ジョン・フェントンの「君が代候補」があまりに日本語のリズム無視の、
歌うのも過酷なものだったため、しばらくは外人さんの曲だからと、
首を傾げながら演奏していた日本人は、海軍軍楽隊隊長、中村祐庸の
「王様は裸だ」ならぬ
「フェントンの曲は駄作だ」
という勇気ある批判と上申によってはっと目が覚め、(たぶん)
「んじゃ君が代作り直すか!」
ということになった、というところまでお話ししました。
ちょっと待て、一体日本には何曲「君が代」があったんだ?
そう不思議に思われる方のために、答えを出しておきましょう。
正解は5つ。
1、薩摩琵琶の 「蓬莱山」の一節「君が代」
2、フェントン作曲「君が代」
3、林廣守とその仲間、式部寮伶人何人かによる「君が代」エッケルト編曲
4、サミュエル・ウェブ一世の曲から作った文部省唱歌「君が代」
5、ラッパ譜「君が代」
まず1についてですが、「君が代以前」というか、もともと最初にフェントンが
国歌を作るべきだと(ついでに自分で作りたいとも言ったらしい)進言したとき、
歌詞の選定を一任されたのちの明治の元勲大山巌は、薩摩琵琶の「鳳来山」の一節、
「君が代はさざれ石の巌となりて苔の生すまで」
という古今和歌集のから取られた歌詞を定めました。
つまり、「君が代」の材料となったのがこの「鳳来山」です。
2は前回説明したフェントン作曲。
この曲があまりにあまりだったので、海軍軍楽隊長の中村が廃止を提言し、
新しい「君が代」の制定が始まります。
経過はすっ飛ばしますが、フェントン去りし後やってきたお抱え外国人、
海軍がドイツから招聘した、フランツ・エッケルト、中村祐庸、そして林廣守、
その他一名の4人で国歌選定作業を行ったということです。
そこで、宮内庁雅楽部の林に、西洋音楽の基礎を学ばせ、彼個人というより、
宮内庁式部寮伶人に作らせたいくつかの旋律をまとめ、そしてそれに西洋和声をつけて
現在の「君が代」と同じ形にしたのが「エッケルト」だと言うことです。
これが、上記5つの君が代のうちの3です。
そう言えば、「君が代」を聴いたヨーロッパ人が、
「響きがワグナーのようだ」
という感想を述べたという話を読んだことがありますが、エッケルトがドイツ人であることも
その印象に若干関与していたかもしれませんね。
現在、「林廣守」という名で検索すると「君が代の作曲者」と紹介されています。
では林が一人でこれを作ったのか?というと、それは違うのです。
元々の旋律は宮内庁の伶人奥好義が作ったもので、林はそれを採譜・編曲しました。
どうしてはっきりと個人名が残っていないかというと、宮内庁雅楽部というのは
慣例的に何かを作曲しても個人名は出さず、「式部寮伶人作」と表明していたからです。
大東亜戦争中、敵機撃墜は個人の成果ではなく、これすなわち共同の戦果である、とした
日本陸海軍の戦闘機隊もそうですが、これもまた和を重んじる日本の組織らしいですね。
そして、本日冒頭の君が代。
それが、4であるところの「文部省唱歌・君が代」です。
1882年、東京藝術大学の前身である、音楽取調掛が、
「小学唱歌集」
という歌集を編纂しました。
ほとんどが外国の曲に日本語の歌詞をつけたもので、
「蛍の光」
「庭の千草」
「才女」(アニーローリー)
「むすんでひらいて」(ルソー作曲)
など、現在も同じ歌詞で歌われているものであり、その23番にこの
「君が代」
があったのです。
エッケルト編曲の「君が代」は完成後式典に使われてきましたが、
それは正式な「国歌」として定められてのことではありません。
ここでふと考えると「君が代」が国歌として法律によって決まったのは、
1999年に発布された「国旗国歌法」が最初なのです。
エッケルト編曲、林廣守主導の「君が代」は完成後の評判も上々で、
これが国歌になってもちっともおかしくはなかったのですが、
この「君が代」を作るにあたって海軍軍楽隊長の中村祐庸が音頭をとったことから、
「海軍省と宮内省で勝手に作ったもので、国歌とは認めがたい」
と、どこからともなく(?)横槍が入ってきたというのです。
この「どこから」というのは、わたしが昔そう推測したようにまず
「陸軍」
そして
「文部省」
そのなかでも
「音楽取調掛」
であったらしい、ということになっているようです。
つまり、この「第二十三番・君が代」を含む、欧米からの音楽導入書であるところの
「小学唱歌」の編纂によって、音楽取調掛は、
日本人に西洋音楽の基礎を啓蒙し、あわよくば「君が代」を唱歌として浸透させ、
自然発生的にそれを国歌として制定するという流れを作ろう
と計画したらしいのです。
「君が代」の歌詞には、Samuel Webbe(サミュエル・ウェッブ)の曲を当てはめました。
このウェッブは、1740年生まれのイギリスのオルガニスト兼作曲家で、
現在も教会音楽にはその作品が残っているそうです。
で、冒頭の楽譜が読める方は、ぜひ歌ってみていただきたいのですが、
これって・・・・・。
フェントンのより変じゃないですか?
ちなみに、楽譜の読めない方のために、初音ミクさんの歌を貼っておきます。
文部省唱歌「君が代」初音ミクさん
(うっかり15小節目のC(ド)にナチュラルをつけるのを忘れてます。失礼しました)
日本が近代化に向けて大きく動き出したとき、そこには
「初めて」の名誉を我がものにしようとする野心家があらゆる分野で現れました。
フェントンが、本国では決して作曲家として認知されているレベルでもないにも関わらず、
日本の国歌を自分が作りたいと申し出たのもそうですし、
音楽取調掛が、「海軍省と宮内省に国歌作曲の栄誉を渡したくない」
とやっきになってウェッブの曲に歌詞を当てはめ、歌詞が足りないので後半は作って付け足す、
というような暴挙に及んだのも(笑)その野心ゆえだったでしょう。
未来永劫国民に歌われ、歌とともに自分(たち)の名も残る。
たとえ自分が死んでしまっても、国歌が残る限り、自分の生した作品は永遠に残る。
この栄誉を何としてでも手に入れたい、と思う気持ちはわからないではありません。
そして、確かにこの「君が代」は、フェントンのような「日本語の音節無視」という、
無茶苦茶なものではなく、取りあえず音節はちゃんとしており、言葉とメロディも
一応はリンクして自然です。
しかし決定的なことは、この曲には全く音楽としての説得力がありません。
あえていいところを探してみると、第4段後ろ二小節の順次進行で、
5度上5度和音を使ってVに到達しているサブドミナントの使い方くらいでしょうか。
(分からない方は読み飛ばしてください)
散漫さにかけてはフェントン君が代の上を行くほどで、その理由は、
「君が代は」・・・二小節
「千代に八千代に」・・・三小節
「さざれ石の」・・・三小節
西洋音楽の伝統的な手法では、基本メロディは「4の倍数の小節数」で区切れます。
それが「2」になることもありますが、あえて効果を狙ってするもので、
2・3・3でいきなり始まるこの曲は、とても「まともな進行」とは言えません。
民謡や戯れ歌ならいざ知らず、こういう「奇をてらった」区切り方は、
フェントンの「メロディと言葉の乖離した歌」と同じく、国歌にふさわしいとも思えません。
もしこの「唱歌」の「君が代」が名曲なら、それが国歌になる可能性もあったのでしょうが、
誰が聴いてもおかしな曲だったので、それゆえ音楽取調掛の野望は潰えました。
「庭の千草」「蛍の光」などが日本人のDNAレベルに浸透する「魂の歌」になったのに対し、
現在、この「君が代」を歌える人どころか、知っている人すらほとんどいません。
動機が不純とかいう以前に、音楽として全くイケてなかったのですから仕方ありませんね。
最後に余談ですが、終戦後の1950年ごろ、
「日本の軍国主義の象徴である君が代を廃止し、新しい国歌を作ろう!」
と張り切った日本教職員組合と、サントリーの前身である壽屋の佐治敬三が一緒になって、
「新国民歌」を選定したことがあります。
日教組の方が「緑の山河」(なんだか北朝鮮っぽい響き・・・)
壽屋は「我ら愛す」(変な日本語ですね。これも共産主義国の国歌みたい)
と言う曲を「国民歌」としたのですが、これが国歌に変わるはずもなく、それっきりでした。
日教組と佐治敬三の野望もこうして潰えたのです。
音楽としてこれらの曲がどうだったのかはわかりませんが、どうあれ日本人がずっと歌い続け、
我々の先人の歴史に刻まれてきた「君が代」に、今更取って代われるような曲が
そう簡単にできるとはわたしにはとても思えません。
彼らの言う「負の歴史」のさなかにも国歌であったからこそ、未来に語り継ぐべき歴史とともに
「君が代」は決して失くしてはいけないという考え方もあると思うのですが。