イスラーム勉強会ブログ

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【ザカーのマナーなど】(5/8追加)

2009年05月05日 | 求める者たちの道しるべ
ザカーはイスラームを構成する柱の一つです。至高なるアッラーはこのザカーをサラーと結びつけ給いました。「礼拝〔サラート〕の務めを守り、定めの施し〔ザカ―卜〕をなし」(雌牛章43節)※ちなみにこのような表現は何度となくクルアーンに出てきます。

ザカーの種類等に関しては、法学書が参考になるでしょう。ここではザカーに関わるマナーのみを扱います。

あなたが来世を求める人ならば、ザカーについて次のことを考えてください。

①ザカーの目的を理解することです。それは3つあります。まず、アッラーへの愛を主張する者を、彼が愛しているもの(物質的財産・モノ)を支払わせることで試ること。身を滅ぼしてしまう吝嗇という性質は自分自身と無関係であると示すこと。財産という恩恵に対する感謝、です。

②ザカーを隠れて出すことで、見せびらかしや人のうわさから離れることです。ザカーを公に行うと、貧しい人を傷つけることになりますので気をつけましょう。もし、ザカーの義務を怠ったと疑われてしまうなら、公に渡しても傷つかないと分かる貧しい人に、大勢の人がいる前で差し出してください。そして他の人には隠れて渡してあげてください。

③ザカーを高慢な気持ちや相手を傷つけることで無効にしないことです。誰でも貧しい人に良くした場合、とくに何かを与えた場合、このようなことが起きがちです。よく考えたら、貧しい人こそがあなたに良くしてくれた(あなたの財産を清めてくれた)ということが分かるでしょう。ザカーを差し出すことは、財産という名の恩恵に感謝するということでもあります。貧しい人を貧しいという理由で嫌ってはいけません。なぜなら、金がその人の価値を決めるわけではないからです。

④「与える」という行為をたいしたことではないと決め込むことです。自分の行動を大げさに見ている人は、高慢になりがちです。「親切は、それがたいしたことではないと決め込まれること、急いで行われること、隠されること、この3つの条件が揃わない限り完遂されない。」とも言われています。

⑤ザカーが対象となっている財産から、自分が最も好み、大切に思い、上質なものを取り出すことです。「悪いものを図って、施してはならない」(雌牛章267節)

ここで2つの注意点が出てきます。まず、至高なるアッラーのみに偉大視される権利が属しているので、最も良いものもかれに差し出されるべきだということです。(もちろんアッラーはザカーで差し出されるものを必要とされる御方では決してありません。)誰でも自分の客に腐った食べ物を差し出したなら、受け取った側は気分を害するでしょう。次に、自分に対する権利です。ザカーをアッラーに差し出す本人は、そのうち審判でかれに会うことになります。ということは、最良のものを差し出すことは、自分のためにもなるのです。「あなたがたは愛するものを(施しに)使わない限り、信仰を全うし得ないであろう」(イムラーン家章92節)

イブン・ウマルは、自分の財産に対する愛情が強くなったときにそれをアッラーに捧げていたとの事です。こういう話が伝えられています:ある日、魚を食べたくなったイブン・ウマルのために皆は魚を探したのですが、一匹しか見つかりませんでした。それを手にした彼の妻が調理して、イブン・ウマルに差し出したところにある貧者がやって来ました。イブン・ウマルは貧者に、「それ(魚)を持って行きなさい。」と言うので彼の家族が、「私たちには彼に渡せられる他のものもあるというのに。」と言いました。イブン・ウマルは、「私はこれ(魚)が好きなのだ。」と言いました。

物乞いがアッ=ラビーウ・イブン・ハイサムの戸に立ったので、「彼に砂糖をあげなさい。」と言いました。しかし人々は、「彼にはパンを食べさせてあげましょう。その方が彼のためですよ。」と言いました。するとアッ=ラビーウは、「ダメだ、砂糖を上げなさい。じつに私は砂糖が好きなのだから。」と言ったと伝えられています。

⑥自分の出すザカーを清めるに相応しい人を探すことです。定められた8人(※)から選ばれます。彼らには特質があります:

(1)タクワー(畏敬)。アッラーを畏れる人々にザカーは渡されるべきです。彼らの悩みはこのザカーによってアッラーに跳ね返ります。かつて、アーミル・イブン・アブディッラー・イブン・アッ=ズバイルは額ずいている崇拝者たちを選んでいました。金貨銀貨が入った袋を彼らのサンダルの近くに置くのでした。ちょうど、物が置かれた気配はしても、どこに置かれたのかは分からない感じにです。アーミルは、ザカーをあなたの代わりに分配する人を送ればよいのに、と言われたことがありましたが、彼は貧者に自分や自分の使者が渡し主であると知られるのを嫌う、と言ったと伝えられています。

(2)イルム(知識)。学者に与えることは、知識と教えを広めることに役立ちます。つまり、シャリーアの強化につながります。

(3)アッラーおひとりからしか恩恵はないことを確信していることです。与えられる際に褒めることに慣れている人は、与えられないと文句を言うものです。

(4)貧しさで覆われていること、必要としていることが隠れていること、苦情を言っていないことです。「かれらは控え目であるから、知らない者は金持であると考える」(雌牛章273節)彼らは探されないと見つからない人たちです。各地域にこのような様子を備えた人がいないか尋ねるのがいいでしょう。

(5)家族を持っていること。もしくは病や借金で身動きできないことです。

(6)親族や血族であることです。彼らにザカーを渡すことは、彼らとの関係を強めることにもなります。以上の性質のうち、2つかそれ以上を集めたなら、あなたのザカーはより良いものになるでしょう。


(※)施し〔サダカ〕は、貧者、困窮者、これ(施しの事務)を管理する者、および心が(真理に)傾いてきた者のため、また身代金や負債の救済のため、またアッラーの道のため(に率先して努力する者)、また旅人のためのものである。これはアッラーの決定である。アッラーは全知にして英明であられる。(悔悟章60節)

(イブン・クダーマの「求める者たちの道しるべ」より)

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質問があったのでその答えを下に貼ります。

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> 質問1、【物乞いがアッ=ラビーウ・イブン・ハイサムの戸に立ったので、「彼に砂糖をあげなさい。」と言いました。しかし人々は、「彼にはパンを食べさせてあげましょう。その方が彼のためですよ。」と言いました。するとアッ=ラビーウは、「ダメだ、砂糖を上げなさい。じつに私は砂糖が好きなのだから。」と言ったと伝えられています。】について
>
> これは実際に周りのムスリムたちがそうするのをよく見ているのですが、私からするといつもちょっと疑問でした。この物乞いにとってはパンの方が役立つというのに、「自分の好きなものを差し出すこと」を自分が実践するために、相手の都合を無視しているように思えます。もし自分が受け取る立場だったら、砂糖よりもパンが欲しいです。
> それでも、自分が好きなものを差し出す方に、アッラーのお喜びはより多くあるのでしょうか?たとえそれが相手にとってあまり役立たないと思われても、あるいはそれ以上に役立つものが明らかにあったとしても、それは私たちの限られた能力においてそう感じるだけで、本当はこの物乞いにとってもパンより砂糖のほうが有益なんだ、ということなのでしょうか?

まずアッ=ラビーウの話についてですが、相手にとって一番良いものではなく、自分の好きなものを差し出すことを優先した彼の行いは良いはずですし、相手にとって良いものをきちんと考えて施したのであれば、それも良いはずです。アッ=ラビーウはクルアーンのアーヤを元に自分の信仰を完結させる手段として自分の好物を差し出したのであれば、インシャーアッラー、彼のニーヤは嘉納されるでしょう。もらう人のことを考えて施すものを選んだのであれば、そのニーヤも嘉納されるでしょう。要はそのときのニーヤだと思います。誰かのサダカに周りの人たちが意見しても、結局その人のニーヤを見通せるのはアッラーおひとりです。もちろん、そのときに渡した砂糖が物乞いにとって良いものだったのか
、それともパンの方がよかったのかも、渡す方も渡される側にも分からず、これもアッラーおひとりのみが御存知です。その物乞いが自分ではパンが欲しいのに砂糖をもらっても不満かもしれませんが、その砂糖が自分にとって良いものだったのか悪いものだったのかはアッラーのみが御存知で自分は後になっても分かるかどうかは不明なのです。
どちらにアッラーのお喜びがより多いのか、というと、私たちに分かることではないです。私たちは限られた能力しか与えられていないので、それ以上のことを理解することは不可能です。ですので、アッラーの御命令に出来るだけ従い、そのときの状況に合った一番良いと思う行動を取ればいいのではないでしょうか。相手にはパンが適切だろうと思ってパンを渡して、実はもらった側はグルテンアレルギーで食べると大変なことになってしまうとか、本人もそれを知らないとか、結局私たちには分からないのです。そのときのニーヤを大切に考えて、行動することだけが制限のある私たちに求められていることだと思います。

> 質問2、ザカーの受取人の特質のうち【(6)親族や血族であることです。彼らにザカーを渡すことは、彼らとの関係を強めることにもなります。】について
>
> 以前、身内の困窮者に対しては私たちは身内ゆえに扶養義務があるので、ザカーは与えられない。身内への援助はサダカでするものだ、と聞いて、ずっとそう思っていたのですが、身内(親族)でもザカーを使えるのですね。
> 例えば自分の親や子どもが困窮している場合には、それこそ扶養義務があるからザカーは使えないですよね?ザカーが使えるのは(逆に言えば扶養義務がないのは)どの関係からでしょうか?兄弟とか、伯父、叔母とか、従兄弟とか・・・?

裕福な妻が困窮している夫にザカーを施すことはスンナであり、妻や母親の立場にある女性が自分の子供にザカーを施すことは好ましい行為であり、合法です。なぜなら、夫や子供を扶養する義務は女性にないからです。
同様に、おじおば、兄弟姉妹、祖父祖母など、近親でありながら、扶養義務がない関係(条件によっては扶養義務が発生しますが)にある場合、ザカーは有効で、むしろ彼らを優先するべきです。
(扶養義務について)詳しくは法学書の家族法の部分に書かれていますので参考にしてください。
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質問に簡単に答えますね。

>⑥自分の出すザカーを清めるに相応しい人を探すことです。定められた8人(※)から選ばれます。彼らには特質があります:
→ この特質と言うのはザカーを渡す下の8人の条件にプラス更に推奨される特質と言うことでしょうか。8個の条件が先なのかこの6つの条件が先になるのか、または両方満たしていないといけないのか。。。です。

8個の条件が先です。8個の条件のうちどれかに属していれば、ザカーを受け取る資格を持ちます。6個の条件はあればよい、というだけで、全てを満たす必要はありません。

> (※)施し〔サダカ〕ザカーのことですか?は、貧者、困窮者、これ(施しの事務)を管理する者、および心が(真理に)傾いてきた者のため、また身代金や負債の救済のため、またアッラーの道のため(に率先して努力する者)、また旅人のためのものである。これはアッラーの決定である。アッラーは全知にして英明であられる。(悔悟章60節)

そうです、ザカーのことです。
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