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フローティング・ウェアハウス〜帆船「スター・オブ・インディア」

2017-12-21 | 軍艦

1800年代後半に生まれ、1900年初頭まで名前や用途を変えながら
現在その優美な姿をサンディエゴの埠頭に見せている帆船、
「スター・オブ・インディア」についてお話ししています。

1864年に就航した時にはイギリスで「エウテロペ」と名付けられ、
その当時は貨物線として活躍していた彼女。

その頃の資料がこのようにパネルにされています。

1906年にアメリカに渡るまで、「エウテロペ」はプーケットから木材、
オーストラリアの石炭、ハワイの砂糖、インドのジュート、綿、穀物、
アジアの香辛料、アラスカのサーモンの他に、イギリスから
ニュージーランドやオーストラリアに移住する移民を輸送したりしました。

左下の版画は、積荷を満載した「エウテロペ」の断面図です。

前回、「スター・オブ・インディア」がアラスカでサーモンを獲り、
それを輸送してくる「スター艦隊」として活躍していたことに触れましたが、
この「フォグホーン」も旗も、その時代に使用されていたものです。

帆船の時代、衝突を防止するためにこのホーンをふき鳴らしました。

アラスカでサーモンを獲って缶詰にする仕事は季節労働です。
氷の少ない6月に始まって8月に操業を終了するまでの間、
「スター・フリート」の船は

「フローティング・ウェアハウス」(浮き倉庫)

となって、中国、フィリピン、日本、インド、スカンジナビア、
モロッコなど、他民族混成による従業員が共に働きます。

「ダイバース・チーム・ワークド・トゥギャザー」

と聞こえのいいタイトルがこの説明にも見えていますが、
彼ら非白人系の労働者たちの船内での待遇は過酷なものでした。

わたしはそのことを「バルクルーサ」こと「スター・オブ・アラスカ」
の見学で知りかなりの衝撃を受けたのですが、それはまたいずれ。

もちろん白人労働者だって決して楽をしていたわけではありません。

「ハードワーク、ロウ・ペイ」(ブラック労働)

という言葉がその全貌を言い表しています。

沈没せずに今ここに当時の姿を見せてくれている「インディア」も
アラスカで試練を受けたことが書かれています。

今の我々の感覚でいうと、アラスカに帆船で行って何ヶ月もそこで操業する、
なんて、無謀というか無事でなくて当たり前としか思えないんですが。


これは、「スター・オブ・インディア」の遭難について述べたもので、
上の写真は、船から氷の海に放り出され、助かったうちの一人を
祖父に持つ人から寄贈されました。

右下は、引き揚げられた遺体を現地で葬っているところです。

乗組員家に帰ってきた時、彼の妻はそれが誰だかわからないくらい
人相風体が変わってしまっていたというお話。
60パウンドということは27キロ体重が増えて帰ってきたことになります。

これらは、船内に作り付けのベッドを利用して展示されています。
これを「バンク」といいますが、これは当時の典型的な水兵のバンク。

木製のクランプや熱い鉄を扱う「トング」、ペンチ的なもの。
船のメンテナンスに必要な器具数々。

こちらは帆船を作るための工具色々。
手前にあるのが木片の面取りをするスポークシェーブ、
デッキをコーキングするためのヘラ、ゲージにディバイダーなどなど。

年に一度実際に帆を張って出航する「スター・オブ・インディア」。
右の写真には船底の赤いペイントが完全に見えています。

昔と違って彼女は積荷なしで航海するためなのですが、
帆船にはバラストが必要なので、船底にはコンクリートを積んでいます。

メインデッキの艦尾部分にやってきました。
ここには大きく外が見えるように船殻がくり抜かれています。

こんな船でアラスカに・・・しかもこの階には乗員が寝起きしていたのです。

木材がもやいで結びつけられています。
ダメコン素材かな?と思ったのですが、そうではなく、彼女が
「エウテロペ」時代に木材の輸送を行っていたことを説明しています。

もしかしたら木材も当時からのものかもしれません。

「エウテロペ」であった頃の「スター・オブ・インディア」。
イギリスで撮られた写真でしょう。

船内で使われていたシンガーミシン。
シンガーは1851年創業、「スター艦隊」が結成されるかなり前から
ミシンのトップメーカーとなっていました。

ところで余談ですが、このブログで何度もお話ししてきたあの

ノルデン爆撃照準器

を第二次世界大戦中作っていたのがこのシンガーだったってご存知でした?

同社は戦争に突入するやいなや各国政府と兵器製造の契約を結び、
ミシンの製造を停止して、ノルデン爆撃照準器の他

M1ガーランドライフル

M1911拳銃

などをアメリカに供給し、同社のドイツ国内の工場はなんと

ナチスに兵器を供給していたということです。

政府の命令によって拳銃の生産研究に取り掛かったシンガー社ですが、
最初の500丁を政府に納入した後、社の方針で生産を大砲や爆撃照準機に切り替えたため、
その500丁は市場では超レアとなり、今でもコレクターが高値で取引しているそうです。

ちなみにシンガーのサイトでは、日米ともにその歴史に武器製造の記載はなく、
1939年から戦後までは空白となっています。


サンフランシスコのアラメダ(空母ホーネットの展示してあるところ)
におけるスター艦隊の船とアラスカ・パッカーズ・アソシエーションの労働者たち。

茶などを運ぶための木箱、皮革と木製でできた大型トランク、
そして荷物を積み込むための滑車など。

モデルシップ(帆船の部)コーナーもありました。
いずれも「エウテロペ」以前、これは1628年建造の船。

説明を撮るのを忘れたのですが、どうもオランダの「バタヴィア」のようです。

艦尾に揚がっているのはフランスではなくオランダ共和国の側で、
当時この船の所有はあの東インド会社でした。

「バタヴィア」は香辛料を積んで340名(水夫、兵士、一般乗客、船員、その家族)
を乗せ出航しますが、最初の航海中、船長と船団長が諍いを起こします。
船長はナンバー3と手をくんで船団長を殺害し、船を乗っ取り海賊となることを企てます。

そんな航海中、バタヴィア号は運悪くオーストラリア沖で珊瑚礁に座礁してしまいました。

近くの無人島に生き残った乗員乗客の大半が上陸し、沈没した船から脱出したナンバー3が
リーダーとなるのですが、反乱を企てていたことが発覚し死刑になるのを恐れた彼は、
自分に不要な生存者たちを手下とともに次々と抹殺していくのです。
あまつさえ残虐な本性を現して、虐殺を快楽のために行うようになっていきました。

そのうち追放されていた兵士の一団が島に戻ってきてナンバー3の一団を制圧し、
船団長とともに反乱を起こしたナンバー3ら一派の数人はかなーり残虐な方法で処刑されました。

まるで小説のようですが、事実は小説よりも、の通りこれは実話です。

後世、バタヴィア号をテーマにした創作物が多く著されましたが、
最近では20世紀に入って書かれた「バタヴィア号の惨劇」という
ノンフィクションも出ています。

 

こちらも同年建造されたもので、スウェーデン海軍の「ヴァーサ」

1628年8月10日に処女航海を行ったこの64門戦列艦は、
同じ処女航海でも、とりあえずちゃんとオランダからオーストラリアまで
航海を行い、座礁で没した「バタヴィア」と違い、
単純に設計ミスが原因で、その日のうちにその現役としての生涯を終えています。

もともと砲甲板が一層の予定だったのが、建造途中で変更され、
二層に増やされるなど構造に無理があるのに加え、武器を積みまくったため
極端にトップヘビーな状態になってしまった彼女は、
最初の航海で1,300 m ほど帆走した地点で横風を受け、
復原性の低さが災いしてそのままあっさりと横転沈没してしまったのです。

大砲や貴重品は引き揚げたものの、船体の回収には失敗し、
海底に沈んだ状態でずっと放置されていました。

ところが没後300年も経った1950年代に入って、ヴァーサは引き揚げられることになりました。

バルト海は水温や酸素濃度が低く、フナクイムシが生息していないことで、
ヴァーサの船体は復元可能であるらしいことがわかったのです。

そして1961年、333年ぶりに引き揚げられ陽の目をみることになりました。

さらに四半世紀にわたる復元作業をへて、彼女は1988年からその名前をつけた
「ヴァーサ博物館」でその姿を見ることができます。

300年の間海の底にありながら、船体はもちろん調度も原形を残しており、
当時の戦列艦の姿、建造方法、設備などを知る貴重な資料となっているのです。

そしておそらく、300年前も、ヴァーサは船舶建造の格好の失敗例として
貴重な教訓を当時の設計者たちに与えたことだろうと思われます。

ところで「世界の三大記念艦」ってなんだかご存知ですか?

まず、我が海軍の戦艦「三笠」。
このブログでも散々取り上げたアメリカのフリゲート「コンスティチューション」。

そして、一等戦列艦「ヴィクトリー」です。

H.M.S(His/ Her Majesty's Ship ) を冠したイギリスの「ヴィクトリー」は
国運をかけたトラファルガー海戦において、これも世界の三大提督である
ネルソンが(ちなみにその他はジョン・ポール・ジョーンズと我が東郷元帥)
座乗してフランス・スペイン艦隊に大勝利を納めた「ナショナル・シップ」です。

この中で稼働しているのは「コンスティチューション」のみ。
「三笠」は戦前からコンクリで水面下を固められていますし、
「ヴィクトリー」は1922年にドック入りして以来展示されているだけで
航行は行われていません。

ただ、歴史的海洋国家であるアメリカとイギリスは、未だにこの記念館を
海軍に所属する艦船として扱っており、ここでも再々お話ししたように
「コンスティチューション」には中佐が約一年交代で艦長を務め、
メンテナンスと訓練を維持する乗組員もちゃんと配置されておりますし、
「ヴィクトリー」の方は海軍少佐を艦長としているのです。

かつての栄光艦をレガシーとして受け継ぎ後世に残すことに
これだけ両国が大変な努力をしているのは、両国が海洋国家であり
海軍が自らを「ブルーウォーター・ネイビー」と任ずるからこそでしょう。

そして、堂々たる現役艦、「スター・オブ・インディア」。

「スター・オブ・インディア」に似ていますが違う帆船。
この船の名前は写真を撮るのを忘れました

Edward John Perry と名前のある少年は、こんな幼くして
船員見習いとして船に乗っていた、ということで紹介されています。

 

あと一回、続きます。