と若者の徹底した平和志向ですね。アルジェリアの日本ファンの方々、よく見ておいてくださいね。

この記事、すぐ消えちゃうかもしれませんが。
これ
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Direction de notre préfet 谷本石川県知事の方針


M. Tanimoto, préfet de Ishikawa, déclara, le 20 mars, la levée de demande officielle d'annulation des manifestations organisées au niveau préfectoral, dès le 1er avril, sous quelques conditions. Il est à remarquer la prolongation en principe de demande d'annulation ou de report des manifestations dont la plupart des participants sont des personnes agées, les plus exposées à l'aggravation en cas de contamination des covid-19.

現在日本で、この文脈で使われている「自粛」とか「要請」とかを英語やフランス語でどう訳したらいいか、これは非常に難しいと思うのですが、こういう無力感は結局のところ恥ずかしいと思うべきことではないかもしれません。とにかくこういう言葉の使い方で社会が回っているので・・・ わたしだったらフランス語には上のようにします。これでも完璧には程遠い感じがします・・・ 「へたくそ、こういうときはこう言うんだ」と教えてくださる方は歓迎いたします。だって、日本の外にいるフランス語話者の友人たちに日本で起こっていることを正確に伝えたいじゃないですか。そもそも伝達が可能なことならば。

専門者会議からは「全国一律の自粛要請はせず、地域の感染状況に応じて主催者が判断してほしい」という話なので、谷本知事は別に国に逆らっているわけでもないはずです。ただわたくしとしては「新型コロナウィルス感染症対策本部会議・本部長」という立場で知事が発した「方針」の中で「感染すると重症化しやすい高齢者が中心となる催しについては原則、中止または延期とする」(『北國新聞』2020.3.21)というのは、かなりつっこんでいて注目に値するように思えるんですが、他国の方、他県の方、いかがでしょう?
知事さんは「自粛による副作用で地域経済が奈落の底に落ちていくようだ」(同)ということも言っておられますから、結局経済第一主義ですか、という声も出るかもしれません。でもわたくしとしては知事さんの言葉の下には「文化権」「文化に対する権利」le droit pour la cultureみたいなものがある、と思うのです。文化というものについて人間はひとりひとり、「作り」「享受する」権利とともに「伝える」権利も持っているんじゃないか、ということです。


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ザ・論文1

以下、わけわかんないと思いますが、なんか載せたいので、載せます。
そのうち理解可能なことばにします。




ひとは何のために文学作品など書くのだろうか?
ことばによって世界を征服し、支配するためだ。
エイハブ船長がその男たちとともに、精液の匂いのする巨大なクジラを追って日本近海に展開し、その叙事詩を詠う。それが文学だ。
文学はそれゆえ、ひとつの生き方、唯一の賢明な生き方だ。
世界のありのままの姿、これまでいかにして動き、これからいかに動いていくか、その原理が見えるなら、もはやひとにとって恐れるべきものはない。賢人はすべからく文学者だ。かれらは「死ぬ」ことはない。

カネッティはその「不死」の章をスタンダールにささげた。

スタンダール、という仮の名で知られるかの文学者もまた世界の全体の姿、ありのままの姿の把握を希求した。LO-GI-QUE でもってhic iter ad astra を夢見た。
そしてそれはかなり成功した試みであったと思われる。

人生初の成功体験が数学であったこの人物は、きわめて主体性なく、いきあたりばったりに、人生を駆け巡った。主体性? それはなんだ? それはある種の偏見の存在をしめすに過ぎない言葉ではないか?

Recevoir et jamais prendre.

スタンダールのどの旅が最も彼のものだったか? 彼の作のほとんどは下敷きの上に塗られた絵だ。
イタリアというキャンバスの上に描かれた『ローマ、ナポリ、フィレンツェ』のみが真の彼の旅である。
イタリアを経めぐっているが、念頭にあるのは世界全体、人類全体史なのだ。だから欧州の主要民族が登場する。
全体史のために、イタリアを自由にめぐるのだ。

もっとも「下敷き」がないことはない。ゲーテの『イタリア紀行』だ。

スタンダールは、ひとりで知的形成をしたひとだ。彼の青春は彼をひとつところにとどめなかった。いつも決まった対話相手がいたわけではない。「もーれつ」に勉強していたが、それは本、著作相手だ。
だから「私的言語」の塊になった。
おそらくはMocenigoとはその私的言語による思索の主体のことなのだろう。
ノートにその名を書く分には、何の気兼ねもいらない。

したがって、いったん外的な「影響」を脇に置いて、彼の全著作のなかの言語の連関を考えてみよう。さいわいなことに彼は文学デビューした際にすでに知的形成は終えており、各タームはほとんど常数と言ってよい。

たとえnobleの概念が晩年になってやっと把握されたとしても―おそらくそれが『パルムの僧院』で提示されるものなのだ―

赤と黒の赤は頬紅、黒はカラッチの絵の黒、なのだろう。
どちらももちろん『ローマ、ナポリ、フィレンツェ』に出てくる。
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首里城を襲った不幸の報に接し、深く哀悼の意を表させていただきます

Je déclare que je conçois la plus grande fureur et haine pour les personnes responsables de cette tragédie.
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La musique pour le Japon des jeunes

"Certes, les sommets (nulle part égalés) du snobisme spécifiquement japonais que sont les théâtre Nô, la cérémonie du thé et l'art des bouquets de fleurs furent et restent encore l'apanage exclusif des gens nobles et riches. Mais, en dépit des inégalités économiques et sociales persistantes, tous les Japonais sans exception sont actuellement en état de vivre en fonction de valeurs totalement "formalistes", c'est-à-dire, complètement vidées de tout contenu "humain" au sens "historique". (Alexandre Kojève)

Le voyage de Kojève au Japon c'était en 1959. Je crois qu'il a quelque peu exagéré les choses. Tout ce qu'il a vu en Japon c'est le Japon des samouraï. Le Japon n'est pas que le pays des samouraï.

Heureusement, après, un développement économique est survenu, beaucoup plus de jeunes peuvent rêver à un moment de vie au campus et s'acheter un instrument (pour le choeur a cappella on n'a même pas besoin d'en acheter un). Si les jeunes rockeurs arrivent à S'exprimer plus ou moins, j'appelle ça "humain" et "historique".

... Seulement le jazz risque de tomber dans le côté de Nô, thé, fleurs, et la musique du monde, autrement dite la diversité planétaire de la musique n'est pas encore dans "l'apanage" des générations à venir du Japon. Il faudrait créer un sâkuru pour la World music...
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ハリルホジッチ監督にやっと署名をお送りできました。

みなさま

少し前にハリルホジッチ監督へ、監督を支持する運動であつまりました署名とコメントをお送りしました。

監督は、この運動を始めてから一度も日本にこられず、わたくしもフランスに渡る
機会がなくて、そのうち監督が訴訟を取り下げられて、署名をお渡しする機会を失した形になっておりました。
数も思ったほどは伸びず、少々気落ちもしておりました。

しかし、詳しくは申し上げませんがあるルートで集まりました署名とコメントを監督にお送りすることができました。
署名をお届けした際、監督からコメントをいただきたかったのですが、これはかなわず、皆様へはいまごろご報告することになってしまいました。
たび重なる怠慢をお許しください。
でもとりあえずわたくしも肩の荷をおろさせていただきました。

虫のいい考え方かもしれませんが、案外このタイミングがよかったかとも思います。
ご存知の通り、ハリルホジッチ監督は先日モロッコのナショナルチーム監督に就任されました。
日本での解任は残念なことでしたが、世界的には監督の実力はしっかり評価されていることがあきらかです。
監督自身、日本からのエールを受けてもいい心境におられるものと思います。

日本でのことは、何かの間違いなのだと思われます。
わたくし個人的には、まだこれからハリルホジッチ監督の名誉が日本でほんとうに回復される機会は、ありうると考えております。そういう機会があればのがさずとらえたいと存じます。

ただこの署名キャンペーンは、今月末をもって閉めさせていただきます。
今日から9月末日までの署名は、それだけまとめて監督にお送りします。

みなさまのご声援に感謝いたします。
監督の日本での名誉回復に関連する情報がありましたら、お伝えいただけますようお願い申し上げます。
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ハリルホジッチ氏の名誉回復のために


2018年のサッカー、ロシア・ワールドカップの熱狂も、もう昔のこととなりました。

大会直前の、日本代表チームの監督であったハリルホジッチ氏の解任をめぐる騒動も、もうほとんど過去のことです。

ハリルホジッチ氏自身も新天地フランス・ナントで活躍しておられます。選手の方々を始めとする日本サッカー界に関わる方々もそれぞれの場で努力を重ね、研鑽を積んでおられます。

いまさら運命を変えるわけにはいきません。この事件の推移のなかで運をつかんだひともつかみそこねたひとも、得をしたひとも損をしたひとも、もうこの事件について実質的に何も心配することはないし、こだわることの意味もないと思います。



ただ名誉のことだけが残っています。ハリルホジッチ氏が損害賠償額1円の訴訟を起こしてまで守りたく思われた名誉だけが。



ハリルホジッチ氏の業績はたしかにありました。

ハリルホジッチ氏が教えられたことは、日本のサッカー選手のみなさんにはしっかり伝わっています。コミュニケーションはしっかりとありました。日本チームは強くなれたのには氏のおかげが確かにありました。



ここでハリルホジッチ氏の業績が公にずっと否定されたままであるということは、この上ない非礼であり、一番品格を欠くことのように思われます。それは日本にとって、不名誉なことです。



このようなことは選手の皆さんがいちばん分かっておられることと拝察します。

ハリルホジッチ氏の業績をいくら否定されても、選手の皆さんの心の中まではどうすることもできません。それをそのままにしておくことは、これまでに活躍した選手の皆さん、またこれからの日本サッカー界をになう選手の皆さんの心の中で、品格のない日本サッカーの姿を永遠にとどめることになります。


わたくしは署名運動を行い、支持を集めました。集まりました署名は氏とFIFAにお届けします。


わたくし自身はサッカー界には関係のない者です。ただ2014年のブラジル・ワールドカップ、アルジェリア=ドイツ戦のハリルホジッチ氏の素晴らしい戦いに魅了され、この人、好きだな、と思いました。それでこの人のためにひと肌脱ぐ気になりました次第です。

ハリルホジッチ氏の起こされた訴訟に判決が出て決着がつきましたら、もう一度このブログの「ハリルホジッチ氏の名誉回復のために」をご覧になってください。
お願いいたします。



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ハリルホジッチさんを忘れないで!

日経新聞、2019年5月3日。
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紙媒体の本、雑誌を残すことについて(再改稿)


そろそろわたくしも退職に向けて大学の研究室の整理を考える年頃ですが、今の時代には紙媒体の書籍というものの価値がとてつもなく下落しています。単純に考えれば、捨ててしまうのがいちばん合理的です。

稀覯本を買う趣味のないわたくしの持っている本などは、日本のどこかの大学に所蔵があるはずで、要るときにはそれを借り出して――ありがたいことに図書館相互貸借・複写システムというのも急激に充実しました――必要部分をコピーすればよいのです。「持つ」「所有する」必要はありません。「持つ」ことをすればそれだけ場所をとるわけで厄介です。

そういう時代になっています。
でも、わたくしのように「大学」周辺にいる人間は、何かもう少し考えるべきではないか、という引っかかりがあります。

わたくしの世代は修士論文をタイプライターで打った最後の世代でした。これまで数百年、基本的に変わらなかった「研究」と「発信」のあり方が根本から変わるのを、またその変わり方がどんどん加速して止まる気配がないのを、見てきました。
そういう意味では、数ならぬ身ながら以下のようなことを言い出すのにはふさわしい世代の者であるかもしれません。

***

つい「最近」まで「研究」にいちばん大切だった紙媒体の「本」「書籍」というものは、「大学」周辺にいる者にとって、「大学」という制度との関わりにおいて、自分の退職後、死後にどのように扱われるように配慮すべきでしょうか。

何も考えずに放置しておいて玉石混交で全部あとの人たちに処分される、捨てられる、ということを甘受する、というのがいちばん合理的で面倒がない、でしょう。ただそこでいつも頭をよぎるのは、たとえ全ての本の内容がデジタル化されてネット上に存在するようになってもこの日本列島の上に万人が使える状態にある「もの」としての本が一冊もなくなったら、やっぱりまずいだろう、と思わせる著作がたしかにある、ということです。「長い間には、何があるか分からない」のですから、完全滅失の回避は常に考えておくべきことだと思われます。
日本語の本ならともかく、外国語の本であれば日本になくても「本国」――「フランス本」でいえばフランス(「英語本」は別として・・・)――にあればいいではないかという考え方は、しないほうがいいと思われます。日本語使用地域に紙媒体の本、「もの」があるということは、これに関心をもったフランス語使用者で日本語使用者である人が確かにいたというしるし、あかしであり、それは意味のあることだと思われるからです。これだけではまだまだ根拠薄弱ですが。

たとえば、現時点でCiNiiで検索してみて三冊以上、地理的にある程度分散して公的図書館に所蔵があれば、これは決然と捨てることにして、それ以下なら手持ちの一部を大学に寄贈しよう――寄贈を受けてもらえればの話ですが――と、こころに決める、というスタンスがありえます。それでも本を捨てるのは嫌だという心の叫びはどうしても出てきますが(何かのジャンルでまとまったものは特別コレクション的にどこかにかためて保存してもらう道もかんがえられなくはないです(個人的なところで申し上げるなら、松原雅典先生とわたくしと二人スタンダール研究者が出たおかげで金沢大学にはスタンダール関係書籍がかなりまとまってある、ということは利用できます。紙媒体書籍を物理的に「まとまって」存在させるということから当該作家が残されるべきものとして周知され、フォーカルポイントのような機能が発生するのを狙うということは考えられます)。

「図書館が引き取ってくれるならありがたいことで、どんどん引き取ってもらえばいいではないですか」という考え方もありますが、それは日本列島全体からみて「死蔵」が多くなるのではという心配を生みます。新しい、喫緊の問題・課題を扱った書籍を入れにくく、また見えにくくしてしまうことは避けた方がいいです。これについて、次に考えます。

補足:音素材についての私見・私的思いを申しますと:わたくし所蔵の、いとしのライのCD、カセット、ビデオ等の音源群は、わたくしの死後どうなるようにしておくのが「よい」のか。こんなものはどこの機関も引き取ってはくれないでしょう。ただこの問題は実際に処理が必要になる時期が不定で、あるいは大学退職より何年もあとになるかもしれないので、もう少し音楽受容・保存形態がどうなっているかを見てもいいだろう、なにしろ音楽伝播の方もSP, LP, CD, カセット, ダウンロード, vinylなどなど、一人の人間の生命のスパンの間に根本的変更が何度もなされたからには・・・というようなことを考えて、自分の死のことはあんまり考えないようにしてしまうのは、やっぱり人間の本能的ミブリかもしれません。

***

知の領域、関心領域、需要のある領域もどんどん広がって、変わっていきます。それに伴って、読まれるに値する紙媒体の本、定期刊行物も変わっていくので、喫緊の問題・課題を扱った紙媒体書籍をだれでもが使える形にして、また見えやすい形にして後世に資するようにしておきたいではないですか。

今関心の中心を外れている領域の本が公的な書架の前面にあり続け、また定期刊行物がかなり惰性的に買い続けられ、書庫を埋めていくというのは、それ自体ほんとうに悪いことかどうかは分かりませんが、それによって新しい関心が人の、とくに若い人の視野に入ってくるのを妨げかねない状態というのはいかがなものか、と思われます。事情を知らない人に、意味のない本を買いつづけているのではないか、という疑問をもたれてしまうのは、避けた方がよいでしょう。

そこで、こんなことも考えられるかと思います:

①広い分野の重要と認められる単行本(新刊かどうかを問わず)が、もれないように、不必要に重複しすぎないようにして公共図書館に所蔵されるように、公費を使って購入したり、私費購入したものを寄贈したりする意志のあるひとが率先して連携をこころがけてはいかがでしょうか。

②広い分野の重要と認められる定期刊行物が、もれないように(少なくとも二、三箇所で定期購読されるように)、不必要に重複し過ぎないようにして公共図書館に所蔵されるように、公費を使って購入したり、私費購入したものを定期的に寄贈したりするつてのあるひとが率先して連携をこころがけてはいかがでしょうか。

③これまで日本の知的営みの中で馴染みのなかった領域を扱う定期刊行物がひとびとに可視的であるように、そのような領域の存在を意識したことのない人の視野に入るように、紙媒体のものが公共の図書館の開架図書として存在し、手にとって読める状態におかれるよう関係機関にはたらきかけてはいかがでしょうか。

という三点です。


②について私的に補足しますと、わたくしの念頭にあるのはAfriculturesとかMigrations-sociétéとかBanipalとかの定期刊行物です。

Africulturesの紙媒体は、Ciniiで出てくるものとしては一か所、つまり金沢大学です。わたくしの研究室の、本棚の上に積みあがってますから、あんまり若い人に可視的とは言えないです。とにかく現代のアフリカの文化を知るための貴重な文献です(CiNiiのデータはちょっと変です。最新号まであるはずです。2019.5.22.)。

Migrations-société は三か所ありましたが、しつこく今も取り続けているのはわたくしのところだけのようです。これは世界の移民状況について教えてくれる有益な論文集です。・・・日本がどういう政策をとることになるにせよ、今後こそ必要度のあがってくる領域であるのは疑いないように思うのですが。

Banipalは一冊一万円以上するとんでもない雑誌ですが、アラブ語圏の文学をせっせと英語に訳して紹介してくれる貴重な定期刊行物です。わたくしも実はほとんど読む時間がないのですが、半分は、これの紙媒体版を定期購読しているところが日本にある、という「事実を作っている」感覚で買い込んでいます。

どれも、わたくしが大学を離れれば誰も続けて取ってはくれないと思うので――ふさわしいひとが金沢大学にはいないと思うので――なんとかしなければ、と思っております。
もっとも心配するより以前に、雑誌がつぶれるかもしれませんが。最近どちらも刊行が不安定です。

③についてはなによりもまずJeune Afriqueを、もっと多くのところで目に見えるように置いてほしい、置くといい、というのを切に訴えたいと思います。


補足:「電子ジャーナルに入ってるのがあるのじゃないか」と言われるかもしれませんが:

電子ジャーナルに入っている分にはデジタル媒体の致命的弱点、つまり、たとえその雑誌が入っていてもしょせん「もの」ではなく「可視的」でないと、そういう領域があることを知っている人には使えても、そもそもそういう領域があることを知らないひとには気づかれないというハードルがあります。これを乗り越えられるような工夫が必要だと思います

それに電子ジャーナルは、突然値段が高騰して大騒ぎになる、そういうものであることは最近多くの機関が痛感しておられることだと思います。こういう状況はやがて落ち着きをみせるようになるかもしれませんが、いつのことでしょうか・・・



以上のようなとりとめのない夢想について、どんなふうにお考えになるでしょうか?

これを思索、連帯、行動のきっかけにしていただけましたら幸いです。





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