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小説「海軍」〜古本で見つけた或る”書き込み”

2017-04-27 | 海軍

映画「海軍」について、昭和18年版と38年版の
戦中、戦後の映画化作品についてお話ししてきました。

ここでやはり原作を読んでおこうと、現代語版を取り寄せたのですが、
どちらの映画でも取り上げられなかった部分が、実はこの小説の
大変大きなパートを占めていることに気がついたので、ご紹介しておきます。

幼い頃から海軍好きで、海軍に入ることを夢見てきた、
主人公谷真人の親友、牟田口隆夫。

視力で海兵の試験に落ち、さらには海軍経理学校も肺炎の痕が残っていて
完全に夢を断たれた彼は、東京で画家の修行を始めます。

しかし、ほとんど当てなく上京し、芽が出る見込みも感じられず、
果ては何を描いていいかもわからなくなった隆夫は、絵を辞める決心をし、
そのままフラフラと電車に乗りました。

ところがその電車を横須賀軍港を通り抜けた瞬間、彼のかつての
海軍ヲタの血が騒ぎ出したのです。 

そして、横須賀中央駅から電車に乗ってきた海軍軍人の姿、
ことに海軍主計の軍章をつけた制服姿の軍人を見て、自分がこれまで

「海軍にはいれないから海軍から逃げていた」

ということを思い知るのでした。
そして彼が逗留していた久里浜で決定的なことが起こります。


隆夫は、艦尾に翻る旗の模様を認めた。
やがて、日を負った艦姿がくっきりしてきた。
長い鉄橋のような、艦体が見えた。マストが見えた。主砲の砲塔が見えた。

(重巡だぞ)

(おや、高雄級らしいぞ!)
彼は胸を突かれたような気がした。
手を拍(う)って、雀躍(こおど)りしたい気持ちになってきた。
高雄級の軍艦こそ、彼が軍人組の一人だった頃、夢に通うほど憧れていた艦だったのである。
新式な重巡として、また、見るから頑丈な、魁偉な外貌が、
どの軍艦の写真よりも、彼の心を捉えていたのである。

そのトン数も、兵装も、速力も、彼は恋人の齢や顔立ちのように、
今でも、心に誦んじているのである。

(高雄級が、おれの目の前を、走ってる!)

「いいなア・・・・・実に、いいなア!」

激しい感動のために彼は口に出して叫んだ。
まるで、青黒い鋼の鎧を着た荒武者が悠々として出陣して行くようだった。

 

その後隆夫は「海事画家」と言われるジャンルの画家、例えば
ドイツの潜水艦艦長出身の画家、クラウス・ベルゲンなどのことを知り、
自分も海軍画家になる決心を固めます。 

ベルゲン作


修行中のある日、隆夫は銀座でよそ見をしながら歩いていた男に
体をぶつけるのですが、なんとそれは谷真人でした。

軍艦「五十鈴」乗り組みの彼は、横須賀に艦が停泊中とあって、
プレーン(背広)で上陸中だったのです。

下宿に誘った真人が、想像だけで描いた伊号潜水艦が航走する絵を見て

「貴様、本当に、立派な腕前になった!」 

と激賞するのに勇気を得る隆夫。
そして、彼は谷少尉の招きで「五十鈴」の見学もさせてもらいます。

横須賀で待ち合わせた真人が、少尉の軍服と白手袋の挙手の礼で迎えるのを
隆夫はうっとりと眺め、じかに見る海軍の香りに陶酔するのでした。

昭和18年版では「先生」の存在は全く描かれず、38年版では黄門様が

「花と裸ばかり描いている、高尾の父親と昔母親を取り合った画家」

として出てくるわけですが、小説では全くそんなことはありません。
この市来画伯が、隆夫の描いた
軍艦の絵を勝手にコンクールに出し、
その画は海軍大臣賞を獲得します。 

 

呉で谷真人と再会し、隆夫は呂号潜水艦の中を見せてもらって大興奮。
さらに潜水学校の敷地にある海底探査用の豆潜航艇を見て、 思わず

「真人!
こんな小さな潜航艇に魚雷を積んで敵の軍港に忍び入ったら、面白かろうね」 

叫ぶその言葉に、真人と案内の少尉は無言で急に眼をそらすのでした。

 

作者の岩田豊雄は、連載に当たって海軍に綿密な取材を行い、
横山少佐の同期である67期出身の軍人に思い出を語ってもらったり、
あるいは第6潜水艇の中を見学させてもらったりしており、
そのことを「海軍随筆」というエッセイにも生き生きと描いています。

牟田口隆夫の妹、エダの描き方も、両作品ともに全く原作と違います。
ツンツンだけで「デレ」も何もないまま終わってしまう戦中作品、
呉に押しかけて「私の全てを取って」( "ALL OF ME"の歌詞通り)
と激しく迫る戦後版の何れとも原作は異なっており、いわば
その二つを足して2で割った状態。

ってどんなだ、と言われるでしょうか。

つまり、原作では兄の隆夫は画家になるために「家出」するのですが、
(戦後版は父の物分かりが気味が悪いほど良く、息子に東京行きを勧める)
家を出ている5年の間にエダはすっかり二十歳のお年頃になり、家族総出で

「お嫁にやるなら谷の真人さんがええ」

ということで衆議一決したというのが原作です。


豹が、猫になってしまった・・・・)

あんなにも女というものは、変わるものかと、隆夫は微笑した。
しかし、妹が真人になんの関心も持たないとしたら、少女の頃に
あんな不思議な敵意を、示すこと同いわけだった。
つまりあの敵意は、強情な好意だったのだ。



(画になるな)

隆夫は、真人が軍刀をエダと父に見せたというその光景を想像してそう思った。
そして、画になる若い士官に、妹が心奪われたのが、いよいよ当然に思った。

(エダの奴、眼が高いよ)

 

再び隆夫が呉を訪ねた時には、真人は下宿を引き払ってしまっており、
代わりに東京に真人からの手紙がきていました。

 

手紙には、その昔中学生時代に『軍人組』として江田島見学をした時、
案内してくれた飛田大尉が、現在少佐になり、
しかも海軍報道部に勤務していることがわかったので、
隆夫のことを画家として紹介しておいた、と書かれていました。

隆夫の夢に、真人は自分のツテを使って道筋をつけようとしてくれたのです。

原作では飛田少佐は「眉目清秀」ということになっているので、
江原真二郎はそこまで考えた配役だったということになりますね。


おかげで、隆夫は海軍嘱託の身分に採用されます。
採用にあたっては、警察が聞き込みに来るという調査を経ていました。

これはある意味当然で、

「画業を全うするために軍艦に乗せてもらったり、
実弾射撃を見たりする手蔓を求めて」

その資格を得ようとしていたのですから。
ここを読んでわたしが思ったのは、

「画業」を「ブログ」に変えると、まんまわたし?

ということなんですが(笑)
わたしが自衛隊の内部に入り込んで?見たものや聞いたことを
ブログにかいているのも、結局今が平和だから、ということになりますね。

いつまでもこんな世の中でありますように。

 

さて、隆夫の「初仕事」は報道班員として演習を取材するために
旗艦に乗り組み、模擬戦等の様を心ゆくまで目に収めることでした。

そしてやってきた、12月8日の朝。
隆夫はラジオを聴き、

ったア・・・やったア) 

そのうちに軀がガタガタ震えてきた。
万感胸に迫って、心も体も、躍り出すのだった。
やがて、彼は首を垂れた。我知らず、天へ祈る心が起きた。
大粒な涙が、ぼたぼたと、床へ落ちた。

(真人は喜んでいるだろな。
そして、どこにいるだろうな。
飛行将校なら、第一線に出て入るかもしれないが、真人は・・)

 

隆夫はすぐさま真珠湾攻撃の絵を宣伝用に依頼されそれを描きあげますが、
その後年も明けた三月になって、
さらに特殊潜航艇の攻撃の様子を
画に仕上げるようにという飛田中佐の命令を受けます。

「君・・・・」

飛田中佐が後ろから呼び止めた。

「は?」

隆夫がふりむくと、潤んだ中佐の眼が、ジッと、彼をみつめていた。

「いや、用ではない・・・」

中佐は、急に、横を向いて、仕事を始めた。

 

隆夫は早速特殊潜航艇の攻撃の画を制作に入りました。
白昼強襲図、そして月の出夜襲図。

第二図の方は、特殊艇が半潜行の状態で、至近距離に迫り、
一人の士官が、アリゾナ型の後半部に高い水柱をあげて命中したのを
確認している画を描いたのでした。

その直後、彼は海軍省発表において、ついにその名前を聞くことになります。

「任海軍中佐湯浅尚士・・・・任海軍少佐谷真人・・・」

 

隆夫は、自分の描いた夜襲の画を、ジッと見つめた。
やがて彼は驚きの声を発した。
ハッチから半身を露わしている士官の軀つきが、真人ソックリだった。
しかも、その姿は、潜水学校の六号艇のハッチから、
真人が軀を乗出した時の印象にちがいないのだ。
隆夫は、知らずして、真人を描いていたのである。 

 

 そして彼は、呉の料亭で真人と一緒に一夕を共にし、
「おす」とか「コーペル」(娘)などという海軍隠語を教えてくれて
快活に笑いあった中尉や、潜水学校の中を案内してくれた少尉が、
真人とともに二階級特進して「軍神」と呼ばれていることに感銘を受けます。


隆夫が唯一不満だったのはエダのことでした。
家からの手紙には、

「エダの縁談も一場の夢となったが、当人も別に悲観している様子はない」

などと書かれているのです。
隆夫は腹立たしく、つい「ちくしょうめ!」などと罵りながら、

(エダがどう想ってるかーそんなことを真人が知らないで、
却って、よかった)

真人は、もう軍神なのだ。
永遠に、二十三歳の海軍少佐であり、また、童貞の英雄なのだ。
あらゆるものが、美しいのだ。
真人を形作るすべてが、美しくなければならないー

 

戦後の映画では、これと同じようなことをその真人本人が
身を捧げてくるエダに言い聞かせてこれを思いとどまらせる、
ということになっていたわけですが。

 

戦後作品で描かれていた海軍葬についても、小説には詳しく書かれています。
実際には九軍神の海軍葬は、昭和17年の4月8日(月命日)
海軍では広瀬中佐以降初めて、日比谷公園で行われています。 

葬列を待つために隆夫とエダは一時間路上で待ち続けました。
時間が来て黒い砲車の上に乗せられた白い柩が通ります。

(真人が行く・・・・真人が・・・・)

閉じた瞼の中に、砲車の上から、真人が、ニッコリ笑って、
此方を見たような、現像が映った。
途端に、隆夫は堪えきれなくなって、大声で、嗚咽を始めた。
それに伝染したように、此処彼処にすすりなきの声が起った。
ただ、エダだけは、泣かなかった。
彼女は、土下座の膝を、キチンと揃えて、微動もせずに、合掌していた。
噛んだ唇は、震えていても、声も、涙も出さなかった。

公園の中で、海軍軍楽隊の”いのちをすてて” の奏楽が起った。

命を捨てて
 

映画では、これがショパンの葬送行進曲になっています。
現在も自衛隊の慰霊式典では、この曲の最初の8小節のあと弔銃発射が行われ、
それが何度か繰り返されるので、ご存知の方もおられるでしょう。 

(おお、真人のお母さんだ・・・・)

彼は、黒い喪服の葬列の中に、小柄な、痩せた躰を俯けた
老人の姿を、目敏く発見した。

やがて、エダが、ヨロヨロして立ち上がった。
ふと、隆夫は、妹の絹靴下の膝頭が、長い土下座のために擦り切れて、
血が滲んでいるのを見た。

 

この後、隆夫は、葬列を見送っただけで鹿児島まで帰るというエダを
東京駅に送っていき、同じ汽車で故郷に戻る
軍神たちの遺髪と遺爪を納めた
白木の箱を抱いた遺族が通るのを
二人で遠くから合掌するシーンで小説は終わります。

 

戦中、そして戦後の映画、そして原作の小説を読んで、
映画というものが到底描ききれないことがあまりに多かったのに
愕然とする思いです。

やはり、文字から想起され想像力によって頭の中に展開するシーンは
商業映画などではとうてい描きつくせるものではないのだなと
改めて知る結果になったことが、そうとは知っていたとはいえ驚きでした。

 

ところでわたしはこの原作をamazonで古本を適当に選んだのですが、
送られて来た小説の最後のページに鉛筆書きで、

60・5・18(土) 

小生を海軍に導きし本

四十三年ぶり再読・涙せり

と書かれていました。
そして、前の本の持ち主が、小説が連載されていた昭和十七年には
中学二年(つまり真人が軍人を志したころ。13−4歳)であったことも、
他のページへの書き込みでわかりました。

この方は、その後この本に「導かれて」海軍に・・・・、
もしかしたら海軍兵学校に入学し、在学中に終戦を迎えたか、
あるいは予科練に行ったのかもしれません。

現在ご存命であれば、 89歳のはずですが、古本屋に蔵書が、
しかもこれほどに思い入れの深い本が売られたということは、
もうすでに前の持ち主は谷真人と同じ世界に行ってしまわれたのでしょうか。

 

ともあれ、この書き込みのある書を偶然手にしたことによって、
小説「海軍」は、ひときわ強い印象をわたしの心に残したのでした。

 

終わり 


 



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2 Comments

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タイムカプセル (Unknown)
2017-04-27 07:13:31
昔、読んだ本はタイムカプセルですね。私もこれを読んで自衛隊に入りたいなと思った本があって、何年かに一度、開いて見ます。

ちょうどエリス中尉が買われた古本の持ち主が「海軍」を読み返した時期と同じくらいの年になりますが、いい年をして涙が出ます。
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小説「海軍」 (お節介船屋)
2017-04-27 10:24:00
私がこの小説に出会ったのは半世紀以上前、確か雑誌「丸」に連載された物でした。
雑誌であったので処分されてはっきりした年代が分かりませんが強烈な印象を受けた事を記憶しております。
その後文庫本で再読した時も強い印象を受けました。
この小説が海軍への関心、軍艦への興味となったと思います。
私の読書は偏っており、読みっぱなしで、本小説もエリス中尉のように感想文も所見も一切実施していないので、今回改めて映画ともども認識を新たにしました。
映画も好きですが原本と全く違う描き方の物も多く、読む必要も示唆して頂きました。
谷真人と言う名は鮮明に記憶にあります。
本当に残念なのは横山少佐の家族は軍神となった後、生活にも支障が出る苦難を背をわされ、エリス中尉の記載のとおり昭和20年の鹿児島空襲で実家焼失、母及び3人の姉が焼死され、2人の兄も戦死されました。
戦後長兄が実家再興のため、帰郷され、鹿児島市等との調整では手のひらを返し、冷たい仕打ちをしたようで、小さな商店での生活となった事は価値観がガラと変わった世の中になったとは言え、日本人、日本社会の悪い面だと思います。
どのように世の中が変わろうとも、国に尽くした方々に尊崇の念をもち、記憶しておく事は国家の芯として絶対必要であると思います
本小説及び映画を取り上げて頂き、数十年ぶりに記憶を呼び戻し再考させて頂き改めて感謝します。
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