国名からヴを消すというのは・・・


 意図のよく見えないこの法案ですが・・・

 わたくしは、本当はこの法案は「ベトナム」を念頭においているのではないか、と思うんです。
 ベトナムはベトナム語で Việt Namですから最初の音はどうしても「ヴ」になる国名です。英語やフランス語でもそうですね。

 「ベトナムは日本語では、元からベトナムじゃないか」というのは、確かにそうなんですけど・・・ これからベトナムのひとが今まで以上に正式にたくさん日本に入ってくるというときに、

 日本語ネイティブのひとが「ベトナム」betonamuと発音し続けることで、つまり「ヴェトナム」というより外国語を意識した発音をしないことを続ける、ということに意義を見るか、

 あるいはベトナムのひとが「betonamuじゃ違和感あるなー、日本語の発音体系の制約は理解したうえで、Vetonamuに替えて欲しいなー」という希望が、あらかじめ出ないようにすることに意義を見るか、

かなと思うんです。

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Sur le film : Piazzolla, los años del tiburón

En écoutant le petit Astor jouer son bandenéon, c'est Carlos Gardel qui a dit quelque chose comme : ...TOCAR MUY BIEN PERO COMO UN GALLEGO ( (tu) joues très bien mais comme un Galicien). C'est ce que j'ai entendu hier dans le film : Piazzolla, los años del tiburón . Je connaissais depuis longtemps la même anecdote qui fait dire au héros mythique du tango "un étranger" au lieu d'"un Galicien". Dans le film le soutitrage japonais donnait tout simplement スペイン人 (un Espagnol). Humm. J'ai vu, avec Astor Piazzolla, pour la première fois Nadia Boulanger qui bouge. Elle était maître (pas maitresse...) de Piazzolla, de Quincy Jones et de tant d'autres. Mère de world music.
映画『ピアソラ~永遠のリベルタンゴ』(2017)。

 演奏するピアソラの写真はどれもが素晴らしいです。はずれがない。なんでかと考えると・・・ 彼の楽器バンドネオンは管楽器のように口の形を強制しないし、弦楽器のように左手に視線を引き付けてしまうこともない。リズムはどうしても体全体で刻むことになるので、顔に「演奏」が、隠れなくあらわになる。弾くのはボタンだから、はたらいているのは触覚だけ。・・・いやらしい言い方になりますが、タンゴというジャンルがあれほど官能的に聴こえるのは、そこに指しかないからか・・・ 
 ドイツの家庭音楽から発達したタンゴが今、ワールドミュージックの手ごわい、強力なジャンルとして残っているとしたら、それはピアソラの革新と、それを完成させたナディア・ブーランジェの薫陶です。はい、学生諸君、「アフリカ概説」の補習です:Michael JacksonがThrillerでアフリカ系人として世界の頂点に立てたのはQuincy Jonesのプロデュースのおかげ。Nadia Boulanger はそのクインシー・ジョーンズに、「西洋音楽の粋」を伝授した人なのです。
 映画には出てこなかったのですがピアソラには『タンゴの歴史』L'Histoire du Tangoという四曲組曲があります。こんなに美しい曲はめずらしい。いちばん美しいものは往々にして資本主義、市場の論理のおかげで、ひとから隠されてしまうんです・・・
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ハリルホジッチ氏の名誉回復のために



2018年のサッカー、ロシア・ワールドカップの熱狂も、もう昔のこととなりました。

大会直前の、日本代表チームの監督であったハリルホジッチ氏の解任をめぐる騒動も、もうほとんど過去のことです。

ハリルホジッチ氏自身も新天地フランス・ナントで活躍しておられます。選手の方々を始めとする日本サッカー界に関わる方々もそれぞれの場で努力を重ね、研鑽を積んでおられます。

いまさら運命を変えるわけにはいきません。この事件の推移のなかで運をつかんだひともつかみそこねたひとも、得をしたひとも損をしたひとも、もうこの事件について実質的に何も心配することはないし、こだわることの意味もないと思います。



ただ名誉のことだけが残っています。ハリルホジッチ氏が損害賠償額1円の訴訟を起こしてまで守りたく思われた名誉だけが。



ハリルホジッチ氏の業績はたしかにありました。

ハリルホジッチ氏が教えられたことは、日本のサッカー選手のみなさんにはしっかり伝わっています。コミュニケーションはしっかりとありました。日本チームは強くなれたのには氏のおかげが確かにありました。



ここでハリルホジッチ氏の業績が公にずっと否定されたままであるということは、この上ない非礼であり、一番品格を欠くことのように思われます。それは日本にとって、不名誉なことです。



このようなことは選手の皆さんがいちばん分かっておられることと拝察します。

ハリルホジッチ氏の業績をいくら否定されても、選手の皆さんの心の中まではどうすることもできません。それをそのままにしておくことは、これまでに活躍した選手の皆さん、またこれからの日本サッカー界をになう選手の皆さんの心の中で、品格のない日本サッカーの姿を永遠にとどめることになります。


わたくしは署名運動を行い、支持を集めました。集まりました署名は氏とFIFAにお届けします。


わたくし自身はサッカー界には関係のない者です。ただ2014年のブラジル・ワールドカップ、アルジェリア=ドイツ戦のハリルホジッチ氏の素晴らしい戦いに魅了され、この人、好きだな、と思いました。それでこの人のためにひと肌脱ぐ気になりました次第です。

ハリルホジッチ氏の起こされた訴訟に判決が出て決着がつきましたら、もう一度このブログの「ハリルホジッチ氏の名誉回復のために」をご覧になってください。
お願いいたします。





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バロウズ


 Avec tant de traductions de littératures étrangères dont le nombre extraordinaire a pas mal étonné Philippe, on n'a que peu d'exemplaires de traduction de William Burroughs à Kanazawa. Hum.

 バロウズの邦訳って、金沢大学にはぜんぜん無いですね。裸のランチは英語版一冊だけ。
 金沢の町中にもあんましないです。
 そういうもんですか。

 このあたりが日本での知性と反知性主義のせめぎあいと、世界のメインストリームのちぐはぐが起こってるということですが、うん、これはやがて「追いつく」でしょう。バロウズは知性的に、反知性に近いようなことをやってるんですから。

 ただ、言うまでもないことだと思いますが、念のため:バロウズは多くのひとを「魅了」することによって、死へと、悲惨へと導きました。そのことをわたくしは、全く認めません。たとえそれが同時に多くの創造をもたらしたとしても。
 だから、バロウズの本がこのあたりにみあたらないのも、悪いことではないです。
 ただ「免疫」ができたあとでその足跡を確認することは、やっておいた方がいいです。
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全部は無理、なので・・・


 マルローが生涯の最後に書いたのが L'homme précaire et la littérature という「文学論」だというのは意味深です。

 あの波乱万丈の生涯を送り、美術の分野では Le musée imaginaire という、けっして完成することはないけれど常にまぎれもない「全体性」「完結性」をもった作品、テクストを世に吐き出した彼は、文学に関しては「思ったほど読めなかった、もっと読みたかった」と慨嘆しているのです。それがこのタイトル、「はかなき人間と文学」と訳せるこの句をタイトルにしたマルローの真意なのだと思うのです。

 既にフランコ・モレッティ――なぜ彼の名前を出さないといけないのか、わたくしにはいつも不思議に思われますが―― がしっかり宣言しました。誰しもが分かっていることながら、それを言ってしまうと全ての前提が崩れてしまうと恐れて言わなかったこと、「全ての、読まれる価値のある文学作品を全て読むことは、不可能である」ということを。
 それに、文学は一回読んだだけではよく分からない、熟読、味読しなければならない、という考えを真面目に採用するなら・・・


 音楽もまた、時間をとるものですけれども一回の体験でかなり「わかる」度合いは文学よりずっと高いかもしれないです。
 ならば、90分授業のなかで、1分くらいのサンプルのみ聴くことを原則として、たくさん聴けるようにすれば・・・


 文学の90分授業のなかで文学体験をするにはどうするか。
 朗読はたしかにいい手でしょう。
 でもそれ以前にテキストに接する、つまり多くの、多様なテキ(ク)ストに接する、意「義」理解とともに接することを目指すべきです。
 それはMOOCではできないです。著作権のことがあるから。

 映画もまた同じことだと思います。まともに見ていたら120分かかるので――だいたいそれが映画の古典的名作が作られていたころの標準だと思いますが――ハイライトシーンを、前後の解説とともに見る。そのやり方で、何本も見る。

それが過去の「必読書」「必聴『盤』(ん?)」「必見作」つまりは「名作」に対して、ほかにたくさんやらなければならないこと、あるいは、たくさんたのしいこと、がある現代が取ることのできる、むしろ「正当な」態度なのではないか・・・

 以上は、『フランス映画 名画集DVD』が2000円程度で売られているのを見て、思ったことでした。
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金沢大学 超然文学賞


Évènement littéraire de l'année 2018 : Remise des prix litteraires pour les lycéens, institués cette année par l'université de Kanazawa, le 23 décembre. Quelques journaux ont largement rappporté les propos des premières lauréates.
Eh bien, Mesdemoiselles, si vous vous inscrivez à notre College of Social and Human Sciences, venez rejoindre ma classe "Littérature du monde".

 2018年最後の日に、金沢大学で「文学」を担当する者として、ひとこと申し上げて新年を迎えたいと思います。


 12月23日に金沢大学超然文学賞の授賞式がありました。

 朝日新聞は大きく最優秀賞受賞者の写真を載せてくれています。これをブログにそまま転載するのははばかられますが、とりあえずお名前はOKだと思います: 豊田佳那さん(小説部門)と山本菜々香さん(短歌部門)というお二人でした。

 金沢大学超然文学賞は「真の人間らしさとは何か」という命題に文学の創造をもってアプローチする文学賞、 だそうです。わたくしはこれをさっそくわたくしの担当する「文学概論」の課題テーマに取り入れています。

 わたくしが作った賞であるわけはないのですが、もしこれら受賞者が金沢大学に入学されることがありましたら、人間社会学域GS科目「文学概論」のクラスでお待ちしています。ぜひ「文学概論」をとってください。^_^

 文学の創造で抜きんでた才能を示した方には、自分が世界文学の流れの中でどんな位置にいて、自分が書いたものが世界にどのように受容されるのかを、またそれならばこれからどういう方向性をもって活動していけばよいのかを、「文学概論」受講の中で見定めていただきたいのです。

 「文学概論」でなくても、あるいは「グローバル時代の文学」英語クラスで、世界の同世代の若者と英語で文学について、人間について、世界について語り合う体験をもたれてはいかがでしょうか。

 わたくしの考える文学の授業は受講者が、国際的な場で見識ある人間とみなされ、世界の良識的な人々から自分たちのリーダーとなるにふさわしい人と見なしてもらえるように、世界の人々と友好的な心の絆が作れるように、そしてメンタル面のバランスを自らよく保てる人間であるように、ということをめざしているのです。
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Adieu Rachid


Conformément à la coutume japonaise, j'ai habillé Rachid Taha en chanchanko rouge, le jour de son 60 ans. Oui, il aurait eu 60 ans aujourd'hui, s'il était vivant. Adieu Rachid, tu resteras dans la mémoire de tous tes amis.

 
アルジェリア・シグSigでの埋葬の模様はいくつも報道されていますが、AFPの映像Jeune Afriqueの記事には彼の奥さんが出てきます。彼女のコメントからするとラシードと悪い関係ではなかったことがうかがわれます。それが救いです。(こういうのは難しいもので、おおやけの授業ではあまり教えられないことですが・・・フランス語圏は歴史的に見てもかなり「人間的」にやっているんじゃないかと、あえて言ってしまいましょうか)

 タハのことはそろそろ置いて、前を向きましょう。アルジェリアの若手、しっかり頑張って。

 あ、でも9月30日の100% Algerian Music Partyではタハの曲をかけるコーナーをもうけて、彼をしのびたいと思います。ふるってご参加ください。

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ラシード・タハ急逝 Que l'âme de Rachid se repose en paix...


 アラブ・ロックの雄・・・というのもなんだかおこがましい、フランス在住アラブ移民二世世代の「ボス」、ラシード・タハが亡くなってしまいました。11日から12日の夜のことでした。
 パリの自宅で、就寝中の心筋梗塞によるものみたいですから、そんなに苦しまずに亡くなったのではないか、と思えるところがちょっと救いかもしれません。

 1998年の『アン・ドゥ・トロワ・ソレイユ』コンサートで成功して、トリオの他の二人が浮かれてふわふわしてしまったところ、彼だけ「家を買って、あとはそのままの生活だ」という話を聞いて、堅実な奴だ、さすが乙女座(関係あるか!)、と思ったものでしたがね・・・

 あれでお酒さえ飲まなければ・・・って、人間失格みたいだな。でも、そんな感じです。

 フランスのVictoires de la musique賞で入賞した機会に日本にやってきた彼のプレス・インタビューの通訳をつとめたのがわたくしの日本音楽業界デビューでした。2001年10月、ちょうど9.11事件直後で世界が騒然としていたころでした。
 あのときには「9.11で世界が変わった、などというのはおかしい。アルジェリアは既に10年テロに苦しんできたのだから」てなことを言ってました。
 渋谷のクワトロで一回だけの演奏でしたが、実に聞き応えのあるいい演奏でした。

 彼は、作る曲全てになにかしら意味をこめることのできる奴で、全くの駄作という作品がなかったひとだと思います。

 フランス語で歌った『ドゥース・フランス』『ヴォワラ・ヴォワラ』などがよく取り上げられますが、アルジェリアの人、そしてわたしにとってはアルバム『ディワン』の『メンフィ』『ヒビナ』そしてもちろん『ヤー・ライヤー』など、それから『ベント・サハラ』『ガラブ』などを思い出します。
 ブライアン・イーノたちとの競演では、ロンドンのクラブで違和感ない演奏をこなせる第一級の貴重なアラブ音楽アーチストという地位を確固としたものにしましたね。
 でも、そのあたりで酒ともうひとつ、悪い癖も覚えてしまったかな・・・

 ヘルシンキ公演のとき酔っ払ってステージ上でぶっ倒れてしまったあたりから、ずっとなんとなくおかしかったかな・・・ あれももうずいぶん前の話なんですが・・・

 2年前の「ライ30年」30 ans du rai(アルジェリアのライ・ミュージックが本格的にフランスに上陸して30年という記念コンサート)では、結局彼がトリをとる格好になりました。やっぱりフランスのアルジェリア音楽シーンに、彼は欠かせない存在だったのですね。わたしこのコンサート、舞台袖で見てましたし、タハの楽屋にも行きましたが、ひげも白くなって、ずいぶん爺さんになったなあ、と慨嘆したものです。息子のリエスくん(DJやってるんですか)がずいぶん大きくなってましたしね・・・ あ、そのときの短いビデオがここにありました。ステージ(持ち時間は3曲分くらいしかなかったのですが)の後はこのビデオよりもっとくたびれた感じで・・・

 また何か思い出したら、ちょっとずつ載せていきましょう。

 まだこれからという年で亡くなったのは惜しいことです。かなり仕事はやれた人生だったかな、とは思いますが・・・
 でも、やっぱりね・・・

 つつしんでタハの冥福を祈りたいと思います。




 
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Album Sukiyaki 2018 (fin) "Workshops" "Finale" "Uchiage (banquet)"


トークセッション「Tootard ~国籍なき者たちの日常と音楽~」(26日日曜10時~11時半)。彼らが「ゴラン高原」から来たというのが厳密にはどういうことを意味するのか、やっと分かりました。ほんとに、「パスポート」で来ているんじゃない人たちなんですね。そういうところでやっているからこそ音楽には変なこだわりがなく、いろんなものを吸収しているのが分かりました。
オープニングステージ、25日のヘリオスステージと、CDよりナマの方がずっといい、というもっぱらの評判でした。わたしもステージの方が個性的で、実によかったと思いますよ。

日本に来れたことを本当に喜んでいたトゥータルドの3人は南砺のあと名古屋、東京、那覇、福岡県能小島と日本中をめぐって、日本をじっくり体験してくれたかな。

26日のトーク・セッションは司会のサラーム海上さん、通訳のサアシャ・カニンガム嬢の活躍で充実したものになりました。
このサイトを駆使して、アラブ音楽の音階をじっくり教えてもらったのもありがたかった。みなさんは「四分の一音」つまり半音のさらに半分の音程って聞き取れますか?

さてランディゴLindigoですが、これはフロントマン?のオリヴィエがたいへんにこやかにいろんなことを教えてくれました(26日12時~13時半)。まあ細かいことは省略させてください。このグループでメロディー楽器を弾いていいのはオリヴィエと、ソプラノサックスのエミーさんだけなんですね。でも詳しい話を聞くと、彼らの音楽、レユニオン島の心の音楽マロヤは元からメロディー楽器が乏しかったわけではなくて1945年以降、フランス植民地主義が解体する過程においてレユニオンでは保守派が強く、マロヤが反体制運動と繋がったものとみなされて、楽器を使っていると官憲に踏み込まれたときやばいので、手拍子だけでやらざるをえなかった時期があったというんですね。90年代に解禁になったあとまたいろいろなタイプのマロヤができてきたわけですが、ランディゴはなんとなくそんなマロヤ苦難の時期の記憶を強く残している感じなのかもしれません。










今年はステージの写真がなくてすみません。カバーできた範囲が少なかったです。ランディゴは、ヘリオスステージでは案外いろんな要素を入れた演奏で、飽きさせなかったです。

はい、フィナーレ。





そして、うちあげ。前にも述べたとおり廣瀬さんのパワー、溜まってたのがここで一気に吹き出した、って感じでしたね。あ、立っているのはブラジルから来てくださったシャコン師匠です。



踊るトゥータルド。



クアトロミニマル。



そしてランディゴ。オリヴィエは打ち上げには出てこなかったです。本番で力を使い切って寝てたんでしょうね。さすがリーダー!




 はい、おしまいです。

 白状すると、始まる前はずいぶん心配しましたが、フタを開けてみると例年以上に得るものの多かったスキヤキ2018だったと思います。

 それじゃ、また来年!
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Album Sukiyaki "Yotaka" "Sukiyaki vu du haut"



 「あんどんどーん! 360年続く福野夜高祭を知ろう」(25日11時、アートスペース)。

 いまではスキヤキは南砺市の、そして日本の、世界のスキヤキですが、ヘリオスのお膝元福野では5月の夜高祭こそ重要なお祭なのだと思います。



 伝統ある福野の夜高祭。説明してくださった方(すみません、お名前忘れました・・・)は、祭りになると「体に鳳凰が入る」感じがすると言っておられました(夜高行灯には鳳凰の飾りがついているのです)。
 貴重な、かけがえのない感覚だと思います。



 このポスターは、お風呂屋さんに貼ってあったものです。



 さて今回のスキヤキには、フランスからランディゴを撮りに来こられた3人をはじめ撮影のチームの方がたくさん入っていましたね。彼らについてヘリオスのベランダから見たお店と、月。









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