決して日本の基準から見ると「設備が整っている」とは言いがたい、
ここオークランド航空博物館ですが、決して手を抜いている訳ではなく、
主にボランティアの助けと、一人あたり15ドルの入館料で、
出来るだけ展示の充実を図っている様子がよくわかります。
展示室の隣にはスタッフの作業室があるのですが、ここで、
各種作業や小さいものは塗装などもしているようでした。
そして、前回、「ドゥーリトル・ルーム」でもお話ししたように、
いくつかある小さい部屋にテーマごとの展示がされ、
それなりに航空史をわかりやすく学ぶことの出来るような配慮があります。
そして、やはりボランティアの解説係がどうも詰めているようでした。
ようでした、というのは、わたしが一人で殆ど人気のない館内に入り、
やっと出てきた料金徴収のおじさんに入館料を払い、順に展示を見ながら歩き
20分ほど経ったとき、話かけてきた比較的若い黒人の男性が、
「ボランティアです」
と言ったからなのですが、後から考えると、この男性は、料金を払ったおじさんが
わたしが入ってきたので、よかれと思って説明の人を呼び寄せてくれたのかもしれません。
呼び寄せてくれた、というのは、彼が「私はこの近くに住んでいて」と言っていたので、
後からそう思ったのですが。
おじさんの好意は大変ありがたかったのですが、残念ながらエリス中尉、
そこがたとえ日本の資料館であったとしても、いちいちマンツーマンで説明を受けるより、
じっくり説明を読みながらいろいろ納得したいタイプ。
話を聴いていると、目の前にあるものの中から自分の興味となるものをフォーカスするとか、
そういう「好き勝手」もできないのが単に窮屈なんですね。
しかも、ここでは当然説明は英語。
ただでさえ、ネイティブにもバイリンガルにもほど遠く、
いちいち頭の中で通訳しながら英語をしゃべるレベルの人が、
博物館の資料説明を英語で聴いても、労多くして知識残らずは火を見るより明らか。
というわけで、懸命に話しかけてくる彼に、
「すみません、一人で回りたいんです。お願いだからリーブミーアローン」
な電波を精一杯送って、ついにあきらめた彼は
「じゃ・・・・・ハバナイスデー」
と去っていきました。
心の中でご厚意に感謝しつつ、すまなさで恐縮していたエリス中尉でございます。
第15航空隊のモチーフが木彫りされたもの。
P-3が配備された対潜哨戒部隊ですね。
この力作?は、結構な大きさの航空母艦で、USSキャボットです。
どうしてタスキーギルームにあるのかはわかりません。
わりとこのあたりがいいかげんです。
というか、他に置くスペースがななかったのね。
キャボットのコーナーにあったコルセアの模型。
雑は雑なりにいろいろ細部が凝っています。
着艦したものの、被弾して負傷したパイロットを救急隊員が搬送しているの図。
ちゃんとカメラマンがいて一部始終を記録しているのが、リアルです。
砲座は臨戦態勢。
しかしその割に艦載機が甲板に満載。
これはどういう状況だろうか。
キャボットは、おもに太平洋で日本軍と戦闘をしていました。
甲板から離艦した艦載機は、日本軍の基地を攻撃しています。
あの「マリアナ海の七面鳥撃ち」にも参加し、第二次世界大戦を生き残り、
現在はニューオーリンズで博物館展示されているそうです。
しかしつくづくアメリカって、沈んだフネに冷たいというか、
「生き残ったら讃えるけど、やられてしまったフネにはろくに触れようともしない」。
この傾向に今回の滞米で気づいてしまったエリス中尉であった。
さて、ちょうど彼が話しかけてきたときにわたしはこの「タスキーギ・エアメン」コーナーにいて、
彼と話している間の展示については懸念通りろくに集中して写真が撮れなかったのですが、
とりあえず今日はそのコーナーについてお話しします。
この「黒人ばかりの飛行隊」、タスキーギ・エアメンで
もっとも最高位に出世した、
ベンジャミン・O・デイビス・Jr.准将。
1912年にワシントンD.C. に生まれ、ウェストポイントに1932年入学したときは
たった一人の黒人士官候補生でした。
ウェストポイントの学校生活は、デイビスにとって過酷なものであったようです。
4年間というもの、彼は殆どのクラスメートに無視され、わずかな者が
かろうじて義務感から彼と口をきくような有様で、ルームメイトもなく、
いつも一人で行動し食事をしていたそうです。
クラスメートは彼を追い出すことすら望んでいたと言います。
陸軍航空隊が黒人を受け入れなかったため、彼は志望した航空隊ではなく、
全員黒人で組織されたジョージア州のバッファロー大隊に配属されます。
戦争に向けてそのころ世論が待望した黒人の飛行ユニットを作ることにした陸軍は、
タスキーギ陸軍フィールドで結成された飛行隊に、黒人将校であるデイビスを中佐に昇格させて
初めての黒人指揮官に任命します。
その後、第二次世界大戦と朝鮮戦争を、全部で5つの部隊の指揮官として戦い、
空軍、陸軍から殊勲賞を7種類叙勲されました。
晩年はアルツハイマーで苦しみ、愛妻アガサ夫人が亡くなってわずか二ヶ月後、
後を追うようにデイビス准将は89歳の生涯を閉じました。
合掌。
左・ファーストクラスナビゲーターの皆さん
中・B−25ミッチェル爆撃機のクルー
右・爆撃機パイロットのクルー
敵国であった日本人の血を引く日系人を戦力にするくらいですから、
アメリカがアフリカ系を戦力に採用しないはずはありません。
そこには、「白人の子弟だけを死なすわけにはいかない」という、
ワスプの防御意識が当然根底にあったと思うのですが、社会的には「底辺」ともいえる
アフリカ系に、「喜んで死んでもらう」ためには、やはり彼らにも軍人として
アメリカのために戦うことに対し誇りを持ってもらう必要がありました。
デイビスのような黒人を、当然反発があることなど百も承知で白人と一緒に教育し、
正規の方法で士官に育て地位を与えたのも、つまりは戦いに投入する彼らに
死に見合うだけの名誉、すなわち軍人として建前だけでも白人と同じ地位を与える必要があった、
ということではないでしょうか。
B−25ミッチェル。
447爆撃グループはこのノースアメリカンの爆撃機で訓練しましたが、
彼ら爆撃隊が実戦に投入されることは最後までありませんでした。
彼らに実際課されたのは、あくまでも「白人の爆撃隊の護衛任務」です。
サミーデイビスJr.?グレゴリー・ハインツ?
いえ違います。
ロバート・ディエス中尉という説明はありますが、
英語で検索してもこの人物の記述らしきものは見つかりませんでした。
タスキーギをテーマにしたイメージ作品。
タイトルは
「孤独な鷲たち」(Lonely Eagles)
なんとなく中二・・・いやなんでもありません。
「フレッド・ヴァン・チェリー少佐」。
朝鮮戦争、東西冷戦やベトナム戦争を通じて空軍に奉職しましたが、
ベトナム戦争の戦闘中、乗っていたF−105サンダーが撃墜され、
捕虜となり、厳しい尋問と繰り返し拷問を受けました。
7年間その過酷な捕虜生活に耐えた後解放されましたが、
そこでの友情(左図中右下の二人)などを著書に表し、トム・ハンクスがそれを
「名誉の帰還」というドキュメンタリーにし、テレビで放映されています。
右の写真は、ウィルソン中尉といって99戦闘機隊の所属ですが、
見ての通り、一生懸命パラシュートをたたんでいます。
彼の乗ったカーチスP−40は撃墜されましたが、彼は脱出し、
まさにこの落下傘で地上に生還することに成功しています。
ちゃんとたたんで開くようにしておいてよかったですね。(適当)
当たり前のように落下傘なしで出撃し、死ななくてもいい搭乗員をに死なせてしまっていた
日本の航空隊って、それにしても一体どういう思考だったんでしょうか。
必ずしも降下したら捕虜になる可能性ばかりではなかったはずなのに。
アメリカ人には少なくとも全く理解不能だったに違いありません。
しかし、何をしても死ぬときは死ぬのが戦争というもの。
この三つの写真中、真ん中の写真が先ほどの「ディエス中尉」なのですが、
ディエス中尉は、この写真を撮ったまさにその翌日の1944年1月27日、
フォッケウルフに撃墜され戦死したそうです。
合掌。
ジェシー・ルロイ・ブラウン少尉。
アメリカで史上初のアフリカ系飛行士と言われています。
苦労して海軍飛行将校となり、最初の航空士官となった彼は実地部隊で経験を積み、朝鮮戦争に参加します。
北朝鮮の貯水池上で、何人かの列機を率いて戦闘をしていたブラウン少尉は、
対空砲火を機に受け、黒人パイロットの初めてのこの戦争での戦死者となりました。
その功績と勇敢な死を讃えて、彼の名前は
駆逐艦「ジェシー・L・ブラウン」に残されることになりました。
スミソニアンには、タスキーギのファイターグループが乗っていた
「レッドテイルズ」
つまり、この写真のように尾翼を赤く塗ったP−51マスタングが展示されているそうです。
ここにも、一応模型ですがこんなものが。
さらに、レプリカで小型ではありますが、
マスタングのレッドテイルズ仕様が展示されています。
彼らの着用していた軍服も。
タスキーギの物語は誇らしげに今日も語られています。
しかし、残念ながら、戦った「黒人の側」からの賞賛が殆どであるという気もします。
それが証拠に、ルーカスが指揮した映画「レッドテイルズ」は、
「もし好評だったら続編、続々編もありうる」
というルーカスの言葉とは裏腹に、本編すらヒットに至りませんでした。
アメリカではヒットせず、日本では公開すらされていません。
ここには、シシリーにあったタスキーギ・エアメンの基地を再現した
ジオラマが飾られています。
シシリーから、これだけの地域に遠征したという、
タスキーギ航空隊の作戦経路。
最も遠い航路は、ドイツのマンハイム近くになります。
日系部隊においても言えることですが、国家がその命を「活用」するつもりであることを百も承知で、
彼らアフリカ系が、アメリカ軍の軍人として国のために命を賭けたことの根底には、
黒人の地位をアメリカ国内で獲得するという目的があったのは否定できないところでしょう。
つまり、嫌な祖国だが協力者となり、公民権を勝ち取ろう、という考えです。
映画「タスキーギ・エアメン」でも描かれていたように、当時の黒人社会でも
一握りのエリートとでも言うべき富裕層の子弟でもないと、
黒人部隊、しかも航空隊には入ることは出来なかったにもかかわらず、
やはり社会全体から見るとアフリカ系はあくまでも社会の最下層で、
つまり人間扱いすらされていませんでした。
日本が真珠湾を攻撃したとき、黒人たちは密かに快哉を叫び、
「俺たちのために白人をやっつけてくれ」
と少なくない者たちが内心喜んだといいます。
そして、自分たちが戦力に「投入」されるようになると、
白人のために同じ有色人種である日本人と戦わなければならない理由を、
彼らには見いだすことが難しかった、とさえ言われています。
アメリカという国の戦略に長けている部分は、こういった彼らの
「同じ有色人種に対するシンパシー」を察知して、
彼らを南方や、日本本土空襲に決して投入しなかったことでしょう。
同じ人種である日系人の部隊を、沖縄には通訳という形でしか配置しなかったのと同じです。
ところで、「人種問題」の根の深さは、実は白人対有色人種という構図ばかりにあるのではありません。
先ほど紹介した最初の黒人パイロットであるジェシー・ブラウン少尉がこんな告白をしています。
「飛行学校のクラスのみんなや教官はわたしを受け入れてくれた。
むしろ、アフリカ系のコックや守衛たちから堪え難い嫌がらせをされた。
これは、彼らの『選ばれた黒人』に対する嫉妬だったのだと思う」