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83章解説【2】

2011年10月25日 | ジュズ・アンマ解説

بسم الله الرحمن الرحيم
18.断じて、敬虔な者たちの書(行状簿)はイッリーユーンの中にある。
19.そして何がイッリーユーンであるかを、何がおまえに分からせたか。
20.(それは)書き記された書である。
21.側近(天使)たちがそれに立ち会う。
22.まことに、敬虔な者たちは至福の中にいる。
23.彼らは寝台の上で眺める。
24.おまえは彼らの顔に至福の輝きを認める。
25.彼らは封印された清酒を注がれる。
26.その封印は麝香である。そして(それを)競って求める者たちは、それを競って求めるが良い。
27.そしてその(清酒)の混ぜものはタスニームから。
28.(タスニームとは)側近の者たちがそれで(そこから)飲む泉を(意味する)。
29.罪を犯した者たちは信仰する者たちを嘲笑していた。
30.そして彼ら(罪人)が彼ら(信仰者)の側を通りかかると、互いに(嘲笑して)目配せし、
31.そして己の家族の許に帰って来た時には、上機嫌で帰って来た。
32.また、彼らを見かけると、「それらの者はまさに迷った者だ」と言った。
33.だが、彼ら(不信仰者)は彼ら(信仰者)に対し監視者として送られたのではなかった。
34.それで今日、信仰した者たちは不信仰者たちを笑う。
35.寝台の上から眺めながら、
36.不信仰者たちは彼らがなしていたことを償われたであろうか。

 かの罪人たちが受ける罰の横で、敬虔な者たちの来世での行き場所をアッラーは解明し給います:
 「断じて、敬虔な者たちの書(行状簿)はイッリーユーンの中にある。そして何がイッリーユーンであるかを、何がおまえに分からせたか。(それは)書き記された書である。側近(天使)たちがそれに立ち会う。」

 断じて:つまり、報復の日の到来を嘘であるとする者たちは、恐れるがいい。そして「敬虔な者たち」がアッラーに従い、あらゆる善を行う人たちであることを知るがいい、という意味があります。彼らの行為は書に書き留められていて、その書は「イッリーユーン」の中にあります。つまり、天のアッラーの許にあります。「イッリーユーン」という言葉は、幸福と高さと地位の向上を連想させ、「スィッジーン」は、狭さと暗さを連想させます。「そして何がイッリーユーンであるかを、何がおまえに分からせたか。」それは、人間の知識と理解の範囲外にあります。「(それは)書き記された書である。」その中には、敬虔な者たちが審判の日には安全と天国という勝利が与えられることが書かれています。「側近(天使)たちがそれに立ち会う。」書に記された敬虔な者たちの行為などの内容を、アッラーの天使が証言し、護ります。

 続いてアッラーは、敬虔な者たちが楽しむ来世における至福を解明し給います:
 「まことに、敬虔な者たちは至福の中にいる。彼らは寝台の上で眺める。おまえは彼らの顔に至福の輝きを認める。彼らは封印された清酒を注がれる。その封印は麝香である。そして(それを)競って求める者たちは、それを競って求めるが良い。そしてその(清酒)の混ぜものはタスニームから。(タスニームとは)側近の者たちがそれで(そこから)飲む泉を(意味する)。」

 敬虔な者たちは、人間が地球上で知り得た全ての至福を超える終わりのない至福の中にいます。彼らは上質の寝床に座り、その場所から、アッラーが彼らに準備し給うた尊い贈り物を眺めるのです。また至福、喜びが彼らの顔に現われます。彼らは天国の、酔わせることはなく、飲みたいときにだけ封が開く酒を飲みます。その酒の封印は麝香、つまりこの酒から芳香が放たれているということです。「そして(それを)競って求める者たちは、それを競って求めるが良い。」競争は元来、誰もが欲しがる貴重なものを得るために、相手を負かすことを指します。この節が指すのは、競争は、いつか消えてしまう現世の欲を追うためでなく、来世の恒久な至福を得るためにあるべきだいうことです。アッラーへの信仰と善行に基づいた、来世に関連することを求める競争は、大地を改善し、発展させます。代わって、現世的な事柄における競争は、相違と崩壊を招きます。

 「そしてその(清酒)の混ぜものはタスニームから。」つまり、天国の酒は、天国の民が飲む飲み物の中でもっとも尊いものでもある、上等の湧水「タスニーム」が混ぜられます。タスニームは高位という意味を持ちます。「(タスニームとは)側近の者たちがそれで(そこから)飲む泉を(意味する)。」つまり、それは天国にある泉で、アッラーの許で恩恵を享受した側近者たちがそこから飲みます。

 続けてアッラーは、敬虔な者たちが罪人たちから受けていた現世での害を解明し給います:
 「罪を犯した者たちは信仰する者たちを嘲笑していた。そして彼ら(罪人)が彼ら(信仰者)の側を通りかかると、互いに(嘲笑して)目配せし、そして己の家族の許に帰って来た時には、上機嫌で帰って来た。また、彼らを見かけると、「それらの者はまさに迷った者だ」と言った。だが、彼ら(不信仰者)は彼ら(信仰者)に対し監視者として送られたのではなかった。」

 罪人たちは、信者たちを嘲笑の的にしていました。彼らが信者の側を通るとき、仲間同士で目配せし合い、それは彼らの行儀の悪さを表していました。そして自分たちの家族の許に帰ると、「上機嫌で帰って来た」。信仰の民になした馬鹿にする行為に喜びながら、嬉しい気持ちで帰っていくのでした。また信仰者を見る度に、指で指し、彼らは迷っているのだと頑なに言い続けました。「だが、彼ら(不信仰者)は彼ら(信仰者)に対し監視者として送られたのではなかった。」つまり、不信仰者は自分ら以外の人間を監視するために遣わされてはいない、という意味です。これは不信仰者たちに対する軽蔑と嘲笑です。

 続いてアッラーは、不信仰者の害に対して忍耐するように信仰者に呼びかける言葉で章を締めくくり給います。なぜなら審判の日には、現世の正反対のことが起きるからです:
「それで今日、信仰した者たちは不信仰者たちを笑う。寝台の上から眺めながら、不信仰者たちは彼らがなしていたことを償われたであろうか。」

クルアーンは迫害された信仰者たちを慰めています。そして不幸な結末が不信仰者たちを待ちわびています。代わって信仰者たちは、至福の中にどっぷり浸かり、寝台に座りながら、不信仰者たちを笑い物にします。ちょうど、現世で彼らが信仰者たちにしていたようにです。ただ、無くなる現世と永遠の来世には大きな差があります。

「不信仰者たちは彼らがなしていたことを償われたであろうか。」このアッラーの御言葉に注意する必要があります。これは非難と、事が確定したことを表す疑問文です。つまり、不信仰者たちは、現世で信仰者たちを嘲笑したことに対する報酬を確かに受けたということです。ではどのような報酬なのでしょうか?それは、地獄の火です。報酬とここで言われているのは、彼らに対する嘲笑のためです。普通、報酬は服従行為に対する報いであるからです。

(参考文献:ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ アンマ/アフィーフ・アブドゥ=ル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーンP63~65)

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