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96章解説

2010年10月16日 | ジュズ・アンマ解説

بسم الله الرحمن الرحيم
96章解説

1. 読め、「創造なされる御方、あなたの主の御名において。
2. 一凝血から、人間を創られた。」
3. 読め、「あなたの主は、最高の尊貴であられ、
4. 筆によって(書くことを)教えられた御方。
5. 人間に未知なることを教えられた御方である。」
6. いや、人間は本当に法外で、
7. 自分で何も足りないところはないと考えている。
8. 本当にあなたの主に(凡てのものは)帰されるのである。
9. あなたは、阻止する者を見たか、
10. 一人のしもべ(ムハンマド)が、礼拝を捧げる時に。
11. あなたは、かれ(阻止する者)が、(正しい道)に導かれていると思うのか。
12. 敬神を勧めているか、
13. (真理を)嘘であるとして背を向けたと思うのか。
14. かれは、アッラーが見ておられることを知らないのか。
15. 断じてそうではない。もしかれが止ないならば、われは前髪でかれを捕えるであろう、
16. 嘘付きで、罪深い前髪を。
17. そしてかれの(救助のために)一味を召集させなさい。
18. われは看守(の天使)を召集するであろう。
19. 断じてそうあるべきではない。あなたはかれに従ってはならない。一途にサジダして(主に)近付け。

 この章には、読むことや学習への呼びかけそして、アッラーの人間に対する恩恵の解明が存在します。と同時に富と権力は、時に人々を不正に向かわせ、アッラーが定め給うた境界線を越えさせることに関する説明も含んでいます。

 この章こそが、クルアーンの中で最初に啓示されたものです。大天使ジブリールがこの章の5節を、ヒラーの洞窟でお籠りに励んでいたムハンマド(平安と祝福あれ)に齎しました。残りの節については、違う機会に教えました。その5節は以下のとおりです:

 「読め、「創造なされる御方、あなたの主の御名において。一凝血から、人間を創られた。」読め、「あなたの主は、最高の尊貴であられ、筆によって(書くことを)教えられた御方。人間に未知なることを教えられた御方である。」」

 「読め」がアッラーによる啓示の最初の言葉であり、それが文盲であり無知と偶像崇拝に支配された民の中から選ばれた、文盲のムハンマド(平安と祝福あれ)に下された言葉であったとは驚きです。ムハンマド(平安と祝福あれ)の民は、物質的・思想的文明の外観から離れていたわけです。そこで「読め」の音は、読むことと知識への誘いでありました。このことは私たちに、イスラームは誕生当初から知の性質を帯びていたことと、無知を払拭し、読むことと知ることを広めるためにやってきたことが判明します。

 アッラーが命じ給うた読誦は、「創造なされる御方、あなたの主の御名において」であるべきとあります。つまり、読誦は国や指導者の名においてではなく、主であり全てのものの創造主の名においてなされるものだということです。どのような読誦も知識も至高なるアッラーのためであるならば、すべての状況において善となります。

 続けてアッラーは仰せになります:「(かれは、)一凝血(アラクعلق)から、人間を創られた」アラクは、胎児が形成されるときの第二段階目の姿です。クルアーンは、人間の元の姿、そしてそこからどのように成長して立派な人間になるかに私に私たちの目を向けさせます。この段階を追った姿の変異は、驚異的なアッラーの御力を証明し、世界は偶然によって打ち立てられたとする主張を無効とします。

 アッラーは御言葉を続け給います:「読め、「あなたの主は、最高の尊貴であられ」アッラーを最高の尊貴(最も寛大)と描写する中に、知識(知ること)は最も高貴なアッラーの贈り物であることが分かります。

 その直後のアッラーのお言葉:「筆によって(書くことを)教えられた御方。人間に未知なることを教えられた御方である。」」筆の素晴らしさを掲げ、また筆の重要性を解明しています。筆は今も昔も第一の学習用具であり、知識を拡散させる道具です。しかしこの事実は1400年前―クルアーンが啓示された時代―には、現代のように学校が建てられ、さまざまな知識が広められる中にはっきりしていたように、明白ではなかったわけです。筆の価値と筆がもつ知識や文明の拡散における影響力の解明として、アッラーはクルアーンを初めて啓示し給うた際にこの筆について言及し給うたのです。ここで言っておかなければならないのは、ムハンマド(平安と祝福あれ)は文盲であり、筆で字を書ける人でもなかったということでしょう。それこそが、クルアーンがアッラーからの啓示である証拠です。

 続けてアッラーは、人間が生来から備えている特徴を描写し給います:

 「いや(كلاカッラー)、人間は本当に法外で、自分で何も足りないところはないと考えている」

 カッラー(كلا)はここでは、「本当に」の意味を持ちます。つまり、「本当に人間は、自身を金持ちと見ると、不信と背信において境界線を越える」です。

 富は高い確率で、個人と社会の腐敗を呼び込みます。これはクルアーンが示す事実であり、全ての時代における現実が真実であるとしているものです。富は多くの自我を腐らせますが、それは富が欲望のドアを開くからです。そして欲望は人間に罪を犯させ、腐らせるのです。

 またクルアーンは人間の本質を解明すると同時に、帰り処はアッラーおひとりであることも解明します:「本当にあなたの主に(凡てのものは)帰されるのである」つまり人間には逃げ場はないということです。ここには人間に対する警告と脅しがあります。人間にその間違いから抜け出すためです。

 (10/10/16)私たちの興味を引く個所は、知識と、罪を呼び招く富の結び付きです。そこには現代になって実現したクルアーンの予言が存在します。恩恵と情報の元である知識が、ときに不信と罪に反転するというもので、今日、科学の時代である現代の多くの人間や国に見られる現象です。もちろん、アッラーが人間の本来の姿を知るために覚醒させ給うた人たちはそこから除かれます。

 続いてクルアーンは、アッラーにお仕えする行為から人々を離れさせる者たちに対する警告に移ります。挙げられた例を見てみましょう。「あなたは、阻止する者を見たか、一人のしもべ(ムハンマド)が、礼拝を捧げる時に。」とアッラーが仰せになったアブー・ジャハルですが、彼はここで制止する者として登場します。そして礼拝を捧げるしもべはムハンマド(平安と祝福あれ)です。この二つの節とそれ以降の節はすべてアブー・ジャハルに関して啓示されました。その原因は彼の次の言葉です:「もしわしが、ムハンマドがカアバで礼拝しているのを目にしたら、やつの首をふんづけてやる。」この言葉が預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)に届くと彼は言われました:「彼(アブー・ジャハル)がもしそのようなことをしたならば、天使に人々の面前へ連れて行かれるだろう」

 そしてクルアーンはこの礼拝を阻止する者に対して警告し続けます:「あなたは、かれ(阻止する者)が、(正しい道)に導かれていると思うのか。敬神を勧めているか。」つまり、彼の状態を教えてくれないか?この罪深い礼拝を阻止する者が導かれているのなら、そして敬神を勧めているのなら、それこそ彼にとって最善であり、アッラーに背くよりもより好ましいのではないか、ということです。「(真理を)嘘であるとして背を向けたと思うのか。かれは、アッラーが見ておられることを知らないのか。」彼がイスラームを嘘呼ばわりし、善行を否定しているなら、その彼の状態がどんなものであるかを知らせてくれないか?さて彼は、アッラーが彼の全ての行為を見給い、それらに対して報い給うことを知らないのだろうか、という意味です。

 次にやって来るのは、この罪人に対するアッラーの脅迫です:「断じてそうではない。もしかれが止ないならば、われは前髪(ناصية ナースィヤ)でかれを捕える(لنسفعا ラナスファアン)であろう」ここでの捕えるという意味の動詞は、引っ張り捕えるという意味も含みます。前髪は、前頭部に生えた髪の毛を指し、ときに人間全体か頭を指します。ここの意味は:アブー・ジャハルがムハンマドに対する攻撃をやめないなら、アッラーは天使たちに命令して彼の前髪を捕えて地獄に引っ張りこむだろう、です。ここにはアブー・ジャハルに対する激しい軽蔑の気持ちが込められています。「嘘付きで、罪深い前髪を。」この前髪の持ち主こそが、ムハンマド(平安と祝福あれ)の預言者性を嘘とし、不信と罪に溺れた人なのです。

 アブー・ジャハルの極悪ぶりが垣間見られるシーンは他にもあります。預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)がマカーム・イブラーヒーム(イブラーヒームの立ち処)で礼拝していたところにアブー・ジャハルが通りかかり言いました:「ムハンマド。するなと言っただろう。」と念を押しました。預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)は彼をきつくあしらったため、アブー・ジャハルは預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)を叱責します。「ムハンマド、一体どんなことでわしを脅すのだ?この谷に味方をたくさん連れて来ようじゃないか」とアブー・ジャハルが言うと、次の言葉が啓示されました:「そしてかれの(救助のために)一味(ナーディヤنادية )を召集させなさい。われは看守(الزبانية ザバーニヤ)(の天使)を召集するであろう。」アブー・ジャハルに家族や仲間の一味を援助のために連れてこさせればいい。アッラーはその代わりに、審判の日に彼を業火に投げ入れるために罰の任務を負った天使たちを呼び給うだろう。

 続けてアッラーは御自身の使徒、ムハンマド(平安と祝福あれ)に仰せになります:「断じてそうあるべきではない(كلا カッラー)。あなたはかれに従ってはならない。一途にサジダして(主に)近付け。」カッラー:崇拝行為や礼拝をムハンマドから制止するアブー・ジャハルが言っていることは真実ではない。「あなたはかれに従ってはならない」アブー・ジャハルによるあなたに対する礼拝の放棄の命令には。「一途にサジダして(主に)近付け」あなたの主にサジダし、主への愛情と崇拝行為でかれに近付け。本当にアブー・ジャハルはあなたを害することなど到底できない。

 アッラーに捧げられるスジュードは、しもべとして主を崇める形の中で最も上位に来るものです。そしてスジュードの中で人間の地位はアッラーの許で上昇し、アッラーの側近となれます。預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)は次のように伝えています:《主に最も接近しているのは、サジダするしもべです。みなさん、祈願を多くしてください。》(ムスリムとアブー・ダーウード出典)

 そしてクルアーンの中には、アッラーのためにサジダするよう呼び掛けている節が数多くあります。心の奥底に信仰が沁み込み、主の偉大さを痛感したムスリムの義務として、アッラーにサジダするよう命じられたなら、即時に自分がかれのしもべであることを自認するためにもサジダをするべきなのです。これこそが、アッラーへの愛と感謝で成り立っている主としもべの関係です。だからこそイスラームでは、クルアーンの中にサジダが求められている個所を読んだり、それを聞いた人は「アッラーフアクバル」と言って一回サジダし、再度「アッラーフアクバル」を唱えてサジダから起き上がる決まりを設けています。なおこれは、「読誦のサジダ」と言われます。
(参考文献:ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ アンマ/アフィーフ・アブドゥ=ル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーン(P138~142)

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