Elisabeth"Bessie" Coleman
ビリー・ホリディの名曲
「ストレンジ・フルーツ」(奇妙な果実)
をご存知でしょうか。
Southern trees bear strange fruit
(南部の木には奇妙な果実がなる)
Blood on the leaves and blood at the root
(葉には血が、根にも血を滴たらせ)
Black bodies swinging in the southern breeze
(南部の風に揺らいでいる黒い死体)
Strange fruit hanging from the poplar trees.
(ポプラの木に吊るされている奇妙な果実)
この詩が書かれたのは1930年。
南部で強姦の疑いをかけられた黒人青年が二人、
怒り狂った民衆に警察から連れ出され、
リンチを受けて木につるされている衝撃的な写真を見て
ショックを受けたユダヤ人の教師が書き上げた「告発詞」です。
このころ、まだアメリカ南部では白人が黒人をリンチするという事件が相次いでおり、
またKKK団の団員が州知事になったり、あるいは過激な行動に走るなどして、
「白人至上主義」が暗黙の支持を受けていたころでもありました。
ベッシー・コールマンは、そのような世相の中、
アフリカ系アメリカ人女性として初めて飛行機で空を飛び、
アフリカ系の人種としては初めて国際免許を取りました。
社会的に認められているどころか、
迫害を受けていたといってもいいこの時代、
アフリカ系の女性がどうやって当時最先端だった飛行機で
空を飛ぶことができたのでしょうか。
たとえ白人でも、女性はそのような道を絶たれているのが普通のこの時代に・・。
ベッシー、本名エリザベス・コールマンは、
1892年、アメリカ南部のテキサス州アトランタに生まれました。
アトランタというと、あの「風と共に去りぬ」の舞台です。
マーガレット・ミッチェルのあの小説によると、南部の奴隷制度は
ときとして黒人奴隷たちを家族かそれ以上の存在として愛していた、
という風に描かれていますが、KKK団が結成された1900年初頭は
冒頭のような白人によるリンチが多発していたのも事実です。
しかもベッシーの父親にはチェロキーインディアンの血が流れていました。
23歳になった彼女は、理髪店でネイリストとして働いていましたが、
ある日第一次世界大戦に参戦し帰国したパイロットの客から
飛行機の話を聞きます。
彼の話にすっかり飛行機への憧れを掻き立てられた彼女ですが、
残念ながらただでさえ人種偏見の強いテキサス、
彼女には飛行学校の入学許可さえおりませんでした。
普通の女性ならここであきらめてしまうところですが、
彼女はあきらめなかったのです。
アフリカ系アメリカ人の読者のための新聞、
シカゴ・ディフェンダー新聞の創設者であった
ロバート・S・アボットのすすめにより、またこの会社の支援を受けて、
彼女は海外に留学してそこで飛行免許を取ることにします。
シカゴにある語学学校ベルリッツ(このころからあったのですね)
でフランス語を学び、パリにわたり、ニューポール82型の免許を取得します。
民族性別関係なく、アメリカ人が国外の飛行免許を取ったのは、
これが最初のことでした。
ベッシーの航空免許
彼女はスキルを磨くために、パリ郊外で
フランスのエースパイロットから二か月の特訓を受けました。
ニューヨークに 彼女が帰ってきたときには
メディアはセンセーショナルにそれを報じたといいます。
帰国後、さっそく民間パイロットとして生計を立てるために
スタント飛行や地方巡業を始めますが、彼女はすぐに、
この競争の激しい世界で成功するためには、
より高度な技術や広範なレパートリーが必要であると実感することになります。
しかしながら、1922年当時のアメリカでは、黒人の女性を
喜んで教えようという飛行教師を見つけることすら
出来なかったため、彼女は再びフランスにわたり研鑽を積むことを決心します。
そしてその際、フランスだけでなくオランダに渡る計画を立てました。
世界でもっとも著名な航空機設計者の一人、
アンソニー・フォッカー に会うためです。
しかし、この行動力、向上心。
当時の有色系アメリカ人で、ここまで世間の偏見をはねのけたうえで
自分のやりたいことに向かって突き進んだ女性がいたでしょうか。
もちろん、だからこそ彼女は歴史に名を刻むことになったのですが。
オランダではフォッカー社のチーフ・パイロットからさらに追加の指導を受け、
彼女は自信と熱意をもってアメリカに帰国しました。
帰国後のアメリカメディアと世間は、以前より一層彼女を持てはやし、
重要なイベントはもちろん、メディアののインタビューを受け、
白人、黒人どちらの側からもカーチス”JN-4”を駆る
「クィーン・ベス」は賞賛されることになります。
ベッシーは、第一次世界大戦に参戦したアフリカ系ヴェテランのために、
ロングアイランドでエアショーを開催。
この時のスポンサーはもちろん「シカゴ・ディフェンダー」でした。
ショウにはほかに8名のエースや、黒い落下傘で降下展示をした、
やはりアフリカ系のユベール・ジュリアンなどが出演し、
観衆の喝采を浴びたといいます。
人気の出た彼女には映画へ出演のオファーも来ました。
「光と影」という映画で、アフリカ系企業の出資によるものでした。
彼女はそれが自分のキャリアと、経営していた飛行学校の宣伝のために
一旦は引き受けますが、
「彼女がボロボロの服を着て背中に荷物を背負い、杖をついて現れる」
という予定された最初のシーンを知った瞬間、出演を拒否しました。
なぜなら彼女は飛行家として、時流に対し、
便乗することを良しとするオポチュニストでしたが、
自分の属する民族問題に対しては
決してオポチュニスト(日和見)でいられなかったからです。
そしてほとんどの白人が持っているほとんどの黒人への
軽蔑的なイメージを踏襲する一助を担うことを良しとしなかったのでした。
しかし、飛行家としての彼女には厳然たる人種差別の壁が立ち塞がっていました。
ここで何度かアメリカ航空界の黎明期における女流飛行家を語ってくる中で、
彼女たちの飛行キャリアの証明でもある
「パウダーパフ・ダービー」に何度も触れましたが、
この「パウダー・パフ」の出場者の一覧を見てください。
THE FIRST WOMAN'S NATIONAL AIR DERBY
当然ですが、全員が白人女性です。
これが当時のアメリカだったのです。
いくら変わった経歴で多少世間の耳目を集めたところでそれは
「黒人のくせに頑張っている」程度の関心であり、
いざとなると有色人種は「飛行家」のうちには入れてもらえなかった、
ということでもあるのです。
彼女はその現状をを少しでも「ブレイクダウン」するために、
黒人のパイロットを養成することのできる専門学校の創設を決意しました。
しかし、残念ながらそれを成し遂げるほどの時間は
彼女には残されていませんでした。
1926年4月30日。
彼女は購入したばかりのカーチスJN-4で
ショウのためジャクソンビルに向かっていました。
ジェニーという名のその飛行機で彼女が飛ぶことを、
本人はもちろんのこと、もはやだれも危険であるなどとは
夢にも思わなくなっていました。
次の日のショウでのパラシュート降下を予定していたため、
彼女はそのときシートベルトを外し、コクピットから地形を確認するために
大きく身を乗り出して地上を確認していたと思われます。
次の瞬間、10分間もの間飛行機は謎のスピンを起こし、
ベッシーは610メートルの高度で飛行機から振り落とされ、
地面に墜落して即死しました。
同乗していたナビゲーターのウィリアム・ウィルズは
機を立て直そうとしましたが、コントロールを失った「ジェニー」は
地面に激突し焼失。
ウィルズも即死でした。
後から機体を調べたところ、エンジン修理に使うレンチが
ギアボックスに滑り込んでいて、中で詰まっていたことが判明しました。
ベッシー・コールマン、34歳の早すぎる死でした。
アフリカ系アメリカ人のための飛行学校を創設するという彼女の希望は、
彼女の死によって潰えたということになりますが、彼女の死後、
「ベッシー・コールマン・エアログループ」
が創設され、ウィリアム・パウエルがプロモーターとして、
アフリカ系の才能開発に当たりました。
1931年、これはまさに「ストレンジ・フルーツ」のあのリンチ事件の次の年ですが、
このグループの主催によって、シカゴでは、
すべて黒人パイロットによるエアショウが行われ、15000人もの観客を集めています。
しかしその後、このグループもまた大恐慌の影響を逃れることはできず
閉鎖されました。
とにかく彼女のなした先駆者としての業績が
後に続くアフリカ系の若者に希望を与えたことは間違いないことなのです。
エアログループのプロモーターを買って出たウィリアム・パウエル・Jr.は、
アフリカ系軍人であり作家でもあったのですが、
小説「ブラック・ウイングス」をベッシーに捧げ、その中で
「我々は人種の壁よりさらに厄介なことを克服しなければならない。
それは自分たちの心の中にこそ存在する障壁を克服することすら、
あえて夢にしてしまうことだ」
と語っています。
パウエル・Jr.はベッシーと並び称されるアフリカ系パイロットの先駆者の一人ですが、
第一次世界大戦で従事させられていたガス取扱いの任務が原因で病死しています。
そして時は流れて2005年。
のちのアメリカ史上初のアフリカ系大統領、
バラク・オバマが上院議員に就任していたこの年、
U.S コーストガードに若いアフリカ系の女性が
パイロットとして採用されました。
ラ・シャンダ・ホームズ(La'Shanda Holmes)20歳。
孤児院で成長した彼女は逆境の中優秀な学業成績を収めていました。
そんな彼女の人生を変えたのが「チアー・デイ」にあった
沿岸警備のリクルートコーナーです。
基礎知識に始まりトレーニングとそれに次ぐスクリーニングを経て、
彼女は回転翼操縦の資格を得、
MH-65Cドルフィンのパイロットとなりました。
アフリカ系の女性がU.Sコーストガードのパイロットになったのは
これが初めてのことだそうです。