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義烈空挺隊強行着陸せり

2012-05-24 | 陸軍



先日訪れた知覧特攻平和会館の展示の中に、義烈空挺隊のコーナーがありました。
この突入特攻部隊についての資料の前で立ち止まっている見学者はあまりなく、
航空特攻隊の陰に隠れて、知名度の無いこの空挺特攻に対する認知度の低さを見るようで、
胸が痛みました。

ほとんどの日本人がそうであるように、アメリカ戦史の記録に残る

Giretsu Airborne Attack

の、「ギレツ」という名前をご存知の方はそう多くはないのでしょうか。


昭和20年4月1日。
アメリカ軍はついに沖縄西海岸から上陸し、二日後には飛行場の使用を始めました。
この飛行場に空挺部隊を乗せた爆撃機を強行着陸させ、破壊活動を行うのが、
義烈空挺隊に科せられた使命です。

さらに飛行隊は
「敵B-29を奪取し、これを操縦して帰還すべし」
という任務を命じられていました。

作戦名を義号とする、この決死ならぬ必死作戦のために、
奥山道郎陸軍中尉
を隊長とする義烈空挺隊(陸軍第六航空隊所属)は
その前年から訓練を積み重ねてきていました。

部隊総員は136名。
この中には着陸後の諜報活動を任務とした陸軍中野学校出身の10名が含まれます。

これら空挺部隊を運輸したのが、諏訪部忠一大尉以下32名からなる第三独立飛行隊。
この三独飛の操縦者は全員爆撃隊の出身者です。




日本ニュースで報道された義烈空挺部隊の映画タイトル。
この部隊136名は、結成期から何度にもわたって計画された突入作戦の中止、さらに
その間の訓練期間を通じて最後の瞬間まで非常に士気が高く、一人の欠員も無く決行日を
迎えたということです。

彼らは墨を軍服に塗って偽装し、さらに爆薬と爆弾を体中に纏って武装していました。


このとき、「日本ニュース」の企画であった大峯淑生氏と、カメラマンの藤波次郎氏は、
寝食を共にして取材してきた義烈空挺隊の突入の様子を記録する為、
飛行機に乗せてくれるように頼みました。

しかし部隊長の返事は
「我々の突入は十中九・九割生還を期さないものだ。
報道班員を死なせるわけにはいかない。一般人の同乗はお断りする」
というものでした。

出撃当日、訓示をする奥山大尉の様子と肉声が、今日フィルムに残されています。



奥山大尉が母親にあててしたためた遺書。
最後の文章は
「道郎は喜び勇んで往きます。
二十有六年の親不孝を深くお詫びします」



その遺書と同じ「全員喜び勇んで往きます」という言葉が、奥山大尉の出撃前の挨拶にあります。



出撃前の隊員の表情には、不思議なくらい陰りがありません。
機に乗り込む、つまりこの世で最後に踏みしめる大地を歩く皆の口元には微笑みが浮かび、
その表情は日本ニュースで『子供のように』と評されるように無邪気ですらあります。

冒頭画像は、最後の搭乗前に奥山大尉(左)と諏訪部大尉が握手する瞬間。
この写真を撮る前、カメラマンがシャッターを切りそこない、もう一度、と頼みました。
奥山大尉がその時「千両役者は忙しいなあ」と言ったので、曽我部大尉始め、
周りにいる全員がそれにつりこまれて笑っている瞬間が記録されることになりました。

彼らがこの解脱とも達観とも言える境地に至ったのには、
全員での連日にわたる激しい猛訓練による連帯感と、
奥山隊長を信頼し全員で一丸となって士気を高めてきた結果であると言われていますが、
それだけではありません。
部隊編成以来、この日に至るまで彼らがたどった道を語らずして、
この表情の表わすものを知ることはできないと思うのですが、それについては次回に譲ります。


昭和20年5月24日午後18時40分。
攻撃隊136名、搭乗員32名を乗せた12機の爆撃機は、健軍基地を離陸しました。



突入に際し、航空部隊は電探(レーダー)を避けるため、海上30メートルを這うように進みました。
これは爆撃機にとって危険すれすれの高度でもあります。
しかし、敵戦闘機に発見されたときにも攻撃を受けにくい機位でもありました。

発進して2時間30分後、知覧と健軍基地は義烈空挺隊からの最初で最後の報告を受けます。
「只今突入」
そしてその5分後、戦果確認のため同行した飛行機が
「諏訪部部隊着陸成功」
と報告してきました。

さらに20分後。
危急を告げるアメリカ軍の生文が次々と入ってきました。
「北飛行場異変あり」
「在空機は着陸禁止」

健軍を離陸した飛行機のうち4機は、故障や航法未熟で引き返し不時着。
戦果確認の飛行機は義烈のうち「計6機が着陸コースに入った」ことまでは見届けましたが、
このうち胴体着陸して、空挺隊が破壊活動をすることができたのは一機でした。
この飛行機からは10名の空挺隊員と操縦員が基地に降り立ち、

戦闘機2機、輸送機4機、爆撃機1機破壊
爆撃機1機、戦闘機3機、戦闘機22機損傷、合計26機被害
さらに
ドラム缶600本の集積所2箇所を爆破し炎上、70,000ガロンの航空機用燃料焼失

これだけの被害を与えています。


しかしながらこの戦果に対する我が方の自己評価は必ずしも高くありません。

「後続を為さず、又我方も徳之島の利用等に歩を進めず、
洵(まこと)に惜しきことなり、尻切れトンボなり。
引続く特攻隊の投入、天候関係など、何れも意に委せず、之また遺憾なり」


と第6空軍司令官が嘆じたように、奥山隊の戦闘力については着陸に成功さえすれば
絶対の信頼が持てるものだったにもかかわらず、作戦を共同で企画していた海軍が、
義烈の成果を待たずして、その前日に特攻機を多数出撃させてしまっていたため、
この好機に艦船攻撃で大きな成果を上げることはできなかったのです。

この日、第6航空軍は120機の特攻機を用意しましたが、
天候不良で離陸したのは70機、
突入を打電してきたのは24機。

アメリカ側の報告によると、そのうち13機のカミカゼが12隻の艦船に命中したとありますが、
司令が尻切れトンボと称したように、義烈の奮闘と多大なる犠牲は評価されても、
義号作戦と名付けられたこの作戦全体の戦果は、期待したものより少ないものであった、
というのが日本側の認識です。




しかし、アメリカ軍にとって、2日にわたる空港閉鎖と、米軍18名死傷のこの
Giretsu Attackは、作戦として成功したものとみなされており、
日本側より、むしろアメリカの軍事関係者にも評価されています。


強行着陸した隊員のうち一人は翌日25日の昼1時、島の南で射殺されたとみられています。
また、さらに一人が敵中突破を果たし、生還して戦果を報告したという陸軍の機密情報には
残されていると言いますが、その真偽や隊員の姓名などは明らかになっていないそうです。



義烈空挺隊の兵士たちが突入して、今日でちょうど67年目になります。

それにしても彼らのこの屈託の無い表情は、いかなる精神の上にあらわれるものでしょうか。
その部隊錬成、そして突入に至るまでの彼らの日々について、稿を新たにしたいと思います。






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