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78. 消息 (アン・ナバア)⑤

2007年08月28日 | ジュズ・アンマ解説

【アラビア語・日本語意訳】

 クルアーンはこの後、敬虔な人たちが来世で手にする至福について語ります。「本当に主を畏れる者には,安全な場所(楽園)がある。緑の園や,ブドウ園,胸の脹れた同じ年頃の乙女たち,またなみなみと溢れる杯。そこではつまらぬ話や偽り言を聞かない。これらはあなたの主からの報奨,賜物の決算である。」

 服従と禁じられたものを避けることによって主を畏れた者たちには褒美があり、それは成功であり、至福の天国を得ること、業火から守られることです。そして彼らには緑の園とブドウ園という、生い茂った実のなる木々と大房のブドウを備えた園が与えられます。女性らしく成長し、胸元の膨らんだ、同じ年頃の乙女たちがそこ居て、彼らのために準備されたなみなみと飲み物が注がれた杯もあります。そこで彼らは正しくない言葉を聞くことも、罪を目にすることも、相手を嘘つき呼ばわりすることも、嘘を聞くこともありません。これらすべてを、アッラーは彼らの善い行為の報奨として彼らに与えられたのです。

 これらはクルアーンが述べる五感的至福ですが、この至福の本当のところは、私たち現世の者が感じ取れるものではありません。来世の至福は現世のそれに、種類面、継続面、で優ります。なぜなら、現世の至福というものは少なくて消え去ってしまうものだからです。預言者(アッラーの平安と祝福がありますように)が来世の至福についてアッラーのお言葉として伝えたハディースがあります:「われは、善良なしもべたちのために、どの目も見たことがなく、どの耳も聞いたことがなく、どの人間の心にも想像されなかったものを準備している。」

 続いてクルアーンは、最後の審判の日におけるアッラーの威厳さを明らかにします。この日、権限はアッラーのみに属し、誰もそれを奪おうとしません。

 「天と地,そしてその間の凡てのものの主,慈悲深き御方(からの賜物であり),誰もかれに語りかけることは出来ない。」  アッラーは天と地とその間にあるものの主であられます。彼は慈悲あまねく御方、つまり恩恵を与える御方であられます。罪人の罰の軽減を求めたり、無罪者の報酬倍加を求めるためにかれに語りかける権利を持つ者は誰もいません。

 続けて、 「聖霊と天使たちが,整列して立つ日,慈悲深き御方から御許しを得て正しいことを言う者以外には,誰も口をきくことが出来ない。

 聖霊(大天使ジブリール)と天使たちが偉大なるアッラーを称えて列をなします。至高なる主からの御許しを得た正しいことを言う者意外、誰も話すことはありません。執り成しされることをアッラーに許された者の執り成しについてしか彼らは口をしないとも言われます。この者は現世で正しいことを言い、アッラーの唯一性を証言して「ラーイラーハ イッラッラー(アッラーのほかに神はなし)」と言っていました。

 そしてクルアーンは、再生が真実で疑いがないことと、この日のために善行で準備する機会がすべての人に与えられていることを明らかにします。  「それは真実の日である。だから誰でも望む者は,主の御許に戻るがいい。」

 最後の審判の日は真実の日です。なぜならそれに疑いの余地がないからです。そのため、誰でも主を戻りどころとして望む者は、アッラーへの信仰と服従をもってそうするべきです。  そしてこの章は、罪に溺れた再生を否定する人々に対する警告で終わります。

  「本当にわれは,懲罰が近いと,あなたがたに警告した。その日,人は,自分の両方の手が前もって行ったもの(所業)を見るであろう。不信者は,「ああ,情けない,わたしが塵であったならば。」と言うであろう。」

 アッラーは、人々にすでに近づいた罰について警告します。その日、各個人は天使によって記録された自分の善行、悪行を目にすることになります。「不信者は,「ああ,情けない,わたしが塵であったならば。」と言うであろう。」あぁ、現世で自分は埃でありたかった、そうであれば悪行をなすことも、義務を負うことも、清算されることも無かったのに。もしくは、この日わたしは埃でいたならば、清算のために生き返されることも無かったのに、という意味になります。


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