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開設1000日記念ギャラリー~挿絵編

2013-10-10 | つれづれなるままに



義烈空挺隊強行着陸せり

特攻記念館では、ある意味よく知っていた陸軍特攻そのものより、
パネルにおいてひっそりと展示されていた義烈空挺隊の敵中着陸作戦に
非常な衝撃を受け、帰ってきてから一気にこのことを集中して調べました。

その過程で、相変わらず記録に残る事実を無視してまで、彼らを「被害者」、
この作戦による戦果が全くなかったような印象で「無駄死に」と位置付ける、
マスゴミ制作の不愉快なドキュメンタリーを告発する羽目になってしまいましたが(笑)

このシリーズで、彼らがいかに長期間、空挺による決死作戦を下命されながら
何度もその意思をくじくような作戦中止によって翻弄され続けてきたかについても
一稿を投じて調べたことを書きました。

あまり有名でないため、義烈について書いたものは他にはそうないらしく、
いまだに毎日のように閲覧数が上位に挙がってくるエントリの一つです。

この絵における奥山大尉と諏訪部大尉の握手しながらの微笑みは、
「あと数時間以内に自分の肉体が作戦に殉じてこの世から消滅する」
ということを覚悟してのものです。
そしてやはりつりこまれて笑っている周りの隊員たちも、もしかしたら同じように
この後両大尉と運命を共にしたのです。

そんな彼らの姿を永遠にとどめた瞬間を描いてみました。


昭和天皇と或る少尉候補生




日航機墜落事故があったとき、災害現場となった御巣鷹山のあった群馬県は上野村の
村長であったのが、かつて零戦搭乗員であった元海軍軍人、黒澤丈雄氏でした。

黒澤氏が少尉候補生であったころ、大演習で昭和天皇の拝謁を受けたのですが、
その50年後、この大事故が起こり、上野村に激励を賜るために御行啓あらせられたとき、
なんと陛下は50年前の少尉候補生の顔をご記憶あそばされていたという・・・。

穿った考えをここで述べますが、ご行幸の際、宮内庁は勿論そこの関係者、
ことに天皇陛下と接触する人々についての調査を、当然ですが厳密に行うはずです。
この場合も、前もって黒澤氏の来歴なども陛下のお目に留まっていたと思われます。
「海軍兵学校卒」というその経歴を事前に基礎知識として周知あそばされていた故、
直接黒澤氏の顔を見たときに「海軍大演習」という記憶が蘇ったのではないでしょうか。

勿論、そういう「範囲の絞り込み」があったとしても、たくさん居並ぶ軍服の群れの中の、
しかもミシップマンの面影を覚えておられたことが驚くべきであることに間違いはありません。

一人一人の軍人の顔を当時陛下はきっちりとご覧あそばされていたということで、
記憶力というよりそのお心にむしろ感動する逸話といえます。



嗚呼陸軍潜水艦~戦艦大和の答舷礼



「嗚呼陸軍潜水艦」シリーズは、これもいまだに時々閲覧数が上位に挙がってくる
人気エントリでもあるのですが、そのなかではこのエントリは、
思い入れの割には(笑)あまり見られていないようです。

何の因果か、陸軍に入ったのに潜水艦勤務を割り当てられた陸軍士官。
ある日、訓練中に巨大な「山のような」大和とすれ違います。

ほとんどの海軍艦艇から馬鹿にされたり攻撃を受けたり、その秘匿性と
「陸軍が作った」ということから完成以来苦渋と辛酸をなめてきた小さな潜水艦。

そんな彼らに向かって、「大和」は見事な答舷礼式を送ってきます。
感激した陸軍士官でしたが、のちに、それが特攻に赴かんとする大和の「最後の姿」だと知るのでした。


海軍短刀

 

或るサイトでこのエントリを取り上げていただいていたようですが、
その際「この写真も美しいがこの文章も美しい」
とお褒めを戴き、大いに照れました。
この場でお礼を申し上げます。

ところで、この写真がまったく逆向き、つまりネガが裏返されているのを
見たことがあるのですが、こちらが正しいことは、
まさに海軍短刀の佩されている方向で明らかですね。

この美青年は71期の西田潤生徒。
任官後艦艇乗り組みとなり、その後戦死したということです。


「母のロマンス」



身内の話で後から自分で見ると非常に照れくさいエントリをつい制作してしまいました。
まあどこの家庭にもある「娘が聞いたお父さんとお母さんの結婚前の話」です。
(観られるのが恥ずかしいのでULRを貼らない)


或る陸軍軍人の見た終戦




建築界の大物で陸軍士官学校卒。

そんな方と一時お話させていただく僥倖に恵まれ、その時に伺った
「士官学校生徒として見た終戦のこと」
を書かせていただきました。

この方の設計した横浜のみなとみらいにある超高層ビルについても
「或る陸軍軍人の戦後」(建築家編)で説明させていただきましたが、
豪華客船あすかIIなどもこの方の手によるものです。

最近ではヘリ搭載型護衛艦の設計も「この方の所属会社が」したということで、
また機会があればお話を伺いたいのですが。


或る陸軍軍人のこと(士官学校編)



この建築家の大物氏から伺った話で、あとから間違いを発見しました。
氏が陸士で同期であり、かつご本人曰く

「ブラジルに行って帰って来なかった」

と云っていた「殿下」ですが、「東久慈宮稔彦王」と書いてしまっています。
この方は「東久慈」としかおっしゃらなかったのですが、
正しくは「東久慈野宮俊彦王」でした。

謹んでここに訂正申し上げお詫びいたします。

この俊彦王は戦後民間人の養子となり、建築家氏がおっしゃるように
ブラジルに移住してコーヒー園を経営し、日系ブラジル人社会の中で
現在も活躍しておられるということです。

ところで、話が逸脱しますが、この(最初間違えていた)稔彦王は、
若き日にフランスに留学していたことがあり、そのときにあまりにも自由主義者で、
「愛人との生活に耽溺し帰国を拒み続けた」
という方ですが・・・・まあその話はともかく、フランスで画家のクロード・モネから
なんと直々に(当たり前か)絵を習っていたというのです。

そして、モネの紹介で、クレマンソーと知己を得た稔彦王は、驚くべき情報を得ます。
クレマンソーというのは、「戦争は軍人がするにはあまりにも・・・」の、
五百籏頭先生お気に入りの政治家でありジャーナリストですが、そのクレマンソーから

「アメリカが日本を撃つ用意をしている」

との忠言を受けているんですね。
「日本の侵略戦争」なんていうとんでもない自虐をあの戦争に対していまだにする人たち、
ぜひどういう感想をお持ちか聞いてみたいですね。
アメリカの野望については世界の情報通のあいだで知るところとなっていたってことですよ。


帰国後、稔彦王はこれを受け止めたうえ、各方面に日米戦争はすべきでないと説いて回ります。
しかし、この話に西園寺公望以外は誰も耳を傾ける者はいなかったというのです。

そして、事態は最悪の道を辿っていくわけですが、日米交渉も大詰めを迎えた1941年(昭和16年)、
近衛内閣で陸軍大臣の地位にあった東条英機に、稔彦王はこのクレマンソーの忠言を披露します。
そして陸軍も日米交渉に協力すべきと説いたのですが、東条は

「自分は陸軍大臣として、責任上アメリカの案を飲むわけにはゆかない」

と応答しています。



歴史にもしもはありませんが、もしここで稔彦王にもう少し力があったら、あるいは
力のある人物を掌握していたら、開戦を忌避する可能性もあったということなのでしょうか。
しかし実際は、まったくそれは小さな板切れで大海の流れをせき止めようとするようなものでした。

今回この話を知って、やはり歴史の流れは決まっているのだということをあらためて実感しました。



「課業始め」



築地にあった海軍経理学校での課業行進の様子を描いてみました。

このエントリで江田島の幹部候補生学校の生活についても触れましたが、
基本的には当時とあまり変わらない厳しさであるということを、
以前お話を伺った元海幕長はおっしゃっていました。

ただ、「本当に厳しい」のはここに在籍している間だけで、あとは
勤務先の「体質」による厳しさによるのだそうです。


天佑神助の離着艦




このシリーズでは、母艦パイロットであった日高少佐の手記から、
母艦パイロットの訓練を詳細にかいたものを見つけたのでご紹介しました。

戦後、自分のことをあれこれ書かれるのが嫌で、取材をほとんど受けたことがないという
日高氏でしたが、その手記(兵学校の同窓生に向けたもの)では実に生き生きと、
パイロットの訓練課程について活写しておられます。

この絵は、ラバウルで撮られた、シルエットの向こうが山本五十六大将、
こちらが草鹿仁一中将、そして搭乗員の真ん中にいるのが日高守康少佐、
という歴史的なショットですが、それを切り取って描いてみました。