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79章解説【3】

2012年03月01日 | ジュズ・アンマ解説

بسم الله الرحمن الرحيم
34.それで最大の溢れ押し寄せる破局(復活の日)が来た時、
35.(つまり)人間が己の精を出してきたことを思い出す日に、
36.そして、焦熱地獄が見る者の前に出現せしめられた(日に)。
37.さて、無法に振舞った者については、
38.そして今生を優先した(者については)、
39.まことに、焦熱地獄、それが住み処である。
40.一方、己の主の立ち処を恐れ、自我に欲望を禁じた者については、
41.まことに、楽園、それが住み処である。
42.彼ら(マッカの不信仰者)はかの時についてお前に尋ねる、「その停泊(到来)はいつごろか」。
43.その(かの時の)言及についておまえはどこにいるのか。
44.おまえの主の御許にその(かの時の)結末(究極の知識)はある。
45.まことに、おまえはそれ(かの時の)慴れる者への警告者に過ぎない。
46.彼らがそれを見る日、あたかも彼らは一夕かその朝のほかは(現生に)留まらなかったかのようである。

続いてクルアーンは最後の審判の日と、人々のその日の行く末についての話に移ります:
「それで最大の溢れ押し寄せる破局(復活の日)が来た時、(つまり)人間が己の精を出してきたことを思い出す日に、そして、焦熱地獄が見る者の前に出現せしめられた(日に)。」

『アッターンマ(最大の溢れ押し寄せる破局)』は、復活の日を指します。その日はその恐ろしさをもって、全てに反抗し、溢れ返ります。その瞬間、人間は現世で行ってきたことをじっくりと思い出します。しかし思い出したとしても、後悔の念と苦しみだけしか残りません。「そして、焦熱地獄が見る者の前に出現せしめられた(日に)。」つまり地獄が見る者たちにはっきりと見せつけられるという意味です。

罰の原因については、代わってアッラーが解明し給います:
「さて、無法に振舞った者については、そして今生を優先した(者については)、まことに、焦熱地獄、それが住み処である。」

『トゥグヤーン(無法な振る舞い)』は、限度を越し、不信と罪深さに熱心になることを意味します。また現世の生活を優先し、そのためだけに行動し、来世のために何もしなかった人だけにトゥグヤーンの属性が相応しくなります。彼らの来世における住処は、その火で苦しめられる地獄です。

続いて、対照的に、来世における至福の原因が以下の通りであることが語られます:
「一方、己の主の立ち処を恐れ、自我に欲望を禁じた者については、まことに、楽園、それが住み処である。」

つまり、審判の日にアッラーの御前に立つことを恐れ、その時にアッラーにより下される裁定を恐れて、義務を全うし、禁止事項を避けた者を指します。「お自我に欲望を禁じた者」つまり自らの魂に、アッラーが嫌い給い、満足し給わない種類の欲望を禁じて、魂の望む反対のことを実践した者を指します。審判の日には天国がその者の安住の場となり家となります。

つまりアッラーの尊大さと偉大さを懼れる者は、自らの魂をその欲望から遠ざけます。欲望とは、本能に不相応なものに傾くこと、悪い意味でも良い意味でも何かに惹かれることをいいます。ただ聖法上では好ましくないものに使われることの方が多いです。完全な自由を与えられた欲望は、結果を考慮しないまま瞬間的な快感に人を導こうとし、痛みと害を招く有害な欲の享受を獲得するよう鼓舞します。

代わって理性ある者は、直後に痛みを生む快感、後悔を生む欲から自身を制します。自我が元来から欲望に傾きやすいものであるからこそ、激しい努力と反抗の気持ちをもって自我がもとめるものと戦う必要があるのです。また自我を責めないでいると、思考は自我が求める欲望の追求に手を貸そうとするため、腐敗した意見に安堵したりするようになります。以上から、欲望が全ての悪と災難の原因になると言えるのです。

自我を欲望から制することは、勝利と成功の基本です。自我に対して有害な熱望や破壊を招く欲望を禁じることを生むアッラーへの畏敬の念だけが、欲望を抑制することができるのです。また自らに禁じる行為を、アッラーは来世で天国の至福と交換してくださります。

最後に、審判の日の恐ろしさを聞いてそれがいつ起きるのかと預言者(平安と祝福あれ)に尋ねる不信仰者たちの質問にアッラーが答え給います:

「彼ら(マッカの不信仰者)はかの時についてお前に尋ねる、「その停泊(到来)はいつごろか」。」ここでの『かの時』は、復活の日を指します。アラビア語における『かの時=サーア』は、時間の一部分を意味します。最近になってこれに新しく60分間という限定された意味が付加されました。そしてサーアは時間をはかる機械の名として知られるようにもなりました。しかしクルアーンはサーアをまた特別に扱っており、非限定形で使うときは、秒や分で表さない短い時間という意味だけで登場させます。以下で仰せになっているとおりです:「そして、彼らの期限が来た時、彼らは一時も遅れることはなく、先んずることもない。」(16章61節)代わって、サーアが限定形でクルアーン中で使われると、復活の日のみを指します。それは、危険で非常に大きな変化のために地球の規則が乱れてしまう、決定的な日です。

不信仰者たちによる、復活が起こる日はいつかという質問に対する返答は次でした:「その(かの時の)言及についておまえはどこにいるのか。」つまり:ムハンマドよ、その時がいつであるかおまえが語るための小さな知識もおまえにはないのである、という意味です。「おまえの主の御許にその(かの時の)結末(究極の知識)はある。」おまえの主にその知識の結末と詳細が帰り、彼以外それが起きる時期を知ることはない、という意味です。「まことに、おまえはそれ(かの時の)慴れる者への警告者に過ぎない。」ムハンマドよ、おまえの任務は、復活の日の到来を確信し、アッラーに背いてしまったことで彼から受ける罰を恐れている人たちに警告することである、という意味です。

続いて、クルアーンはかの日の恐ろしさを描写します:「彼らがそれを見る日、あたかも彼らは一夕かその朝のほかは(現生に)留まらなかったかのようである。」現世の生活と多くの出来事がぶつかり合う、その日の魂が受ける衝撃の大きさから、復活と来世の世界を目の当たりにする時、快楽の中を過ごした長い人生が彼らには夜か昼の数時間しかなかったかのように感じられます。

この消えゆく現世の生活と少ない楽しみのために人間は永久の来世を犠牲にしてしまうのでしょうか?自分が存在している理由と死後の帰り処から迷ってしまう人間はなんと愚かなのでしょうか。

(参考文献:ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ アンマ/アフィーフ・アブドゥ=ル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーンP29~31)


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