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米海軍サブマリナーの肖像 その1

2017-06-20 | 海軍人物伝

「潜水艦のふるさと」を自称するコネチカット州グロトン。
海軍潜水艦基地に併設されたサブマリンミュージアムには
伝説のサブマリナーを紹介するコーナーがあります。

以前、わたしは敵銃弾に傷ついた自分の収容を拒んで潜行を命じ、
壮烈な戦死を遂げた「グラウラー」艦長、ハワード・ギルモア中佐について
一項を費やしてお話ししたことがあります。

このコーナーではギルモア艦長の遺品も見ることができます。

銀縁のメガネ。
アメリカ海軍の軍人が眼鏡をかけていたというのはちょっと意外です。

指揮刀とベルト、そして中佐の階級がついた肩章。
サブマリナーの徽章もおそらく艦内に残されたのでしょう。

戦死した二人と傷ついた艦長を艦橋に残し、今潜行して行く「グラウラー」想像図。
潜行を命じたギルモア艦長は苦悶の表情を浮かべて最後の瞬間を迎えます。

ここニューロンドンの潜水艦基地にあった潜水学校の同級生と。
1942年、中佐の戦死直前に撮られたもので、階級章から判断すると
真ん中の人物がギルモア中佐ということになります。

さて、それではそのほかにここに名前を残しているサブマリナーを
紹介していきます。

 

ジョン・フィリップ・クロムウェル大佐 
Jhon Phillp Cromwell 1901-1943 

軍機と共に艦に残ることを選んだ司令官

潜水艦隊司令としてクロムウェル大佐が座乗していたのは

旗艦「スカルピン」 USS-191

ギルバート諸島攻略のための「ガルバニック作戦」に参加したスカルピンは
艦長フレッド・コナウェイ中佐の指揮のもと、1943年11月、
トラック諸島へと哨戒を開始しました。

「スカルピン」はレーダーで探知した船団を民間船と思い込み追撃しましたが、
実はそれらは日本本土へ帰る軽巡洋艦「鹿島」と潜水母艦「長鯨」、
その護衛の駆逐艦「若月」と「山雲」だったのです。

「山雲」による猛烈な爆雷攻撃によって「スカルピン」は漏水し、
おびただしくソナーも破壊されました。

コナウェイ艦長は、生存のチャンスを得るために意を決して浮上し
決死の砲撃戦を挑みますが、「山雲」からの初弾が「スカルピン」の
艦橋に命中して艦長以下幹部が戦死。
最先任となった中尉が艦の放棄と自沈を命じ、総員退艦が行われます。

しかしクロムウェルは、日本軍の捕虜になった時に自分の知っている
最高機密情報が敵に渡ることを良しとせず、C・G・スミス・ジュニア少尉以下
11名の乗組員とともに艦に留まりそのまま艦の運命に殉じました。

 

「スカルピン」の生存者はその後2隻の空母、「冲鷹」と「雲鷹」に分乗して
日本本土へ連行されたのですが「冲鷹」に乗艦した20名は12月2日に
「セイルフィッシュ」 (USS Sailfish, SS-192) の雷撃で沈没した際に19名が死亡し、
残る1名は通過する日本軍駆逐艦の船体梯子を掴んで救助されました。

ちなみに現地の説明には「山雲」という単語は全く見られません。


リチャード・H・オケイン少将
Richard Hetherington O'Kane 1911-1994

敵撃沈記録歴代一位の艦長

オケイン少将はギルモアやクロムウェルのように戦死したわけではありませんが、
艦長として乗り組んでいた潜水艦「ワフー」が自爆してその後捕虜になり、
終戦まで大森捕虜収容所に収監されていました。

「ワフー」が沈んだ時、オケインは突如現れた日本海軍の駆逐艦に
果敢に攻撃をを加えていたのですが、発射した魚雷が戻ってきてしまい、

(そんなことあるんだ)自分で自艦を撃沈してしまったのです。
これが本当のオウンゴールってやつですね。

爆発の瞬間オケインはコニングタワーのハッチを閉めたため、
そこにいたオケイン始め15名が助かりましたが、全員が艦とともに沈みました。

この時のイメージがイラストで表現されていました。
オケイン艦長を含むコニングタワーの生存者たちが、
爆発の煙がどこからともなく漂ってくる艦内で
脱出の準備を行なっているところです。

しかしこんな経験をしたら人生観が変わるだろうなあ・・・。 

 

潜水艦長としては 敵船団の真ん中に位置して前後の船を攻撃するなど
革新的ないくつかの運用戦術を開発し優れた戦果を挙げ、撃沈した敵船舶の総数
24隻総トン数93,824トンは大戦中のアメリカ潜水艦艦長の中でトップです。

戦後帰国したオケインはトルーマン大統領から名誉勲章を授与されました。

戦後は潜水艦畑で教官職も務め、潜水艦部隊の指揮官として
数多くの勲章を授与されています。

死後、アーレイバーク級駆逐艦の28番艦には彼の名誉を讃え、

オケイン(USS O'KANE DDG-77)

とつけられました。
潜水艦一本だったご本人には駆逐艦は少し残念かもしれませんが、
潜水艦には人名は命名基準となっていないので、仕方ありませんね。 



ジョージ・レーヴィック・ストリート三世
George Levick Street III  1913−2000

「サイレント・サービス」


ストリートという単語は普通ですが、この名字は珍しいですね。

ストリート三世は戦死してないし捕虜にもなっておりません。
ただ、指揮官として優秀で、たくさんの日本の船を沈めました。

Silent Service S01 E11: Tirante Plays a Hunch

 

この「サイレントサービス」という一連の映画は、実写と演技を織り交ぜ
ドキュメンタリーのような作りで大戦中の潜水艦を語るシリーズです。

実話かどうか知りませんが、捕虜にした朝鮮人が英語でお金を要求し、
その代わりに日本軍の情報をペラペラ喋ったという設定で、これは実写らしい
「ティランティ」が「白寿丸」を攻撃する様子が映っており、
一番最後にはストリート艦長と副長のエドワード・ビーチがゲスト出演してます。

このシリーズは海軍省の制作によるものですが、ストリートは
番組制作に技術顧問という形で協力していました。
 

イラストは戦闘中潜望鏡を覗き込むストリート艦長の勇姿。 

ストリートは86歳で亡くなりましたが、遺言によって遺体は火葬され、
遺灰は海に散骨し、残り半分はアーリントン国立墓地に埋葬されました。


ヘンリー・ブロー
Henry Breault 1900-1941

仲間を救うために沈む艦内に戻った下士官

肩書きも何もないのは、彼が士官でもましてや艦長でもなく、
潜水艦勤務の一水兵だからです。

 

ブローという名前はおそらくフランス系であり、ヘンリーではなく
アンリであったのではないかとも思うのですが、それはともかく。

ブローは潜水艦という兵種ができて最初に乗り組んだ海軍兵士です。
1900年の生まれで17歳の時、「Oクラス」潜水艦の5番艦、
「O-5」(SS-66)の乗員となりました。

彼の肩書きにはTM2がつきますが、これは「トルピードマン2」の意です。

1923年、O-5は潜水艦隊、O-3  (SS-64) 、O-6  (SS-67) 、
およびO-8 (SS-69)を率いてパナマ運河を横断していました。

その時同海域をドック入りするために航行していた蒸気船「アバンゲイレス」が
操舵のミスを起こし、 O-5に衝突してしまいます。
衝撃でO-5は右舷側のコントロールルームに近くに10フィートもの破孔ができ、 
メインのバラストタンクが破損しました。

艦体は左舷側に向かって鋭角に傾き、そして右舷側に戻り、
その後艦首部分が先から13m海中に没します。

蒸気船はすぐさま救助活動を行い、指揮官を含む8名を海中から拾い上げました。
彼らのほとんどは上層階にいて素早くハッチを登ることができた者でした。

近くにいた船舶も救助を行い、何名かを救い上げましたが、
O-5はわずか8分後に沈没。
掬い上げられたのは16名で、艦内には魚雷発射係であるブロー始め、
機関長のブラウン、そしてさらに3名が残されていました。

爆発が起きた時、ブローは魚雷発射室で作業をしていましたが、
ちょうどラッタルを登ろうとしていたところでした。
素早くメインデッキに抜けたブローは、そのとき機関室で
ブラウンが仮眠をとっていたことを思い出しました。

彼は機関長の所に戻り、とっさにハッチを閉めて海水の流入を防ぎました。
そのまま登っていけば艦を脱出できたのにもかかわらず。

ブラウン機関長は目を覚ましていましたが、総員退艦の命令が出たのを
全く知らず、呆然としていました。
二人の男たちはコントロールルームを抜けて艦尾を目指しましたが、
前部電池室にも海水が入ってきていて通り抜けることはできません。

彼らは水かさが増す魚雷発射室を通り抜け、バッテリーがショートして
誘発を起こさないようハッチを閉めながら進みました。


サルベージ作戦と彼らの救出作業はすぐさま始まりました。
ココ・ソロの潜水艦基地からは現地にダイバーが派遣されました。

生存者の反応を求めてダイバーは艦首から順番に艦体を叩いていきましたが、
魚雷発射室に来た時、中からハンマーで艦体を叩く音を確認しました。

当時は現代のような潜水艦の救助設備がなく、方法というのは
クレーンか浮きを使って泥から艦体を引き上げるしかなかったので、
その時にたまたま近くにあったクレーンを使ってダイバーが艦体の下に
ケーブルを渡し、それを持ち上げるという方法がとられました。

しかし、一度ならず二度までもケーブルが破損し、救助は難航します。
全ての関係者が不眠不休で必死の作業に当たった結果、10月29日の深夜、
事故が起こってから31時間後に、O-5の艦首は持ち上がり、
魚雷室のハッチが開けられて二人の男たちは生還したのです。

ブローは名誉勲章、海軍善意勲章、防衛庁の勲章、救命勲章などを授与されました。

米国の潜水艦O-5における事故の際に発揮された勇気と献身のために。
彼は自分の命を救うため艦外に脱出することをせず、
閉じ込められた乗員の救助のために魚雷室に戻り、魚雷室のハッチを閉じた。

彼が栄誉賞を受けた時の大統領カルビン・クーリッジ(写真)はこう言って
彼の英雄的な自己犠牲の精神を称えました。

 

 

続く。 

 



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7 Comments

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フィッツジェラルド (Unknown)
2017-06-20 06:00:31
フィッツジェラルドの事故で行方不明者の遺体を発見したのは、横須賀基地の日本人潜水員だったと米海軍のメディア発表にありました。コンテナ船との衝突の際に出来たのは、潜水員が入れる程の大破口だったということです。

防水訓練をやってみればわかりますが、かなりな圧力で浸水する中、艦内からふさぐことが出来るのは精々、直径数十センチで、潜水員が入れるような穴が開けば、その区画は閉鎖するしかありません。

フィッツジェラルドの場合、艦長室が破壊され、艦長が指揮を執れる状況だったのかどうかわかりませんが、誰かが潜水艦グラウラーのような判断をしたのだと思います。
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旋回走行(circular runs) (佐久間)
2017-06-20 20:49:04
潜水艦から発射された魚雷は、ご承知のようにオフセットされた角度を変更して、正しく目標に命中するように、ジャイロでコントロールされています。しかしながら鉄砲玉と異なり、自走する魚雷はこの制御が狂うと、円を描いて走行(circular runs)し、元に戻ってきます。数学で「直線とは半径無限大の円である」と習ったように思います。

第二次大戦中の太平洋戦線では、合計30例もの潜水艦の魚雷の旋回走行が起こったそうです:
ttp://www.subsowespac.org/the-patrol-zone/circular-torpedo-runs.shtml

Richard O'Kane提督は、少なくとも米海軍内では「ォケィン」と発音されるようです。

サブマリンミュージアムで行われた講演会のビデオがあります。フラッキー提督など、色々な名前もでてきます。テキスト(かなり間違いが)があるので、助かります:
https://www.c-span.org/video/?169408-1/bravest-man&start=1210

まあ、トラザメの「Gato」は語源のスペイン語では「ガトー」ですが、潜水艦になると、必ず「ゲィトー」ですから、どっちでもよいのかもしれません。

日本がニッポンでもニホンでもよいのですから、寛容の範囲でしょうか。でも寛容=toleranceではないですよね。正確には、どう訳すのでしょうか?
返信する
読んでいて苦しく…(T-T) (鉄火お嬢)
2017-06-21 08:46:49
これは潜水艦の話ですが、フィッツジェラルドの事件の直後だけに、艦内での惨事がありありと想像されて、読んでいて呼吸が辛くなりました。憶測は避けたいですが、本当に「アクシデント」なのでしょうか。コンテナ船の船籍はフィリピンだそうですが、船主と背後を洗ったら……以前佐世保のボノム・リシャール艦長が処分された時に、彼が情報を与えたフィリピンの補給業務請負会社には、赤い関係者がいたそうだし。日米の艦隊が北朝鮮シフトで張り付いていたら、東と南シナ海は横着がしやすくなっているのではないですか。
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みなさま (エリス中尉)
2017-06-22 10:58:17
unknownさん
やっぱり掃海隊のEODが派出されていたんですね。
なぜか国内のメディアはこういうこと(特に自衛隊の協力についての情報)を
一切報じず、国民の知る権利を無視するのが当たり前のことになってしまいました。
国内のニュースなのになぜ英語版の方が詳しいの、と。
報道といえば、朝日の記者が「戦場でもないところで何やってんの」と
事故を揶揄するツィッターを流して非難され消して逃亡したということがありましたね。
こういう短い言論に彼とその会社の思想、そして報道姿勢全てが表れるわけだけど、
それにしても非難されるに決まっているのになぜ黙ってられないんだろう(棒)

unknownさんは、やはりフィッツジェラルドの7名が艦を救うための判断をしたとお考えですか。
いずれにせよ、同盟国海軍の事故に対し、海上自衛隊はもちろん日本政府からも、
手厚い弔意を表明していただきたいです。

佐久間さん
固有名詞をどう読むかは日本語の記述で定着しているものを選ぶのですが、
O'kaneは確かにオケインが正確ですね。
「おかーん」という響きに納得できないものを感じていた私としては、早速
ご提言を取り入れ、本文を訂正させていただきました。
「グラウラー」も日本の媒体では「グロウラー」となっていますが、
私は断固として前者を採用している、つまり現地発音にこだわる主義ですので、
ご指摘は大変ありがたいです。

「ディーレイ」もそれでいうと「ディーリー」なのかな・・。

魚雷が自分をヒットしてしまう仕組み、大変よくわかりました。
空中では起こりにくいですが(ないわけではなかったけど)水中であれば
こういうことも起こり得てしまうということなんですね。
魚雷撃つ→「外れた!」→忘れた頃帰ってきて自艦に命中
しかしこれって、大変確率の低い話だったんでは・・・。(合掌)

「寛容」はどちらかというとgenerosityが意味合いとしては近い気がします。
単なる印象ですが。

鉄火お嬢さん
ボノムの赤いスパイ事件、鉄火お嬢さんから聞いたんでしたっけ。
これ、コンテナ船が突っ込んできたんですよね。
疑えばいろんな可能性が疑えますが、アメリカは日本ほど甘くないので、
何かあればボノムの時のように調査で洗い出されると思いたいです。

返信する
続報 (Unknown)
2017-06-25 06:42:31
死亡者で最年長の射管の一曹は、浸水した居住区から少なくとも二十人を救出し、まだ自分が中にいる内に浸水量が排水量を超え、船の安全を守るために閉鎖となったようです。

一曹はもちろん立派ですが、きちんと遺族に説明をし、公表した米海軍は立派です。安らかに。

https://humansatsea.com/2017/06/24/navy-sailor-saved-20-lives-sacrificing-uss-fitzgerald-collision/
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「レームJr.」 (エリス中尉)
2017-06-26 09:25:12
37歳のゲイリー・レオ・レームJr.という方であると書いていますね。
予期せぬ最悪の事態に遭遇した時、それが自分の命と艦の運命を引き換えにする
というような究極の選択であってもためらわなかったレームJr.は、真の海軍軍人であり海の男だったといえましょう。

米海軍は彼の崇高な犠牲を後世に語り継ぐために、ぜひ
その名を米海軍艦艇に残していただきたいと心から願います。
返信する
オケイン艦長の乗艦名 (お節介船屋)
2017-06-27 13:27:48
「ワフー」は前の乗艦名であり、その時は先任将校で、1943年7月中佐に昇任し、新造の「タング」SS-306艦長になり、1944年10月24日自艦の発射した魚雷で沈没するまでタング艦長でした。
8名の部下と救助されましたが日本がジュネーブ条約に違反して通報しなかったので死亡したと思われていました。
戦後帰還し、議会名誉勲章(軍人最高の栄誉)受章、大佐昇任、潜水艦母艦艦長、潜水隊司令、潜水学校校長等歴任、1957年海軍予備少将として退役。
撃沈した日本船船員を頻繁に銃撃殺戮したとの話で国際潜水艦研究協会の会合でドイツ海軍元Uボート艦長たちが怒り出した事もあり、また救助された時、撃沈した日本船員から暴行されたともいわれています。
台湾から神戸に移送された日本海軍駆逐艦艦長は紳士で艦長室を提供され、暖かい衣服もくれたと回顧録に書いています。
大船の収容所は劣悪で栄養失調、脚気で捕虜が死亡したが大森収容所に移され待遇が改善したとも書いています。
1994年2月カルフォルニアで83歳で死去。
参照海人社「世界の艦船」No766潜水艦100のトリビア
Wikiもタング艦長と記載されています。
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