(前回のあらすじ)
型破りな面接を経て念願の日航パイロットになった元帝国海軍少佐藤田怡与蔵。
そこでかれを待ちうけていたのはどんな試練なのか?
藤田はいかに戦い、いかに勝ったのか・・・・?
というわけで、藤田怡与蔵の戦い、日航パイロット編です。
昭和27年、藤田氏は日航に入社。
三等航空通信士の資格で乗務を開始します。
パイロットは当初全て外国人でした。
つまりは日本の通信資格者が必要だから乗せていただけで、実際の操縦は勿論通信任務も彼らがします。
日本人はただ座ってみているだけ。
藤田氏は、米人パイロットに挟まれて中央のジャンプシートに座り、
彼らが藤田氏に分からないと思って英語で悪口を言っているのを屈辱に耐えながら聞いていたそうです。
しかし、彼らは日本軍を、特に真珠湾でけちょんけちょんに米軍を叩いた帝国海軍を、
同じ軍人として尊敬こそすれ蔑んだり馬鹿にしていたわけではありません。
昭和28年の訓練中、厚木の米軍基地に立ち寄った藤田氏が海軍少佐であったことが分かると、
彼らの態度は一変し非常に丁重なものになったということです。
それでは元海軍パイロットであった藤田氏の目に彼らはどう映ったでしょうか。
藤田氏が副操縦士時代、米人の正操縦士を見て意外にに思ったことは
彼らのあまりな見張り能力の無さでした。
ある日の離陸中、藤田氏は前方低空を横切る水上機を発見し、機長に報告します。
しかし機長がこれを確認するのにたっぷり三秒を要し、さらにそこにいた非番の機長は
「機種は何だった?」
「水上機」と藤田氏が即答すると、彼らは非常に驚きます。
一般的に、離陸中、副操縦士の仕事はとても多く、4つのエンジンの推力を整えたり、
排気温度を上げたり時間を計ったり脚を上げたりフラップを上げたりと、
終始機長の命ずる操作をするのに精いっぱいです。
副操縦士の藤田氏に外を見ている時間など、彼らの常識ではあろうはずはないからです。
このことは、米人パイロットの間でちょっとした「MYTH(神話、伝説)」になりました。
藤田氏はそれから数カ月というもの、「ミス・バスターズ」を自認する同乗の機長から、
度々見張り競技を挑戦されたということです。
藤田氏は戦闘機パイロット。その命は見張り、という訓練を受けてきていました。
昼間でも星が見えるまで訓練した坂井三郎氏の著書でも知られていることです。
藤田氏自身は自分で「自分の見張り能力は中程度」と評価していたのですが、
その中程度の見張り能力でも、米人パイロットからの挑戦に連戦連勝。
「一回一ドルの賭け金でずいぶん外貨を獲得した」と言うことです。
当時の日本人操縦士は戦争を経験した猛者がほとんどでした。
その皆が「副操縦士ではあっても自分がこの飛行機を飛ばしている」
と言った気概を持っていたと言います。
勿論藤田氏もそうで、明らかに酔って乗り込んできた米人パイロットに
「オレが操縦するぞ!どけ!」と怒鳴りつけ、操縦桿を取り上げたこともあるそうです。
藤田氏はその後機長訓練に入るのですが、ここでも戦いは続きます。
副操縦士が機長になると、自分たちの職場が奪われるという意識のなせることだったのでしょうか、
それともたかが日本人にキャプテンの称号はやりたくないという差別心でしょうか。
観察指導と称して座っている彼らからずいぶんと妨害を受けたということです。
ある飛行前の点検で何ともなかった計器が何故かその後動作がおかしい。
ヒューズボックスを調べてみると、何本かヒューズが抜かれているのです。
横に座っている米人パイロットに向かって
( ̄ー ̄)ニヤリ
としてやると、彼は両手にいっぱいのヒューズを
♪~Ш‐( ̄ε ̄;)-Ш←ヒューズ
そんな中、いつも厳格な態度で指導に当たる、ある機長と戦争中の話をしていたところ、
どちらもがミッドウェー海戦に参加していたことが分かりました。
その日同じ海において、B-26で帝国海軍艦隊を雷撃した者と、零戦で米軍機を撃墜した者。
かれらはこの偶然に驚き、同時に戦った者同士にしかわからない一体感に意気投合します。
機長の熱心な指導で藤田氏が機長審査に進むことができたのは、この後すぐのことでした。