ここのところ何日かにわたって、酒巻和男著「捕虜第一号」について書いてきました。
その中で、酒巻少尉が、リビングストン収容所の所長であった
司令官ウィーバー大佐から
「私の弟は海軍大尉であったが、サポー沖で戦死してしまった」
と聞く話があります。
ウィーバー大佐の弟は、重巡洋艦「アストリア」乗組でした。
アストリアは1934年就役、1942年8月9日、第一次ソロモン海戦で戦没しました。
弟ウィーバー大尉の戦死したのもこのときであろうと思われます。
重巡アストリアは真珠湾攻撃当日はミッドウェーに向かう航路にあり、攻撃を免れました。
その後、南大西洋、珊瑚海海戦、ミッドウェーと武運強く戦い続けた艦でしたが、
このソロモン海戦では、三上軍一中将率いる第八艦隊の砲撃のうち一つが中央部に命中。
飛行機格納庫が炎上したので、第八艦隊からサーチライトいらずの砲撃を受け、
鳥海の砲塔に被弾せしめる反撃をしたものの、火災は爆発を誘引し、沈没に至りました。
このアストリアと云う名前に、わたしは昔から聞き覚えがありました。
五・一五事件で青年将校に「話せばわかる」と言い、
その後暗殺された犬養毅首相の孫、犬養道子氏の自伝「ある歴史の娘」を読んだ時、
忘れられない印象を残したのがこの巡洋艦だったのです。
「ある歴史の娘」は、単なる自伝ではありません。
当時の綺羅星のごとく歴史の中心に輝いていた人々、
汪兆銘、尾崎秀美、岸田劉生、梅原龍三郎、石井桃子などの名を
ごく近い身の回りに知る「歴史の娘」犬養道子さんの語る証言です。
高校時代、夢中になって読んだものです。
なかでも道子さんが「素敵な博おじさま」と呼ぶ、
駐米大使斎藤博(画像)の話は印象的でした。
頭がおそろしく切れ、優れた見識と、度胸を持つ、真の国際人。
ルーズベルトとはハーバードでの「俺おまえ」の仲。
政府要人からドアマンに至るまで、彼を知る人すべてのアメリカ人が
「He's a good fellow!」
と言ったという、国際的ナイスガイ。
海軍の誤爆事件、「パネー号事件」では、本国の指示を待たず、
独断でラジオの時間枠を買い取り、独断で謝罪をし、平和的解決を訴えた、
まさに行動力の「ぱねえ」(←一応シャレ)外交官でした。
コールマン髭にアメリカ仕込みの洗練された身のこなし。
知的でありながら、そのものごしに漂う江戸っ子の「粋」。
少女の道子さんにとって
「理想の男性像は、博おじさまプラスアルファ」
だったそうです。
その駐米大使斎藤博は
「夜も寝ないで仕事しているらしい」「血を吐いたらしい」
と、親族が眉をひそめるほど、悪化しつつある日米関係の改善のために
奔走しますが、遂に激務がたたって在任中にワシントンで客死します。
1939年のことでした。
このとき、その悪化の一路をたどる関係であったアメリカ政府は、
アストリア号に、一外交官に過ぎない、しかし全てのアメリカ人に愛された、
斎藤博の遺骨を抱かせ、日本に送り届けました。
アストリア号は、出迎えの軽巡木曽と礼砲を二一発交わした後、
日章旗とアメリカ国旗を半旗に掲げて横浜港に入港しました。
その日のうちに、斎藤大使の遺骨の引き渡し式が行われたのですが、
遺族であった道子さんは、そのとき、斎藤大使未亡人であるおばを、
丁重な、しかしレディスファーストの自然に身についた、
洗練された身のこなしでエスコートする海軍次官に目を留めます。
「だれ?あのスマートな軍人」
「五十六」
父は言った。
「山本五十六」
このとき、日本国民はこぞってアストリア号とその乗員を歓迎しました。
各方面で催される晩さん会、各地への観光に彼らを案内し、
ちょうど桜の季節でもあった日本の美しいところをくまなく彼らに見せ、
喜んでもらおうと最大のもてなしをしたのです。
現在、アストリア号乗員が雷門や皇居、靖国神社、銀座の夜店を
「おのぼりさん」状態で、眼を輝かせて観ている写真が残されています。
どの写真も・・・・軍人と言うには幼い少年も、きりりとした士官も、
一様に日本を心ゆくまで楽しんでいるのがそのはずんだ表情に見てとれます。
酒巻少尉のいた捕虜収容所長だったウィーバー大佐の弟である海軍士官も、
このうちのひとりでした。
季節は四月。
ちょうど満開の桜に彩られ、彼等は最も美しい日本、
もっとも日本らしい日本を満喫したのでしょう。
そして朝野の人々から熱狂的な歓待を受けた大佐の弟は、
桜咲く日本をいつも称揚していました。
弟が死んだとき、私は日本軍を激しく憎悪したのである。
斎藤大使の遺骨を持ってアストリアで日本を訪ねた弟は、
そのアストリアと共に、日本軍の手によって、
ソロモンの海に沈んでしまった。
弟の死を思えば、日本人は憎い敵国人である。
しかし、弟は、ずっと桜咲く日本を愛し、
日本人を自慢していた。
だから、収容所司令官たる私は、真の日本人を理解し、
その職務を全うしたい。
険悪にありつつある相手国の、しかも一外交官の客死に対し、
軍艦で丁重に遺骨を届ける。
斎藤博大使がそれほどまでにアメリカ国民から愛されていた、
というのは事実です。
そして、このアメリカの誠意に、当時の日本人は感激しました。
しかしながら、これはもとはと言えば、1926年、
当時の駐日大使バンクロフト氏が日本で客死し、我が海軍の軽巡洋艦多摩が
遺体を礼送したことに対する返礼でもあったのです。
憎しみの連鎖からは何も生まれないとは言いますが、
誠意と礼節の連鎖は、かくのごとく・・・・一触即発の両国間の感情すら、
一瞬とはいえ、融和へと変化せしめたのです。
親族である犬養道子さんは、この両国の人々の無邪気な熱狂ぶりに、
「おそらく博おじさまがこれを見たら、皮肉に笑って、
『よせやい、何をはしゃいでいるんだ。それよりヒットラーと手を切れよ』
と言っていたに違いない」
と書いています。
斎藤博大使が過労死してまで何をしたかったかと言うと、
その後避けられなかった日米両国の衝突の回避だったのですから。
しかし、
「弟がかつて愛した国だからこそ、敵でも憎しみにとどまらず理解したい」
などと考えるウィーバー大佐のような人が、もし「一人ではなかったら」・・・。
アストリア号の運んだものが、両国を一瞬でも変えたように、
人間の理性と、知性から生まれるお互いの尊重は、
もしかしたら争いそのものを防ぐこともできるのではないかと・・。
重巡洋艦アストリア。
今日、クリスマスにその名前を思い、まるでジョン・レノンの歌の歌詞のような
「夢想」をしてしまったわたしです。