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横須賀音楽隊演奏会~「フェントン君が代」と中村祐庸隊長

2013-10-18 | 音楽

昨日お話ししましたが、日本吹奏楽発祥144年記念演奏会は、
どうやらこの「フェントン作曲・君が代」藤田玄播「先人を仰ぎて」を、
必ずプログラムの前に演奏することを決めているようです。

昨日「長くなりすぎるので」取り出して語ることにしたこの「君が代」、

「仮君が代」「習作君が代」

というべきもので、だからこそ取りあえずは敬意を表して、この式典では
必ず最初に演奏することにしているのかと思われます。

以前エントリを制作したときには、浅学の身ゆえ原曲が現存していることを
全く知らなかったのですが、ここで初めて聴くことが出来ました。
楽器演奏で唄の無いバージョンです。

この日の演奏を聴いた感想を一言で言うと、

「失敗作である」

しかも、それに「大」がつきます。

皆様は、コラールという形式をご存知でしょうか。
もともとはルター派の賛美歌のことですが、それらの典型的な形式を持つ曲を
現在はコラールと呼びます。
賛美歌というものは「すべての人に歌ってもらえるように容易なもの」
という観点から作られていますので、難しい跳躍やリズムを擁しません。
単純で単調、一言で言うとコラールはこのような特徴を持ちます。

この、フェントンの君が代は、一言で言って「コラール」なんですね。

この日妙香寺で聴いたコラール風君が代は、
君が代と思わなければ、
宗教曲としてこういうのもあるだろうな、と思われる程度には出来ていました。

しかし、正直なところを言うと、ダラダラ流れるだけの単調で、起承転結のない、
まあ強いて長所を探すなら響きだけは荘厳な、そう、まるでそれは
音大の作曲科を目指す高校生が和音進行のセオリーを学ぶために解く、
「ソプラノ課題」そっくりの代物です。

論より証拠が冒頭の譜面。

決定的に大失敗なのは、これにあの「君が代」の歌詞がつけられていること。
譜面の読める方、ぜひ歌ってみてください。 

明らかに日本語というものを全く知らない外国人が、一音一語のセオリーだけ踏まえて、
意味はもちろん、フレーズの切れ目も、息継ぎも、何も考えずに作った、
歌以前の「なにか」であることがたちどころに理解できると思います。

とくに「さざれ」のあとに休符を挟んで「いしの」と続くところなんか、最悪ですね。



フェントンと言う人物はもともとイギリス陸軍の軍楽隊長でした。
以前、日本が招聘した13人の「お雇い外国人」について調べたときに、
さらにその中で有名なのは

フランス人ラッパ伍長ギュスティッグ(日本における最初の五線譜を取り入れさせた)

ジョン・ウィリアム・フェントン (英国陸軍軍楽隊長)

ラッパ教官ブラン (ラッパ手)

ギュスターブ・ダグロン(陸軍軍楽隊の指導)

フランツ・エッケルト(海軍軍楽隊がドイツから迎えた)

アンナ・レール (ピアノを海軍に教えた)

シャルル・エドアール・ガブリエル・ルルー(抜刀隊の作曲者、陸軍で指導) 


 
である、とお話ししました。


この「お雇い外人」が、果たして本国では音楽家としてどの程度の人物であったのか。
それはすでに知ることも出来ないわけですが、一つ分かっていることは、このなかで

「本国でも一流として通用する音楽家は、ルルーだけだった」

ということです。
名前の残らなかった6人には「箸にも棒にもかからない」といった手合いもいたとのこと。


もちろんフェントンはその手合いとは全く違うし、現に日本の吹奏楽の発祥に力を尽くしました。
軍楽隊の隊長として、音楽指導者として、確かに力を持っていたのでしょう。
しかし、同時代の後期ロマン派音楽家、ブルックナーやブラームス、あるいはフランク、ワグナー、
彼らの音楽が生まれていた頃であることを考えると、この「君が代」はあまりに凡庸で、
何のオリジナリティやインスピレーションも与えるものではありません。

しかし、いいも悪いも、当時日本にはそれを評価できる人物が皆無だったのですから、
この「フェントン君が代」は、明治3年、「フェントンのサツマ・バンド」、すなわち、
その前年度に薩摩藩の若い藩士30名によって御親覧され、
しばらくのあいだ「国歌のような位置づけで」使われていました。

その2年後の明治5年、ある人物が海軍の軍楽隊長に就任します。

中村祐庸(なかむら・すけつね)

わたしは、もしこの人物がいなかったら、フェントンのこの君が代が、
いつまでか分かりませんが、日本の国家として正式に決まってしまい、
皆が納得のいかないままこのわけわかめな曲を朝に夕に奏上していたのでは、
と結構真剣に信じています。

中村は若くして軍楽隊長に選ばれただけあって技量はもちろん耳も良かったらしく、
皆が首を傾げながらも

「でも、一応外国人の音楽家が作ったんだし・・・・・」

という、そう、まるで「裸の王様」状態のこのフェントン君が代に対し、
王様は裸だ、じゃなくて、


「独立国の隆栄と君主の威厳を表すには国歌は欠くべからざるもので、
人情を感動せしむる音楽の効用は遥かに優るが、
正しい声響に競合しない音楽にはその効能はない」


つまり、日本語に全くこの歌合ってないんじゃね?とし、フェントン君が代を

廃止するように上申します。



フェントン左。中村右。

いつの写真かは分かりませんが、このとき中村が内心、フェントンのことを

「お抱え外人というが、曲は大したことないじゃなか!」(鹿児島弁)

と内心見くびっていたことは十分想像されます。(考え過ぎ?)

当時の音楽情報量であれを一番乗りで「駄作」と決めつけるなど、
よっぽど自信がなければできることではありませんが、その自信もあったのでしょう。


ともあれ、内心みんな「この曲って・・・・もしかしたら変な曲なんじゃ・・・」
と思っていたところに中村がこのように声を上げてくれたため、あっという間に
フェントン君が代は廃止され、その代わりに新国歌を作ることが決まります。

(たぶん)傷心のフェントンは、翌年日本を離れて、日本で迎えた後妻(前妻は横浜外人墓地に墓がある)
の故郷であるアメリカに帰っていきました。 
(本当は単に任期が切れただけなんですけど、ここは話を盛り上げるためにそういうことで)


鹿児島県吹奏楽連盟のHPには、この辺りのことが年表にされています。
 

これを見ていて、わたしはあることに気がつきました。
中村がフェントンの君が代を批判し、廃止を求めたのは、
まだフェントンが日本に滞在しているときです。
それが決まって一年後、フェントンは日本を離れるわけです。
年表の明治10年のところを良かったら見ていただきたいのですが、
すこしこの文章はわかりにくいながら、どうやら中村は、

品川から熊本に出航するフェントンを、
西郷隆盛の葬送のために書かれた曲で見送った


ということのようなのです。
(そうですよね?)


うーん。

中村、フェントンを無茶苦茶嫌っていたのではないか?

確かに西郷の葬送曲はその少し前に作曲されたばかりの勇壮な曲であったそうですが、
わざわざ葬送のために書かれた曲で、帰国の途につく人物を見送ったりするものだろうか?

いくらたいした出来ではなく、廃止させようとしていたとはいえ、最後くらい花を持たせて、
国歌になりそこなった彼自身の「君が代」で送ってあげるべきだったのではないか?


この、歴史に残る中村の「選曲」からは、若い彼がかなりの勢いで、
しかも情け容赦なくフェントン君が代を排除しようとした、という「裏」が透けて見える気がする、
というのは穿ち過ぎでしょうか。
中村がフェントンを嫌いだったかどうかはともかく、

「確かに少し変なんだけど、フェントン先生にはほら、お世話になってるし」


とばかり、情実を優先して完璧な音楽でなくても妥協し、
角を立てないように任務をやり過ごすような事なかれ主義(そう言う話、多いですね)
の音楽家でなかったことだけは確かです。




さて、それでは、楽譜が読めない、という方にも、これがどんなものであったか知っていただくため、
やはり妙香寺で行われた演奏会のものであると思われる、

「フェントン作曲・君が代(歌詞付き)」

を貼っておきます。

あとは皆様ご自身で評価してみてください。