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フォートポイントとジョセフ・シュトラウスの英断

2017-12-18 | アメリカ

 サンフランシスコのフォートポイント、フォートの内部を見学しました。

雪は降りませんが、夏でも決して暑くならず、むしろ霧のため
夏が一番寒いと感じるのがここサンフランシスコのゴールデンゲートブリッジ近くです。

建物内部では嘗て兵舎であった頃を再現しています。

この回には士官の居住区があったと思われます。

当時使われていたコーヒー豆の箱。
「コーヒーミルズ」は商品名だと思われます。

1864年、南北戦争の頃の兵士のレーションとは?

塩づけあるいは新鮮な牛肉(あるいは塩漬け豚肉かベーコン)
3/4パウンドのハードブレッド
(あるいは1.5パウンドのソフトブレッド、コーンミール)

2.5ozの豆
1.5ozのグリーンコーヒー(かローストコーヒー)
砂糖、ビネガー、キャンドル、ソープ、塩コショウ


アメリカ人が野菜を食べないのは昔からだったみたいですね。
グリーンコーヒーというのは読んで字のごとく焙煎しないコーヒー豆を
抽出してのむコーヒーですが、最近ではこの飲み方が健康志向の層に
じわじわと流行っているということをたったいま知りました。
この頃のグリーンコーヒーにそんな意味はなかったと思いますけど。

それから、キャンドルとソープもレーションに含まれていたようです。


右下のは小冊子で某大尉によって書かれた

「キャンプファイヤー、キャンプクッキング」

「ソルジャーのための料理のヒント」

で、

「携帯野外オーブンで作るパンのレシピ」

が含まれているということです。
この本の内容が別のところに掲示してありましたが、その

「キッチンフィロソフィー」

によると、


豆を下手に煮ると、銃弾よりそれは人を殺すことを覚えておくがよい。
そして脂肪は火薬よりも人を死に至らしめる
調理というものはこの世における全ての作業の中でも特に
『急がば回れ』の精神で行うべきで、5分早く調理を切り上げて
火が通っていないくらいなら1時間遅れる方がまだましである。

強火にするとスープは焦げ付くし、顔は焼けるし、
君自身もカリカリになり(笑)
ろくなことはない。

よい調理の秘訣というのは「Skim, Simmer, Scour 」である 

(上澄みを掬うがことく丁寧に、コトコト煮込み、食材をよく洗う)


まさかアメリカで「アク取り」という技があったとも思えないので、
このように翻訳してみましたが、単に「S」でまとめたかっただけかも・・。

電気による灯りがなかった頃、ろうそくは各自に配給され、
1日に一本使い切っていたようです。

こちらの部屋は二段ベッドの寝室です。
「ミッドウェイ」など軍艦の中の寝床を散々見て来た目には、
この広々としたスペースの使い方とベッドの天井の高さは破格に見えました。

上の段のベッドにも靴や帽子をおく棚が上に付いていますが、
この人たちは一体いつ靴を脱いだのか気になるところです。

当時の兵士たちの軍服や帽子、バッグの実物が展示されていました。

寝室で使われていたベッドをそのまま無造作にパネル置き場にしています。
写真は写っている人の服装から見て南北戦争時代でしょう。

この写真をよく見てください。
なんと手すりがありません。

最初からなかったというわけではなく、さらによく見ると劣化して
落ちてしまったという感じです。

南北戦争終了後しばらく使われず放置され、荒れていた時期に
わざわざ写真を撮った人がいたようですね。

ベッドには上段下段ともに所有者の名前がペンキでしっかり書かれています。
ちなみに上段がカルロ・アンドレオリ、下がティモシー・J・バーンさんです

兵士の居住区を「バラックスルーム」と称したようですね。
ここで兵士たちがどう過ごしたかが描かれています。
ベッドが広いので上の段でトランプに興じたりしていたんですね。

上の階から下の広場を見下ろしたところ。
第二次世界大戦の時にはここは日本軍の襲撃を防ぐ重要なポイントとして強化され、
各ケースメートは完璧に塞がれていました。

1948年頃の写真を見ると、それがわかります。

第二次世界大戦中、ここにはアメリカ陸軍砲兵隊が駐留していました。

さて、この時には時間があったので、屋上にも上がってみました。

1926年に建築家協会は、軍事建築遺産として保存することを提案したそうですが、
資金難で計画は頓挫し、1930年代、ゴールデンゲートブリッジを作ることになった時、
今度は工事にも支障があるということで撤去されそうになってしまいました。

要塞の真上に橋をかけることになったのですから当然です。

GGブリッジの主任設計者であるジョセフ・シュトラウスは、
このことを受け、要塞を壊さなくてもいい方法を目指しました。

漢です。

シュトラウス氏は、

「フォートポイントに今や軍事的価値はないが、芸術的、歴史的な価値はある。
国家のモニュメントとして保存され、復元されるべきだ」

と述べ、設計をやりなおしたのです。

シュトラウス氏の苦心がよくわかる、橋と建物の位置関係をご覧ください。

要塞がちょうどブリッジを支えるアーチの南のアプローチの真下に位置するように
設計されているのがお分かりでしょうか。

シュトラウス氏の苦心の設計を表すもう一枚の写真。
このあつらえたようなカーブとそこにちょうどはまり込む形で
存在する要塞のバランスをご覧ください。

 

ちなみにゴールデンゲートブリッジの工事中、ここフォートポイントは

工事関係者の車の駐車場になっていたようです。

この屋上階は「バーベット・ティアー」(barbette tier)
と呼ばれ、大砲のマウントが並んでいました。

許可を受けた専門の砲手だけがここから手すり壁越しに
砲撃することを許されていたということです。

その理由。

これが手すりの外側なのですが、安全上の理由でここが分厚い
(7フィート2インチ)ため、下手な人には撃たせられなかったのです。

かつてはこの砲座の全てにキャノンが乗っていました。

しかし、バッテリーと呼ばれる砲台があったのはこの屋上だけではもちろんありません。

第二次世界大戦が終わってから、本格的にここを保存する動きとなり、
1970年10月16日、リチャード・ニクソン大統領は、

Fort Point National Historic Site

を作成する法案に署名しました。

現在の状態になる前に、大々的な保存&復元工事が行われ、
それが終わったのは2005年のことです。

わたしはその前にサンフランシスコに住んでいて、ずっと毎年
この近くまでやってきていたのですが、ずっと工事をしていて
近寄ることもできなかった記憶があります。

フォートポイントの灯台です。
今は稼働していないと思われます。

かつてはこんな風に大砲の砲列が太平洋とサンフランシスコ湾の入り口に向けて
睨みをきかせていました。

結局この要塞から、実際の敵に向かって砲撃が行われたことは
一度もありませんでした。

ただサンフランシスコは1906年に巨大地震に見舞われ、その時に
ここでも壁の一部が崩れたりして被害も出たようです。

この要塞の海側に面した構造がこのようになっているのは、
海岸線にカーブを揃えて砲弾が等しく届くようにしたからだと思われます。

外から見ることしかできないこの部屋は、三つの区画を持つ牢屋だそうです。

勤務中に規則に違反した兵隊を収監するために使われ、
真ん中は独房となっていたということです。

螺旋階段を上から見たところ。
できるだけ外側を歩かないと階段が狭く、手すりもないので非常に危険ですが、
造形的に確かにシュトラウス氏がいうようにこれは「芸術」というものでしょう。

この歴史的な建築物を残すために建築家として大変な決断をしてくれた
シュトラウス氏に、後世のものはすべからく感謝すべし、ということを述べて
フォートポイントシリーズを終了します。

 

終わり。