パイプを咥えたクリストフ・プロープストがあまりにも絵心を刺激するので最初に描いてしまい、
なし崩し的に肝心のショル兄妹を二人とも描かないわけにいかなくなりました。
三人とも絵になる写真を残しているので、苦ではありませんでしたが。
「白バラ事件」をご存知でしょうか。
第二次世界大戦中、ミュンヘン大学構内で反ヒトラーのアジビラを撒いた学生が、
簡単な裁判の末その日のうちに斬首刑になった事件です。
白バラ抵抗運動のことは、近代史に興味を持っていた高校時代から本を読んで知っていました。
学生が、しかもビラを撒いたと言うだけのことで即日処刑されてしまうというような弾圧が、
ヒトラー政権下では行なわれていたということに対する驚き。
そのうち一人が21歳の女性であったことはさらに衝撃でした。
もっと簡単に言うと「ビラまいただけで敵国人でもない女の子をギロチンにかける」世界が、
わずか数十年前に存在したということに対する言いようのない不安と恐怖でしょうか。
映画「白バラの祈り ゾフィー・ショル 最後の日々」は、
ビラをまく日から尋問を経て裁判の末、その日のうちの処刑に至るまでを、
時系列で淡々と描きます。
フラッシュバックもなければ幼き日の回想シーンもありません。
焦点をずらさずこの5日間だけを描いたこの手法は、端的に彼らを取り巻く事共を浮かび上がらせ、
どのような人々が彼らの「犯罪」にどのような態度で当たったかを表現することによって、
映画の目的でもある、独裁下ドイツにおけるこわばった空気を伝えることに成功していると言えましょう。
この事件そのものの不条理さについてはいろんな意見がもう百出していますので、
今日は視点を変えて、彼らをその5日間に取り巻いた人々について語ろうと思います。
まず、一人目。
ショル兄妹がビラをまいていたところを目撃し、取り押さえ警察に引き渡す、ミュンヘン大学の用務員シュミット。
この人物は、昔読んだ本でもかなり批判的な口調でその行動や、戦後を語られていた覚えがあります。
映画でも「こいつらをぶん殴ってやる」などと興奮して叫び、
証拠を隠そうとしたハンス・ショルに飛びかからんばかりに激高する様子が、
いかにも小物臭を漂わせていました。
彼はこのときの報償として3千マルクを与えられ、さらに大学では昇進しています。
さぞ得意のうちに自分の告発した若者たちの処刑死を知ったのだと思われますが、
戦後連合国に逮捕され、釈放後も公職から追放されました。
しかし、彼にとっては何の後悔もなかったものらしく、「義務を果たしただけだ」とうそぶき、
さらに獄中から二度にわたって恩赦の嘆願をしています。
二人目。
「見張り役」としてゾフィーのそばにいた囚人女性、エルゼ・ゲーブル。
彼女もまた反ヒトラーの罪で収容されているだけに、ゾフィーに対しては並々ならぬ同情を寄せます。
夜も一緒にいたため、ゾフィーの告白を聴くことになり、戦後この日々を描いた本を著しています。
この映画のエピソードはこの著書から取られています。
三人目。
ゾフィーを取り調べる尋問官、ロベルト・モーア。
為政者ヒトラーに疑問を持たず、総統とナチス政権の正当性を彼女にかなり興奮して説き、
自分の信念を開陳するのですが、同時に彼女に一人の人間として、
あるいは同年代の息子を持つ父親として、同情と「何故こんな馬鹿なことを」という憐憫を見せます。
実際に彼女を取り調べたモーアも、そのような人物であったようです。
しかし、厳しい追及の末ゾフィーが自白し、さらに彼女が堂々と自分の信念の赴くところを述べてからは、
はっきりと彼女に対して尊敬と畏怖すら感じていた様子を、
名優アレクサンダー・ヘルト(シンドラーのリストに出演)が演じています。
四人目。
人民裁判の裁判官、ローラント・フライスラー。
もし、この人物を描写する部分が無ければ、わたしはこの映画について語らなかったと思います。
「愚かな売国奴め!おまえのような奴はドイツの子供の父親になる資格など無い!」
「学生がくだらんたわごとをまき散らすために、貴重な紙を使ったのか、馬鹿者が!」
(何か言いかけたのをいきなりさえぎって)
「ヤーかナインかではっきり答えろ!」
(最終弁論で『わたしを罰して子供のあるプロープストに寛大な処置を』と訴えたハンスに)
「自分を弁護する気が無いなら黙ってろ!」
・・・・・・・・・。
な、なんなんだこの○○○○裁判官は?
開始時、この裁判官始め全員で「ハイルヒッタラッ」をやる裁判ですから、
弁護人など形だけ、被告の弁護などする気もなく弁明を聴く気も猶予する気もありません。
最初から反ヒトラーの人物を見せしめに処刑にすることが決まっている裁判です。
それにしても、酷い。酷過ぎる。
そこで調べたところによると、この人物は
「あなたの政治的兵士・ローラント・フライスラー」
という手紙をアドルフ・ヒトラーに送っているように、ナチ党員の「殺人裁判官」です。
稿末に被告を罵るフライスラーの映像が観られるyoutubeのアドレスを挙げておきましたので、
観ていただければ、この映画の裁判シーンが決して演出でも創作でもないことがよくわかっていただけるでしょう。
わたしはこれを観たとき、即座にフランス革命裁判においてやはり「殺人マシーン」の異名をとった
裁判官フーキエ・タンヴィルの名を思い出しました。
ルイ一六世やマリー・アントワネット始め多くの貴族を、
でっち上げや人違いすらものともせずギロチン台に送ってきたこの悪名高い裁判官は、
その後自分がその革命裁判にかけられ、自己弁護を許されないまま自らが斬首されています。
そのタンヴィルの末路を知っていたのかどうか。
ゾフィーは最終弁論でこの言葉をフライスラーに投げつけるのです。
「今にあなたがここに立つわ」
フライスラーが連合国の裁判に立ち、その命で自らの暴虐の贖いをすることは許されませんでした。
終戦前、連合国軍の爆撃が裁判所を直撃し、がれきの下からその死体がみつかったのです。
これを「天の裁きが下った」「因果応報」と言っても、おそらく本人以外からは何の文句も出ないでしょう。
こうしてみると、
「政治に何の疑問も持たず、大勢(たいせい)に自分の思想や善悪の判断すら委ねる小市民」
(シュミット)
「自分の思想に忠実に反体制を実行に移し迫害される者」(ゲーブル)
「為政者の組織に属し、その体制に与するがゆえに任務を忠実に果たすが、
必ずしもその良識と良心まで売り渡しておらず、したがってときに体制への疑問を持つ者」
(モーア)
「為政者の組織に属し、その思想に心酔し、任務に忠実に、
さらにその大義名分の上で得た己の権力に陶酔しこれを濫用する者」(フライスラー)
という、ある社会体制には必ず一定数存在するタイプの人間が、描かれていることに気付きます。
尋問のとき、モーアがゾフィーに煙草を勧めながら聞きます。
「喫煙はしますか?」
ゾフィーは
「時々吸いますが、今は結構です」とこのときは煙草を断ります。
三人の処刑が決まった後、偶然のように通路に佇み、ゾフィーを無言で見送るモーア。
そして、それまで無表情に彼女に接する処刑場の女看守が、
「規則違反だけど」
と言いながら、三人をこっそり会わせて、一本の煙草を渡し、姿を消します。
これは事実で、昔読んだ本でも印象的な部分でした。
無言で一本の煙草を回し飲みする三人。
この計らいがモーアのものだったのだと思わせる伏線です。
ところで、映画について書くとき、わたしは必ず一通りの感想に眼を通します。
自分の感想や意見が、どの程度一般的なものと一致しているのかを確認する作業なのですが、
今回、こんな意見を目にしました。
「感動どころか怒りすら覚えた。
ナチスの費用で大学に通う身分なのにビラくばりをするゾフィー達には全く共感できない。
ビラ程度で世界を変えられると思っている彼らが正義の象徴を描かれていることに納得がいかない。
人間の本質も戦争の恐ろしさも、自由の大切さも何も伝えてはこない」
同じ政権下にもいろんな人物がいるように、同じ映画を観てもこんな見方をする人もいる、
ということですね。
二行目からは、フライスラーが被告に投げつけた糾弾と、全く同じです。
「レジスタンス運動としては計画がずさんすぎる」
というのが感想の全て、という人もいました。
この人たちはどうやら白バラの活動そのものがお気に召さない模様です。
その「ずさんな計画」しか起こせなかった程度の学生が、
正式な裁きの場で罵倒され、人格を否定され、その日のうちに命を絶たれてしまったという事実は、
彼女ら(どちらも女性)にとって、異常でも、自由の侵害でも、戦時下の弾圧でもないというのでしょうか。
とくに前者は、映画のストーリーに100点満点の20点つけているんですが、
三文脚本家が書いたストーリーじゃなくて、本当にあったことなんですよ?
被告を罵倒する裁判長フライスラー