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イスラーム勉強会ブログ

主に勉強会で扱った内容をアップしています。

74章【4】解説

2013年04月04日 | ジュズ・タバーラカ解説
32.否、断じて(不信仰者の考えているとおりではなく)、月にかけて、
33.退き去る時の夜にかけて、
34.明らむ時の朝にかけて、
35.まことにそれ(猛火)は最大のもの(懲罰)の一つである。
36.人間への警告として、
37.(つまり)おまえたちのうち、(善行によって)先に進むか、または、(悪行によって)遅れることを望んだ者への(警告として)。
38.人はみな、己の稼いだことに対する抵当である。
39.ただし、右手の徒は別である。
40.楽園の中で、彼らは尋ね合う、
41.罪人たち(の状況)について。
42.「何がおまえたちを猛火に入れたのか」(とその後、言った)。
43.彼ら(罪人たち)は言った、「われらは礼拝する者たちではなかった」。
44.「そして、貧者たちに食べさせなかった」。
45.「また、われらは(虚言に)耽る者たちと共に耽り、」
46.「また宗教(裁き)の日を否定していた」。
47.「やがて、ついに確かなもの(死)がわれらを訪れた」・
48.そして彼らには執り成す者たちの執り成しも益をなさない。

 「否」は、来世の罰のために嘘つき呼ばわりする者たちを制する言葉です。続いてアッラーは月にかけて誓い給いましたが、至高なる彼による誓いは、その誓いのためにかけられたものが重要であることと、彼の御力の偉大さが示されます。同様に彼は、去りゆく夜と光照らす朝にかけて誓い給いました。夜が去ること、朝が輝き照らすことは、地球の自転が原因の現象です。この自転という動きは、アッラーの御力を示す数々の顕著な諸印の一つです。この自転現象がなければ、夜も昼もなく、地球上の生き物すべてが暑さか寒さで滅んでしまうことでしょう。

 アッラーはこれらの事柄で「猛火」が「最大のものの一つ」であることを誓い給いました。最大のものとはつまり偉大な事項を指します。「人間への警告として」つまり自身に気を付けるようにとの警告であり、罰を恐れるようにとの怖がらせです。続いて彼は仰せになります:「(つまり)おまえたちのうち、(善行によって)先に進むか、または、(悪行によって)遅れることを望んだ者への(警告として)。」つまりアッラーに服従することによって先に進むか、または遅れることで悪と罪に落ちることを指します。「望んだ者へ」特定の道を歩むことを人間は無理強いされないことの証拠です。人間は自身の行為において選択権があるゆえ、導きの道を選ぶか迷いの道を選ぶことが出来ます。

 続いてクルアーンは、人類が理解に迷ってしまったこと、人生に疲労感を与える原因になってしまったある真実について言及します。その真実とは:全ての魂はその稼ぎに対する抵当であり、自身の行為のみの責任を負い、他の罪は負わない。アッラーは仰せになります:
 「人はみな、己の稼いだことに対する抵当である」
 この聖句は、人間の魂はアーダムのミスや祖先の罪に問われないとのアッラーからのはっきりとした知らせです。また先祖の諸行為がどれほど崇高なものであったとしても、罪を犯した魂を益するということもありません。

 続いて、クルアーンはアッラーの罰を招く行為の言及に移ります:
 「ただし、右手の徒は別である。楽園の中で、彼らは尋ね合う、罪人たち(の状況)について。「何がおまえたちを猛火に入れたのか」(とその後、言った)。彼ら(罪人たち)は言った、「われらは礼拝する者たちではなかった」。「そして、貧者たちに食べさせなかった」。「また、われらは(虚言に)耽る者たちと共に耽り、」「また宗教(裁き)の日を否定していた」。「やがて、ついに確かなもの(死)がわれらを訪れた」そして彼らには執り成す者たちの執り成しも益をなさない。」

 右手の徒とは、クルアーンが来世において幸福な者たちに使う名です。左手の徒も同じように、来世において不幸な者たちに使われます。

 ここで右手の徒は、火の中で罪人たちが罰を受けている理由をたずねあっています。その問いに、かの罪人たちと話をし、彼らが受けている罰の原因をたずねたたことのある信仰者たちが答えます:「何がおまえたちを猛火に入れたのか」おまえたちを火に入れたものは何か。4つの事柄が理由だと彼らは答えます:

 1)「彼ら(罪人たち)は言った、「われらは礼拝する者たちではなかった」」礼拝は宗教の柱です。それは、人間の魂とその創造主の間で生まれる関係です。彼おひとりだけが崇められる存在として、くださる恩恵に対しての感謝を捧げるために。そのため礼拝の放棄者は信仰者集団から外され、罪人の列の中に入るのです。創造主に対し忘恩で、義務としての感謝を捧げないためです。

 2)「そして、貧者たちに食べさせなかった」貧者への食事提供は、アッラーからの罰からの救済をもたらします。食事提供の中には、衣服や住居に関する援助も含まれます。そして貧者を軽視することは、醜行と犯罪の泥水に彼らを投げ込むことにつながります。また、略奪や殺人を行うギャンク形成のために貧者が集まることにもつながります。このように、貧者から尊い生活を送る権利を奪う者はイスラームにおいて罪人なのです。

 3)「また、われらは(虚言に)耽る者たちと共に耽り」導きとは逆の話に耽ることです。彼らはクルアーンについて次のように言いました:魔法だ、と。そしてムハンマドを気狂い者などと非難しました。これは今日の、イスラーム教義や信仰儀礼を馬鹿にして遊びと同じ扱いする者たちに当てはまります。

 4)「また宗教(裁き)の日を否定していた」宗教の日:来世の報復と清算の日です。報復の日を信仰することは、人間が自分の魂を覚醒させ、軽い言葉を口にする度に自信を清算させます。なぜなら来世の罰が恐ろしいためです。代わって、その日を嘘だとし、否定することは、自分のどんな行為も気にならなくさせます。そのため自分の欲求を満たすためなら罪を犯し、自分に有益であれば罪に浸り続けます。

 彼ら罪人たちは、次のような状態で日々を送りました:「やがて、ついに確かなもの(死)がわれらを訪れた」つまり死です。死はすべてを終わらせます。後悔や悔悟する余地を残しません。

 死が来た後、各魂はその主に帰ります。クルアーンは以前に述べたことつまり各魂はその行為に対する責任を持つことを解明します。それは次の御言葉です:「そして彼らには執り成す者たちの執り成しも益をなさない。」罪人たちが偶像や聖人たちの執成しを頼りにすることは、間違いです。彼らには執成しの力がないからです。

(参考文献:ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ タバーラカ/アフィーフ・アブドゥ=アル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーンP128~130)

74章解説【3】

2013年03月14日 | ジュズ・タバーラカ解説
30.その上には十九(火獄の番人の天使の数)。
31.そしてわれらは、天使たち以外を獄火の支配者(門番)たちとはなさず、われらは彼らの数(の確定)を、信仰を否定する者たちへの試練に他ならないものとなした。啓典を授けられた者たち(ユダヤ教徒、キリスト教徒)が確信し、信仰した者たちが信仰を増やし、啓典を授けられた者たちと信仰者たちが疑いを持たないために、また、心に病のある者(偽信者)たちと不信仰者たちが、「アッラーはこれ(天使の数)によって譬えとして何を望み(意図し)給うのか」と言うために。このようにアッラーは御望みの者を悩ませ、御望みの者を導き給う。そしてお前の主の軍勢(天使たち)を知る者は彼(アッラー)のほかになく、そしてそれ(猛火)は人間への訓戒にほかならない。

 「その上には十九(火獄の番人の天使の数)」地獄に関する話が続きます。つまり天使たちの中の19の天使について。

 不信仰者たちはこういった来世に関する事実を嘲笑しました。アブージャハルが19の天使について言いました:(クライシュに向かって)お前たち10人で天使一人さえもやっつけられないのか。代わって、啓典の民は、ユダヤ教徒とキリスト教徒を指します。彼らのうちのある人たちが預言者(祝福と平安あれ)に地獄の門番について質問した際、アッラーがその数について知らせ給いました。

 そしてアッラーは不可視部のこの側面を露わにすることで一つの英知を次の御言葉で解明し給いました:
 「そしてわれらは、天使たち以外を獄火の支配者(門番)たちとはなさず、われらは彼らの数(の確定)を、信仰を否定する者たちへの試練に他ならないものとなした。啓典を授けられた者たち(ユダヤ教徒、キリスト教徒)が確信し、信仰した者たちが信仰を増やし、啓典を授けられた者たちと信仰者たちが疑いを持たないために、また、心に病のある者(偽信者)たちと不信仰者たちが、「アッラーはこれ(天使の数)によって譬えとして何を望み(意図し)給うのか」と言うために。このようにアッラーは御望みの者を悩ませ、御望みの者を導き給う。そしてお前の主の軍勢(天使たち)を知る者は彼(アッラー)のほかになく、そしてそれ(猛火)は人間への訓戒にほかならない。」

 アッラーは地獄の諸事を任された者、その中にいる不信仰者たち、罪人たちを罰する者を天使のほかに定め給いませんでした。なぜなら天使はアッラーに背くことから最も遠ざかった存在で、また人間とジンよりも力強く、アッラーに命じられた偉大な事柄を実行する能力を持っているからです。「われらは彼らの数(の確定)を、信仰を否定する者たちへの試練に他ならないものとなした」つまりアッラーが彼らの数を19とし給うたのは、単に不信仰な者たちを困らせ、迷わせるためである、ということです。なお彼らはこの数を嘲笑し、天使たちに敵対して勝ってやろうとの態度を見せました。また「試練に他ならないもの」は:罰に他ならない、とも言われます。

 「啓典を授けられた者たちが確信し」つまりユダヤ教徒とキリスト教徒が、自分らの啓典に書かれていることがクルアーンの中にあるものと一致していることに基づいてムハンマドの預言者性を確信するため、です。「信仰した者たちが信仰を増やし」つまり、信仰者たちがムハンマドの預言者性によって信仰の上に信仰を増やす。啓典の民の出であっても、アラブの出であっても関係はない。「啓典を授けられた者たちと信仰者たちが疑いを持たないために」律法の民と福音の民とムハンマドの共同体のアッラーを信仰する者たちが、クルアーンがアッラーの書であることを疑わないために。既述の言葉を強調します。「また、心に病のある者たち」偽信者、信仰の弱いアラブ人です。「不信仰者たち」ムハンマドの預言者性を否定する者たち。「アッラーはこれ(天使の数)によって譬えとして何を望み(意図し)給うのか」私たちを脅すためにこの天使の少ない数でアッラーは何を望み給うのか。人々の間で親しまれているたとえ話を不思議がるということは、それ自体に対する拒絶を指します。

 「このようにアッラーは御望みの者を悩ませ、御望みの者を導き給う」このように:不信仰者たちによる嘘呼ばわりと信仰者たちの信仰を指します。代わって、アッラーが人々を迷わせたり違う人々を導くということは、そのように強制されること、つまり善の道と悪の道をどちらかを取ることにおいて無理強いされることを意味しません。断じてそうではありません。“強制”はアッラーの公正さに矛盾し、人間には意志と選択権があるとの明言を含んだクルアーンに馴染みません。クルアーンには次のようにあります「そして言え、「おまえの主からの真理である」。そして望む者には信じさせ、望む者には信仰を拒否させよ。」(洞窟章29節)「善行をなした者、それは己自身のためである。そして、悪をなした者、それは己に仇している。そしておまえの主はしもべたちに対して不当不正な御方ではあらせられない。」(解説された章46節)、「まことにアッラーは、民が己の事柄を変えるまで、彼らの事柄を変え給うことはない。」(雷章11節)

 アッラーは御望みの者を悩ませ、御望みの者を導き給う、の意味は、アッラーが人間に二つの道を解明し給うているということです:善の道と悪の道。人間には自分に合った、自分の意志が欲するどちらかを選ぶ権利があります。そのため人間は選択に関する清算を受けます。なぜなら悪の道を辿る者は、十分な理解力、意志、自由、選択でその道を辿るためです。ここに報復と罰が生まれるのです。同様に、対するものとして、導きの道を辿る者は、完全に自分の意志と、信仰と確信の結果に基づいてその道を辿ります。

 アッラーは私たちに導きの道を露わにしてくださり、また私たちが辿れば導かれ幸福になる道を限定してくださいました。迷い、苦しむことになる迷いの道も同じくアッラーは解明してくださいました。アッラーは、天命、不可視界の秘密について知ることを私たちに課し給わなかったのは、それらがアッラーのみに属するものであり、理解力はそれらの本性を会得出来ないためです。

 前述の節の続きを見ましょう:「そしてお前の主の軍勢(天使たち)を知る者は彼(アッラー)のほかになく、そしてそれ(猛火)は人間への訓戒にほかならない。」地獄の看守の数が19であっても決してアッラーの軍勢が少ないことを指しているわけでないことの解明がここにあります。アッラーの軍勢については、彼のみが御存知です。しかしこの少数で命ぜられたことをこなすのに十分です。「そしてそれは」猛火を指します。「人間への訓戒にほかならない」アッラーに背くことに注意するために人間に与えられた訓戒であるという意味です。

(参考文献:ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ タバーラカ/アフィーフ・アブドゥ=アル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーンP124~127)

74章解説【2】

2013年02月26日 | ジュズ・タバーラカ解説
8.それで角笛が鳴らされた時、
9.そうなれば、それこそは、その日、苦難の日である。
10.不信仰者たちにとっての(苦難の日)、容易ではない(日である)。
11.おまえはわれをわれが一人きりに創った者と共に、構わずおくように。
12.そしてわれは彼に拡張された(豊かな)財産を与え、
13.また側に控える息子たちをも(与えた)。
14.またわれは彼に(富と名望を)整然と整えた。
15.その上、彼はわれが追加することを(不当にも)期待する。
16.断じて(そのような期待には応じない)、彼がわれらの諸々の印に対し頑迷であったからには。
17.いずれわれは彼に険しい坂道を負わせよう。
18.彼が(クルアーンについて)熟考し、(それを如何にして貶められるかと)推し(すいし)量ったからには。
19.それで彼は殺された(呪詛(じゅそ)の言葉)。いかに彼は推し量ったというのか。
20.それから、彼は殺された(呪詛(じゅそ)の言葉)。いかに彼は推し量ったというのか。
21.それから、彼は眺め・考え、
22.それから、眉をひそめ、顔をしかめた。
23.それから、彼は(信仰に)背を向け、思い上がった。
24.そして、彼は言った、「これは言い伝えの魔術にほかならない」。
25.「これは人間の言葉にほかならない」。
26.いずれ、われは彼を猛火にくべるであろう。
27.そして猛火とは何かを何がおまえに知らせるのか。
28.それは残さず、捨て置かない。
29.(それは)皮膚を黒く変える(焼き焦がす)ものである。

 アッラーは不信仰者たちに審判の日と彼らを待っているその日の成り行きを思い出させます:
 「それで角笛が鳴らされた時、そうなれば、それこそは、その日、苦難の日である。不信仰者たちにとっての(苦難の日)、容易ではない(日である)。」角笛が鳴らされると死者が甦り、魂たちはその身体に帰ります。不信仰者たちにとってこの日は困難であり、うまくいくことは何もありません。なぜならその日、行いが清算され、左手に行為が記された書簡が手渡され、罰が来るのを待つ間、その顔が黒くなるからです。

 続いてクルアーンは預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)の使命を嘘であるとする男、アル=ワリード・イブン・アル=ムギーラというクライシュの貴族、お金持ち関して述べます。彼は預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)に危害を加え、クルアーンを攻撃する一人でした。アッラーは仰せになります:

 「おまえはわれをわれが一人きりに創った者と共に、構わずおくように。そしてわれは彼に拡張された(豊かな)財産を与え、また側に控える息子たちをも(与えた)。またわれは彼に(富と名望を)整然と整えた。その上、彼はわれが追加することを(不当にも)期待する。断じて(そのような期待には応じない)、彼がわれらの諸々の印に対し頑迷であったからには。いずれわれは彼に険しい坂道を負わせよう。」

 至高なるアッラーは預言者(祝福と平安あれ)を慰め言葉をかけ給います:「おまえはわれをわれが一人きりに創った者と共に、構わずおくように」つまりおまえの使命を嘘だと主張している者とわれをふたりきりにするように、そしてその者のことをわれに任せるように。その者への復讐はわれが行うので充分。または、われは彼を金も子供もない一人きりの状態で創った、という意味になります。「そしてわれは彼に拡張された(豊かな)財産を与え」多量と成長によって拡張する多くのお金。「また側に控える息子たち」マッカにおいて、そばにいてくれる息子たちを眺めることで彼の目は喜び、金儲けのために彼らは父親から離れることはない。「またわれは彼に(富と名望を)整然と整えた」指導力、幅広い名望を彼に用意した。「その上、彼はわれが追加することを(不当にも)期待する」この嘘つき呼ばわりはその激しい欲からわれが彼に与えた恩恵が増加することを欲している。「断じて」その欲を退けよう。「彼がわれらの諸々の印に対し頑迷であったからには」まことに彼はわれがムハンマドに下した啓示を信じなかった。この嘘つき呼ばわり者に:「いずれわれは彼に険しい坂道を負わせよう」安楽のない苦しみを彼に負わせよう。厳しい山道を登る者のように。

 続いてアッラーは、この嘘つき呼ばわり者の心の様子とクルアーンを魔法だと言うときの表情を描写し給います:
 
「彼が(クルアーンについて)熟考し、(それを如何にして貶められるかと)推し(すいし)量ったからには」つまり考え、クルアーンについて自分が言っていることを推測した。
 「それで彼は殺された。いかに彼は推し量ったというのか」呪われてしまえ、如何にあのような中傷を推し量ったのか。
 「それで彼は殺された。いかに彼は推し量ったというのか」激しい驚嘆を示すための繰り返し表現。
 「それから、彼は眺め・考え」クルアーンを何で突き刺そうかと。
 「それから、眉をひそめ、顔をしかめた」顰め面になり、顔色が変わった。
 「それから、彼は背を向け、思い上がった」真実に背を向け、真実に追従することを卑しく見て、高慢な態度を取った。
 「そして、彼は言った、「これは言い伝えの魔術にほかならない」」このクルアーンは他人より伝えられた魔法にほかならない。
 「「これは人間の言葉にほかならない」」クルアーンはアッラーの御言葉ではなく、人間の言葉だ。

 以上は、クルアーンが言及した、真実を知り、昼間の太陽のようにはっきりとそれを目で見ているにもかかわらず名声を優先し、社会的地位を保つために真実を追おうとしない数名の心情の描写です。宗教を変えるだけで民より敵対の態度が向けられ、また彼らより離れる必要が生まれるので、導きよりも迷いを優先するのです。真実を知っていながら自分の意見を公言することに勇気を持てなかった者たちの結末は、アル=ワリード・イブン・アル=ムギーラの結末と同じになるでしょう。アッラーは彼をこのような軽蔑の心を誘う描写で表現し給い、そしてその直後に彼が来世で受けるであろう罪について仰せになりました:
 「いずれ、われは彼を猛火にくべるであろう。そして猛火とは何かを何がおまえに知らせるのか。それは残さず、捨て置かない。(それは)皮膚を黒く変える(焼き焦がす)ものである。」

 アッラーはこの嘘つき呼ばわり者を近いうちに猛火の中に入れ給います。「سقرサカル」は罪人たちが苦しめられる数ある地獄の名の一つです。「そして猛火とは何かを何がおまえに知らせるのか」サカルが何であるかをおまえに教えるのか。それは人間が想像できないほどに激しく燃えます。「それは残さず、捨て置かない」それは投げ込まれたものを残さず破壊し、中にあるものを生きた状態にしておかない、しかし彼らの身体が再生するたびに再び焦がします。「(それは)皮膚を黒く変える(焼き焦がす)ものである」「بشرバシャル」は皮膚「بشرة」の複数形で、身体の表面にあります。この火は皮膚を焦がし、黒くします。

(参考文献:ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ タバーラカ/アフィーフ・アブドゥ=アル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーンP121~124)

74章解説【1】

2013年02月14日 | ジュズ・タバーラカ解説

1. 身を包んだ者よ、
2. 立って警告せよ。
3. そしておまえの主の偉大さを称えよ。
4. そしておまえの衣服を清めよ。
5. そして不浄(偶像)を避けよ。
6. そして(施したもの)より多く(の見返り)を求めて施しをするな。
7. そしておまえの主のために耐えよ。
8. それで角笛が鳴らされた時、
9. そうなれば、それこそは、その日、苦難の日である。
10. 不信仰者たちにとっての(苦難の日)、容易ではない(日である)。

 この章は、アッラーの使徒(祝福と平安あれ)に:
1)自分の民を警告すること、
2)彼から発せられるに相応しくない事柄の放棄、
3)アッラーからいただいた恩恵を否定する者の放棄
を勧めています。また、罪人たちの特徴や審判の日における彼らの結末についても言及します。

 この章はクルアーンの啓示の中でも初期のものです。「読め…」で始まる啓示を大天使ジブリールが預言者ムハンマド(祝福と平安あれ)に伝えた際に、彼は大きな影響を受けました。大天使ジブリールは、ムハンマド(祝福と平安あれ)が落ち着き、啓示に愛情を寄せられるまでしばらくの時間を置きました。ジャービル・イブン・アブドゥッラーは啓示が途切れていたことといかにそれが再来したかに関してアッラーの使徒(祝福と平安あれ)から聞いたと伝えています:アッラーの使徒(祝福と平安あれ)は言われました:私は歩いていると天より音がしたので頭を天に向けて上げるとヒラーで私の前に現れた天使が天と地の間で椅子に座っているのを見ました。私は驚き、彼に恐怖を覚え、帰りました。私は:私を覆ってくれ、覆ってくれと言ったので皆が私の身を包んでくれました。そしてアッラーが啓示し給いました:
「身を包んだ者よ、立って警告せよ。そしておまえの主の偉大さを称えよ。そしておまえの衣服を清めよ。そして不浄(偶像)を避けよ。」

 アル=ムッダッスィルとは、寝るためや温もりを得るために衣服を身にまとう人を指します。
 アッラーは彼の預言者を「身を包んだ者よ、立って警告せよ。」と呼びかけ給いました。つまり、衣服で身をくるんだ者と言う意味です。または:預言者性と神に関する知識の衣に包まった者よと言う意味とも言われます。「立って」おまえの寝床から起き上がりなさい。神意はまことにおまえを崇高な位と教えの伝搬のために指名したのだから。「警告せよ」おまえの民を脅しなさい。そして帰依しなければ罰があるだろうと警戒させなさい。ここには、
1)もし迷いに浸かりっぱなしの者たちが帰依しないままでいるならば近く起こるであろう危険があるとの警告と、
2)イスラームへの呼びかけに彼らが応えなければならない
との勧告があります。

 アッラーは続けてその使徒に語りかけ給います:「そしておまえの主の偉大さを称えよ」つまり彼おひとりだけに偉大さを限定させよ、強さ・称讃を彼のみに属させよという意味です。このような神の位に関する描写は預言者(祝福と平安あれ)の心を強くし、全ての陰謀とそれに反する全ての力を弱くします。そして預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)へは勝利を確信しながら、また困難を楽観視しながら教えを伝搬します。アッラーこそが人々を崇拝行為に導きます。彼こそが他のどんな大きなものよりも大きく、他のどんな力のあるものよりも力があります。ムスリムはアッラーフアクバル(アッラーは偉大だ)と唱えてその意味を思い起こすことで、あらゆる困難も容易となり、どんな危険も乗り越えるのです。

 続いてアッラーは預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)に仰せになります:「そしておまえの衣服を清めよ」つまり、あなたの衣服についた汚れを水によって清めなさい、と言う意味です。かつて多神教徒は清潔ではありませんでしたので、至高なるアッラーはムハンマド(祝福と平安あれ)に清くあるよう、そしてその衣服も清めるよう命じ給うたのです。また:低俗な性格、間違った信仰、罪から魂を浄化せよとの命令である、とも言われます。アラブの習慣として、「あの人の衣服は清浄である」との言葉で、罪業や悪い性格のない清い魂を指していました。逆に行いの汚い人のことを、あの人は汚れた服を着ている、と表していました。ただムハンマド(祝福と平安あれ)は否定的な性格があるとか何か罪を犯したことがあると知られたことは全くないため、この聖句は彼の民に向けられた、罪と低俗な性格から清まりなさいとの指導であると理解出来ます。

 そしてアッラーは預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)に仰せになります:「そして不浄(偶像)を避けよ」つまり、アッラーの罰に繋がるものを避けなさいとの意味です。「ルジュズ」はもともと罰ですが、やがて罪に繋がる全てを指すようになりました。多神崇拝、偶像崇拝、罪を犯すことなど。またこの聖句にある忠告は預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)が多神崇拝で穢れていたとか、恥ずべきことがあるとか、罪を犯していたことを指しているわけではありません。預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)は召命前に偶像に一度も跪拝したことがないこと、良くない性格を持っていなかったこと、どんな罪も犯したことがないことが確かな情報として伝わっています。アッラーが以上のように奨励したのは、ただ預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)が今持っている崇高な性格を保ち続けるためだけであり、またこのことについて自分らで話し合い、また聖句の内容を実践してあらゆる罪を放棄するようにとの彼の共同体に対しての呼びかけでもあります。

 そしてアッラーは預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)に仰せになります:「そして(施したもの)より多く(の見返り)を求めて施しをするな」アラビア語の動詞「منّマンナ 」には、他人のためにする善行を数え(てその徳をさげ)ることをいいます。聖句の意味:おまえは宣教のために多くのことをこれから行うが、おまえは宗教上の知識を人々に教えたことをわざわざ口にするな。つまり自分が皆に行っていること(ここでは教えの伝搬)が多いのだ、と言うことです。または:自分が行ってことを数え上げる者のように、主に捧げる崇拝行為を数え上げてはいけない、とも言われます。また「منّマンナ 」は与えるという意味もありますので、自分が施したものよりも多くのものを得ようと考えて何を施してはならない、と言う意味にもなります。

 また次のようにも仰せです:「そしておまえの主のために耐えよ」つまり、おまえの主の御満悦のためにおまえの民の迫害に耐えなさい、アッラーのために行う義務・服従行為の遂行に耐えなさい、そして人生におけるあらゆる困難に耐えなさいと言う意味です。忍耐は、アッラーがその使徒に託した遺言なのです。なぜならそれはアッラーへの誘いに必要な武器だからです。伝道者はその道において迫害され、嘲笑されますが、忍耐なしには伝道活動を続けることなど出来ず、また目標を達成することも出来ません。

(参考文献:ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ タバーラカ/アフィーフ・アブドゥ=アル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーンP119~121)

75章解説【2】

2013年01月17日 | ジュズ・タバーラカ解説
بسم الله الرحمن الرحيم
20.断じて、いや、おまえたち(不信仰者)は目先のもの(現世)を愛し、
21.そして来世をなおざりにする。
22.その日、(信仰者たちの)顔は輝き、
23.(顔は)その主の方を仰ぎ見る。
24.また、その日、(不信仰者たちの)顔は暗く歪み、
25.背骨折(のような責め苦)が己に対しなされると思う(確信する)。
26.断じて、(魂が喉元を囲む)鎖骨に達した時、
27.そして(周囲の者に)言われた、「(あなたがたのうち)誰が呪医ですか」。
28.そして彼(瀕死の者)は、それがかの別離であると思った(確信した)。
29.そして脚は脚に重なる。
30.その日、お前の主の方に(裁定に)追い立てはある。
31.それでも彼(人間)は真実と認めず、礼拝もしなかった。
32.むしろ、嘘と否定し、背を向けた。
33.それから、意気揚々と歩んで家族の許に赴いた。
34.(破滅は)おまえに近いぞ、近い。
35.更に、おまえに近いぞ、近い。
36.人間は見逃されて放っておかれると考えるのか。
37.彼(人間)は射精された精液の一滴ではなかったか。
38.それから、それは凝血となり、更に(アッラーがそれを人間に)創り、更に整え給うた。
39.そして、それ(そのような人間)から男と女の両配偶者を成した。
40.そのような御方が死者を生かすことができ給わないであろうか。

そして現世の欲望を来世より優先している審判の日の到来を否定している者たちに対する警告の言葉に戻ります:
「断じて、いや、おまえたち(不信仰者)は目先のもの(現世)を愛し、そして来世をなおざりにする。」

 意味:クライシュよ!現実がおまえたちの主張のように死後の復活などなく、行為の報復もないというのは違う!おまえたちは消えゆく現世を愛し、永遠に終わらない来世を放棄している。現世を目先のものと名付けているところにその短さと時間の経過の早さが現われています。

 そしてアッラーは来世における信仰者の行く末と不信仰者の行く末を解明し給います:
 「その日、(信仰者たちの)顔は輝き、(顔は)その主の方を仰ぎ見る。また、その日、(不信仰者たちの)顔は暗く歪み、背骨折(のような責め苦)が己に対しなされると思う(確信する)。」

 輝く顔は信仰者の顔を指します。輝く(ナーディラ)は、至福の印として喜びが見られることです。その顔はその主をまじまじと見ます。自分らの祝福多き至高なる主を見られる以上に愛しいことなど彼らにはありません。ただ、如何に見るのかについては私たちには分かりません。この世界に存在するすべての美は万物の主の創造です。そんな御方が信仰者の前に御姿を顕わにしてくださることは、彼らにとってこれ以上にない幸福であるのです。

 代わって不信仰者の顔は、暗く歪みます。つまり、自らの行いを知って顰め面になることです。そのため背骨を折るようなとても巧みな仕置きが起きることを確信します。

 アッラーは不信仰者たちに審判の日の光景を知らせることで脅かし給うた後、彼らが毎日目にしている光景を更に彼らに近付けて更に脅し給います:それは人間と現世の間を離れさせる死の光景です。愛する者たちとの間を隔てる、地球の生き物全てが経験する死です。それは避けられないものであり、世界のあらゆる場で常に繰り返し起きています。そして全ての存在は死に対して同じ立場にあり、それを追い返す方法などありません。以上の事実は、人間が関わる余地のない神の能力から死がやってくることを感じさせます。にもかかわらず彼らははかない現世が消えることから何も教訓を得ません。至高なるアッラーは仰せになります:
 「断じて、(魂が喉元を囲む)鎖骨に達した時、そして(周囲の者に)言われた、「(あなたがたのうち)誰が呪医ですか」。そして彼(瀕死の者)は、それがかの別離であると思った(確信した)。そして脚は脚に重なる。その日、お前の主の方に(裁定に)追い立てはある。」

 「魂」は人間の魂を指します。それが鎖骨に達することは、死が訪れ、その兆候があらわれはじめることを指します。「誰が呪医ですか」つまり死に際の人間の家族が言い合います:この人を治せる医者はいないか?と。「راق」は病人を治療するために何かを読む人を指します。「そして彼(瀕死の者)は、それがかの別離であると思った(確信した)」つまり、瀕死の人間が、現世、家族、お金、子供と自分を離れさせる死の到来を確信した、です。「そして脚は脚に重なる」魂が体内から出るときまたは両脚がカフン(死人を覆う布)にくるまれるときに両脚がくっつくことを指すと言われます。また:死の苦悩の激しさが到来しつつある来世が付随している恐怖、清算、報奨、罰にくっつくことを意味する、とも言われます。「その日、お前の主の方に(裁定に)追い立てはある」つまり、しもべたちの帰り処はアッラーであるゆえ、彼らは審判の日に行為の報いを受けるために主のもとに連れて行かれます。

 命を断つ死の光景を前に、続く聖句はアッラーの導きに背を向ける者たち蔑視します:
 「それでも彼(人間)は真実と認めず、礼拝もしなかった。むしろ、嘘と否定し、背を向けた。それから、意気揚々と歩んで家族の許に赴いた。」

 審判の日を信じず、アッラーのことも彼の啓示のことも信じず、礼拝もせず、クルアーンを嘘だと言い、信仰から背を向けた人間は、家族の許に気取り歩いて帰ったという意味です。

 これらの特徴を備えた者に対してクルアーンは脅迫を向けます:
 「(破滅は)おまえに近いぞ、近い。更に、おまえに近いぞ、近い。」

 この表現は、アラビア語において、脅しを意味します。クルアーンも脅迫を目的として、この表現を繰り返し使っています。

 審判の日を否定する者、この現世の中に腐敗した者、生きている間ずっと不道徳なままの者はアッラーが人間を無目的に創造し給うたと思うのでしょうか。人間は動物と同じなのでしょうか。命令されず、義務も負わされない。規律を齎す法に従うよう呼び掛けられることはなく、その両手が成した行為の清算を来世で受けることもない?!
 「人間は見逃されて放っておかれると考えるのか。」

 審判を否定する者たちにアッラーから応答が来ます。人間の創造の初期についてと、子宮におけるその成長の段階についての解明が共に述べられます。人間を創造したアッラーの御力はそれをその死後に生きた状態に戻すことが可能です:

 「彼(人間)は射精された精液の一滴ではなかったか。それから、それは凝血となり、更に(アッラーがそれを人間に)創り、更に整え給うた。そして、それ(そのような人間)から男と女の両配偶者を成した。そのような御方が死者を生かすことができ給わないであろうか。」

 人間は偶然生まれた存在ではありません。アッラーは彼を、無数の精液の中から卵子と結合出来る一つの精子から創り給い、受精卵は凝血つまり分裂したものになり、子宮の壁に引っ掛かります。そして細胞は完全な人間に成長します:つまり男と女です。

 人間をこのような形に創造出来る可能な御方は、清算のために人間を審判の日に復活させ給うことが可能です。「そのような御方が死者を生かすことができ給わないであろうか」この聖句をもってこの章は完結します。自分は生き返ることはなく、骨も集められることはないつまり再生を否定している人間に対する応答は章の冒頭に先に述べられました:「われらは彼の指先まで整えることが可能」そして章の終わりはこの聖句に合った「そのような御方が死者を生かすことができ給わないであろうか」との御言葉が来ています。

 また預言者(祝福と平安あれ)は「そのような御方が死者を生かすことができ給わないであろうか」を読むたびに、「至高なるアッラーよ、いいえ」と言っていたことが伝わっています。

(参考文献:ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ タバーラカ/アフィーフ・アブドゥ=アル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーンP139~142)

75章解説【1】

2012年12月25日 | ジュズ・タバーラカ解説
بسم الله الرحمن الرحيم
1. 復活(審判)の日に誓おうではないか。
2. そして自責する魂に誓おうではないか。
3. 人間は、われらが(復活の日に)彼(人間)の骨を集めることはないと考えるのか。
4. いや、われらは彼の指先まで整えることが可能で(、それを整える)。
5. いや、人間はこの先も罪悪を重ねることを望み、
6. 復活(審判)の日はいつごろか、と(嘲って)尋ねる。
7. それで(復活の日の恐怖に)目が眩んだ時、
8. そして月が姿を隠し、
9. また太陽と月が合わせられた(時)、
10. 人間はその日、逃げ場はどこか、と言う。
11. 断じて、退避地はない。
12. その日、お前の主の御許に落ち着き先はある。
13. その日、人間は、先になしたことと後とになしたことについて告げられる。
14. いや、人間は己に対して証拠となる、
15. たとえその様々な申し訳を持ち出したとしても。
16. それ(クルアーンの啓示、暗記)に急いでおまえの舌をそれ(クルアーンの読誦)で動かしてはならない。
17. まことにその(胸中への)収集(記憶)とその読誦は、われらの務めである。
18. それゆえ、われらがそれを読み聞かせた時にはその読誦に従え。
19. それから、まことにその解明もわれらの務めである。

イスラームにおける信仰の柱の一つに、最後の日の信仰がありますが、この日には審判の日とも名が付いています。

かつて信仰の本質について尋ねられたアッラーの使徒(祝福と平安あれ)は言いました:あなたがアッラーと、天使たち、諸啓典、諸使徒、最後の日を信仰し、善きも悪くもアッラーからの定めを信仰すること。

そしてクルアーンは「審判章」でこの内容を解説しています。

この章は、審判の日は疑いなく真実であり、それは必ず起こることを強調することで始まります。至高なるアッラーは仰せになります:
「復活(審判)の日に誓おうではないか。そして自責する魂に誓おうではないか。」

誓いの言葉の直前に否定の「لا」を置くことは、アラブの言葉や詩において頻繁に使われる方法で、これは誓いの強調に役立ちます。「事は明解なので誓う必要などない」とアッラーが仰せになっているかのようです。審判の日を否定する者に対して、それを軽視する者に対してその存在を知らしめる目的でアッラーは審判の日に誓い給いました。

また、「自責する」と形容された魂にもアッラーは誓い給うています。これは服従行為や罪において自責する信仰者の魂を指します。服従行為においては、なぜもっと多くしなかったのかと自責し、罪においてはその犯してしまったことを自責することで、悔悟してアッラーに帰るのです。これからは二度と同じ行為を繰り返さないという決意の表れです。アル=ハサン・アル=バスリーは言っています:敬虔な者が常に自責しているのを貴方は見るだろうが、破廉恥な者は自責せずに歩き去ってしまう。

アッラーは自責する魂に誓い給うことでそれを褒め、その存在を強調し、その道を歩むよう勧め給うています。

続いてクルアーンは、審判の日を否定している不信仰者たちの主張を語ります:
「人間は、われらが(復活の日に)彼(人間)の骨を集めることはないと考えるのか。いや、われらは彼の指先まで整えることが可能で(、それを整える)。」

彼らが来世の存在を否定していることの一つが、土に埋もれたばらばらの骨が元通りになること、人間が生き返るということが想像に難しいということです。かつてアラブの不信仰者であった「アディ」という男が預言者(祝福と平安あれ)の隣に座って、審判の日について話してほしいと願ったところ、その日の一部について話しました。「その日をこの目で見たとしてもムハンマドよ、私はあなたを信じないし、その日のことも信じないぞ!アッラーが朽ち果てた骨を集めるなど可能なのか?!」すると返事としての啓示が下りました。至高なるアッラーは強調して仰せになります:いや、われらの力によって骨を集めるだけでなく指先の骨も整えられるのだ。

続いてクルアーンは、審判の日を否定することにおける隠れた精神的原因と、本質的な理由を解明します。人間は欲望と罪な行為に溺れたいのに、再生と報復という思想はその望みに立ちはだかるため、彼らは審判の日を脳裏から追い払いたいと思うのです。アッラーは仰せになります:「いや、人間はこの先も罪悪を重ねることを望み、復活(審判)の日はいつごろか、と(嘲って)尋ねる。」

「بل いや」が文頭に来ていることが上記のような原因付けを想像させます。そしてアッラーが描写し給うたこの原因へと続きます。「この先も罪悪を重ねることを望み」つまり時間が流れても悪行をし続けるという意味です。この先、とは将来を意味します。この人間は否定と遠ざかりたい気持ちを込めて審判の日について質問しつつ悪行をし続けます。

審判の日と行為には報いがあることを人が信じれば、自分から発せられるすべてに常に注意していられるようになります。罪から自分を守り、全身で善を行おうとしますが、将来起こる審判の日にはアッラーの御前に立って清算を受けることになるからです。審判の日への信仰は人の魂を自責するものに変えます。自身から発せられる全てを責めるようになります。これこそが審判の日と、誓いの言葉が章の始まりにある自責する魂に誓う言葉が結び付けられた秘密なのです。

不信仰者たちによる審判の日の到来の否定を前に、酷い嵐のような応答がクルアーンより寄せられます。またその日に起こるいくつかの出来事も同時に述べられます:
「それで(復活の日の恐怖に)目が眩んだ時、そして月が姿を隠し、また太陽と月が合わせられた(時)、人間はその日、逃げ場はどこか、と言う。断じて、退避地はない。その日、お前の主の御許に落ち着き先はある。その日、人間は、先になしたことと後とになしたことについて告げられる。」

そのときに起きる膨大な変化を見ることで視覚は乱れ恐怖で驚きます。山々がはげたり、大地が割れたりなど。月が消えてその光が去り、離れていた月と太陽が一つになるにもかかわらず光はありません。このような出来事が起きる中、人間らは尋ねあいます:どこに逃げる?と。そのとき、「断じて、退避地はない」と応答があります。つまり、要塞や逃げ場など無いので逃げる意味はないということです。「その日、お前の主の御許に落ち着き先はある」落ち着き先はアッラーの御許のみということです。以上の出来事が起きる日の行き先はアッラーおひとり以外に何もありません。その日のすべては彼に委ねられます。また人々の行為にかけられていた覆いが剥がされます。「人間は、先になしたことと後とになしたことについて告げられる」生前に行ってきた善行と悪行と、死後に発生した、自分に繋がっている善行と悪行について知らされます。善行であれば、例えばサダカ・ジャーリヤ(公衆飲み場設立等)や有益な知識が挙げられます。悪行であれば何か新設した悪行が人々に行われるようになるとその責が死後も追ってくることがいえます。

または:始めと終わりの行い、という意味とも取れます。すると:人間は人生の始めから最後までになした行いについて知らされるという意味になります。「告げられる」には、清算のために知らされるという意味があります。

人間は自分の行った行為の証人となります:
「いや、人間は己に対して証拠となる、たとえその様々な申し訳を持ち出したとしても。」

人間がするどのような言い訳も何の役に立ちません。体の各部分が証人となるのです:「彼らの舌と手と足が彼らのなしたことを証言する日に」(御光章24節)

そして預言者(平安と祝福あれ)に啓示の受け取り方を諭す節が続きます:
「それ(クルアーンの啓示、暗記)に急いでおまえの舌をそれ(クルアーンの読誦)で動かしてはならない。まことにその(胸中への)収集(記憶)とその読誦は、われらの務めである。それゆえ、われらがそれを読み聞かせた時にはその読誦に従え。それから、まことにその解明もわれらの務めである。」

かつて預言者(平安と祝福あれ)はジブリールを介して啓示を受ける時、暗記に努めようと舌を急いで動かしていました。忘れてしまうことを恐れたためです。もしクルアーンが彼から発せられたもの、つまりイスラームの敵が主張するように彼の著作でありアッラーのものでなかったなら、その中に熟考した跡が存在し、その暗記に急ぐために舌を急いで動かしたりなどしなかったはずです。しかし預言者(祝福と平安あれ)は突発的な学習に晒されて啓示を受ける度に一文字一文字繰り返して読んでいたのです。そのため、啓示を受け始めたばかりでまだ慣れていない頃には、啓示の暗記に必死であったに違いありません。

そのためアッラーは預言者(祝福と平安あれ)に次のように仰せになっています:「それ(クルアーンの啓示、暗記)に急いでおまえの舌をそれ(クルアーンの読誦)で動かしてはならない」つまり啓示を受けている時はそれを聞き逃してしまうと恐れるあまりに舌を動かそうとしてはいけないという意味です。「まことにその(胸中への)収集(記憶)とその読誦は、われらの務めである」つまり人々に読み上げるためにあなたの胸にそれを集めて暗記させるのはわれらの任務であるという意味です。「それゆえ、われらがそれを読み聞かせた時にはその読誦に従え」ジブリールを介してわれらがクルアーンをあなたに読み聞かせるときは、それを聞き、その内容に従い、実行しなさいという意味です。「それから、まことにその解明もわれらの務めである」許容事項、禁止事項や意味、裁定で不明な部分の解明という意味です。
(参考文献:ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ タバーラカ/アフィーフ・アブドゥ=アル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーンP135~139)

76章解説【2】

2012年12月06日 | ジュズ・タバーラカ解説
بسم الله الرحمن الرحيم
13.彼らはそこで寝台に寄りかかり、そこでは太陽も酷寒もみないで。
14.そして彼らの上にはその(楽園の木)陰が間近で、その果物は低く垂れ下げられた。
15.そして彼らの周りには銀の器とギヤマンのコップが回され、
16.(つまり)銀のギヤマンで、彼ら(召使の酌人たち)は適量を計り取る。
17.そして彼ら(敬虔な者たち)はそこ(楽園)で酒杯で(酒を)注がれるが、その混ぜ物はショウガである。
18.(つまりショウガとは)サルサビールと名付けられたそこ(楽園)にある泉(の水)である。
19.そして彼らの周りには永遠の少年たちが回る。お前が彼らを見たなら、撒き散らされた真珠かと想ったであろう。
20.(そこに)至福と広大な王権を見たであろう。
21.彼ら(敬虔な者たち)の上には緑の錦と緞子(どんす)の服があり、銀の腕輪で飾られ、彼らには彼らの主が清らかな飲み物を飲ませ給う。
22.「まことに、これがおまえたちへの報いであり、おまえたちの努力は厚く報いられた」(と彼らに言われた)。
23.まことにわれら、われらこそがおまえの上にクルアーンを降示として降した。
24.それゆえ、おまえの主の裁定に耐え、彼らのうちの邪な者にも忘恩の不信仰者にも従ってはならない。
25.そして、おまえの主の御名を朝に夕に唱えよ。
26.そして、夜のうちも彼に跪拝し、夜に長く、彼を賛美(礼拝)せよ。
27.まことにこれらの者(不信仰者)は目先のもの(現世)を好み、重大な日(最後の審判の日)を己の背後に打ち捨てる。
28.われらが彼らを創り、彼らの(体の各部の)連繋(れんけい)を頑丈にしたのである。それでもしわれらが望んだなら、彼らを同類のものと交代に取り替えたであろう。
29.まことに、これ(クルアーンの章や節)は訓戒である。それゆえ、(救済を)望む者があれば己の主への道を取る(が良い)。
30.だが、おまえたちは、アッラーが望み給うたのでなければ(アッラーへの服従を)望むことはない。まことにアッラーはよく知り給う英知ある御方であらせられた。
31.彼(アッラー)は御望みの者を彼の御慈悲のうちに入れ給う。一方、不正な者たちには痛苦の懲罰を彼らに用意し給うた。

 アッラーは楽園における敬虔な者たちの生活や恩恵について描写し給います:
 「彼らはそこで寝台に寄りかかり、そこでは太陽も酷寒もみないで。」

 「الأرائك  アラーイク(寝台)」は、高価な布を垂れ掛けたベッドです。また彼らは楽園で害のある日光を浴びせてくる太陽を見ることも、体を刺す厳しい寒さを経験することもありません。

 「زمهرير ザムハリール」は月を指して使われることもあります。つまり彼らは楽園で太陽も月も見ることがない、ということです。代わりに彼らには楽園の特別な光が与えられるため太陽と月の光は不要となります。

 至福のしるしとして:降りてきた陰、手の近くにある果物:
 「そして彼らの上にはその(楽園の木)陰が間近で、その果物は低く垂れ下げられた。」

 つまり木々の陰は彼らに近く、彼らの上にあり、楽園の果物はそれを食べる人のために準備されているゆえ、誰にもそれをもぎ取ることが困難ではありません。

 また、敬虔な者たちに、高級な器とコップが差し出されます。その中に大変おいしい飲み物が入れられます:
 「そして彼らの周りには銀の器とギヤマン(ガラス製品の古風な呼び名)のコップが回され、(つまり)銀のギヤマンで、彼ら(召使の酌人たち)は適量を計り取る。」

 「آنية アーニヤ」とは食べ物を入れる銀製の器です。「أكواب アクワーブ」は取手のないコップです。このコップは「قواريرカワーリール」ですが、その単数形カールーラとは飲料用のガラス製の入れ物です。楽園のそれは銀製にもかかわらず、ガラスの透明性と銀の白さを持ち合わせています。「適量を計り取る」は、酌人たちは飲料を、飲む者の欲する量以上にも以下にも計り取らないという意味です。

 そしてアッラーは、敬虔な者たちが飲む飲み物について仰せになります:
 「そして彼ら(敬虔な者たち)はそこ(楽園)で酒杯で(酒を)注がれるが、その混ぜ物はショウガである。(つまりショウガとは)サルサビールと名付けられたそこ(楽園)にある泉(の水)である。」

 飲み物で満たされたコップはショウガで混ぜられますが、アラブでは好んでショウガが使用されます。そしてこのコップはサルサビールと名付けられた泉の水で満たされます。その強い甘さとのど越しの良さがこの名前の由来です。

 至福の追加として、この器やコップを運んでいる容姿の美しい、年齢が変わることのない少年たちの存在です。彼らがあちこちにいる様子はちょうど撒き散らされた真珠のようです:
 「そして彼らの周りには永遠の少年たちが回る。お前が彼らを見たなら、撒き散らされた真珠かと想ったであろう。」

 アッラーはこの至福を大まかに描写し給います:
 「(そこに)至福と広大な王権を見たであろう。」

 つまり、楽園で視線をあちらの方に向けたなら、表現できないほどの至福と、魂が休息し幸福になるために必要な全てに充分な大きな王権を見るでしょう、という意味です。

 アッラーは敬虔な者たちが着る衣服と装飾品について述べ給います:
 「彼ら(敬虔な者たち)の上には緑の錦と緞子(どんす)の服があり、銀の腕輪で飾られ、彼らには彼らの主が清らかな飲み物を飲ませ給う。」

 彼らの身体を薄い絹地でできた緑色の衣服である「سندس スンドゥス」と、「إستبرق イスタブラク」と言われる厚めの絹地の衣服が覆います。また彼らは銀製の腕輪を身に着け、そして「彼らの主が清らかな飲み物を飲ませ給う。」それはあらゆる汚れと害から遠ざけられた純正な飲み物です。

 そして、敬虔な者たちに光栄を与える主の呼びかけが続きます:
 「「まことに、これがおまえたちへの報いであり、おまえたちの努力は厚く報いられた」(と彼らに言われた)。」

 なんとこの呼びかけが素晴らしく、信仰厚き人たちにとって偉大な喜びであることでしょう。なぜなら主が彼らに呼びかけ給うという事実は彼らにとって最大の幸福であるからです。彼らに対する呼びかけの中に、万物の主の満足と親愛を感じ取っているのです。彼らの行為はアッラーにより感謝されるものであったため、アッラーは彼らに来世の至福を褒賞として与え給いました。

 イスラーム宣教の初期、マッカの不信仰者たちは預言者(祝福と平安あれ)の宣教活動の撃退を試みて、時に危害を彼に加え、また時に富や権力で活動から逸らせようとしました。そのため次に続く節がこの立場を扱っているのが分かります:

 「まことにわれら、われらこそがおまえの上にクルアーンを降示として降した。それゆえ、おまえの主の裁定に耐え、彼らのうちの邪な者にも忘恩の不信仰者にも従ってはならない。」ムハンマドよ、至高なるアッラーはおまえにクルアーンを英知に基づいて分けて啓示した。だからこそおまえに敵対する者たちにおけるアッラーの裁定と英知に忍耐し、おまえを宣教活動の道から外させようと望む者たちの誰にも従ってはいけない。彼らは罪に深く浸っているか、不信仰の中に溺れている。

 任務が重かったため、助けが必要でした。ここでアッラーより、助けがあることが示されます。アッラーに避難場を求めること、彼を多く思い起こす(ズィクル)こと、礼拝を遵守することです。アッラーは仰せになります:

 「そして、おまえの主の御名を朝に夕に唱えよ。そして、夜のうちも彼に跪拝し、夜に長く、彼を賛美(礼拝)せよ。」

 「ذكر الله ズィクルッラー」の意味するところがアッラーの御名を心と舌で常に唱えることであったり、「بكرة ブクラタン(朝)」という言葉の登場のため、ファジュルの礼拝をすることであるとも取れます。「أصيلا アスィーラー(夕)」昼の真ん中以降つまりズフルとアスルの礼拝を指します。「夜のうちも彼に跪拝し」はマグリブとイシャーの礼拝を指します。「夜に長く、彼を賛美(礼拝)せよ」夜中にするタハッジュドの礼拝を指します。

 そしてクルアーンは不信仰者の頑固の原因が現世への愛と来世の存在の否定であることを解明します:
 「まことにこれらの者(不信仰者)は目先のもの(現世)を好み、重大な日(最後の審判の日)を己の背後に打ち捨てる。」

 彼ら不信仰者たちは「عاجلة アージラ(目先のもの)」を好みますが、これは現世を指します。現世がこの名で付けられたところに人生の短さ、日々が早く過ぎ去ってしまうことが想起されます。そして人々は現世の楽しみや欲望を得ようと急ぎます。また同時に、「己の背後に打ち捨てる」背後に残していくという意味ですが、つまり信仰の放棄、来世で自分らを救ってくれる善行の実践の放棄を指します。「重大な日」最後の審判の日を指します。その日の厳しさと恐ろしさから重大という表現で描写されました。

信じ続けないでいるならば…と不信仰者たちに向けられた警告の言葉が次の聖句に続きます:
「われらが彼らを創り、彼らの(体の各部の)連繋(れんけい)を頑丈にしたのである。それでもしわれらが望んだなら、彼らを同類のものと交代に取り替えたであろう。」

自分たちの力に自惚れている多神教徒らは知るがいい:アッラーが彼らを作り給うたことを。「彼らの(体の各部の)連繋(れんけい)を頑丈にしたのである」つまりアッラーは御自身の被造物を頑丈に作り給うたということです。彼らを滅ぼし、彼らに代わって主を崇めて背くことのない民を出現させることはアッラーには可能なことなのです。

続いて、この章が、導きと信仰と善行を主の御満足に到達させるための手段として望む者にとって訓戒であることをアッラーが解明し給います:
「まことに、これ(クルアーンの章や節)は訓戒である。それゆえ、(救済を)望む者があれば己の主への道を取る(が良い)。だが、おまえたちは、アッラーが望み給うたのでなければ(アッラーへの服従を)望むことはない。まことにアッラーはよく知り給う英知ある御方であらせられた。」

つまり、この章は思い起こし、教えを得た者にとって訓戒であるということです。「それゆえ、(救済を)望む者があれば己の主への道を取る(が良い)」アッラーへの道を取るとは、アッラーが人間に課した義務を行い、禁止と命令において彼に従うことで彼に近づこうとすることを意味します。代わって次の聖句:「だが、おまえたちは、アッラーが望み給うたのでなければ(アッラーへの服従を)望むことはない」ここに強制の意味合いはありません。人間が導きの道を取ると同時に、すべてを包囲するアッラーの御力の存在と包括的な彼の御意志を信じなければならないという意味があります。そのため導きの道を自分が取ったのは自分に徳があるからと位置付けるだけではなく、アッラーに謙遜し、また導いてくださったことに感謝すべきです。またこの聖句には、世界を覆っているアッラーの御力と彼の御希望なしでは何も起きないという彼の包括的な御意志の前に、自分が目指すべきものとは何かを知りなさいとの警告が含まれています。

最後の聖句:
「彼(アッラー)は御望みの者を彼の御慈悲のうちに入れ給う。一方、不正な者たちには痛苦の懲罰を彼らに用意し給うた。」

至高なるアッラーは彼の御意志、親切、そして信徒らの相応しさに応じて彼らを楽園に入れ給います。また同じように、罪深き嘘つき呼ばわりする者たちを罰の場、つまり地獄に入れ給います。

(参考文献:ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ タバーラカ/アフィーフ・アブドゥ=アル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーンP155~160)

76章解説【1】

2012年11月22日 | ジュズ・タバーラカ解説
بسم الله الرحمن الرحيم
1. 人間には、言及されるようなものでなかった時期が来た(経過した)ではないか。
2. まことに、われらは人間を―われらは彼を試す―混ぜ合わされた精液から創り、そして彼に聴覚と視覚を成した。
3. まことに、われらは彼を道に導いた、感謝する者として、あるいは忘恩の輩(不信仰者)として。
4. まことに、われらは不信仰者たちに鎖と枷と烈火を用意した。
5. まことに、敬虔な者たちは酒杯から飲むが、その混ぜものは樟脳であった。
6. アッラーのしもべたちがそこで飲む泉、彼らはそれをこんこんと(易々と)湧き出でさせる。
7. 彼らは誓願を果たし、その害悪が広がる日(最後の審判の日)を恐れ、
8. また、貧しい者や孤児や捕虜に食べさせる、それ(食料)への愛着に抗って。
9. 「われらがあなたがたに食べさせるのはアッラーの御顔のためにほかならず、あなたがたからは報酬も謝恩も望みません」。
10. 「まことに、われらはわれらの主から、顰面(しかみづら)に、(苦渋と恐怖による)歪面(ゆがみづら)になる日を恐れるのです」。
11. それで、アッラーは彼らをその日の害悪から守り、彼らに輝きと喜びを投げ与え(授け)給う。
12. そして、彼らが耐えたことに対し、楽園と絹で彼らに報い給う。

 全体的にこの章は、来世における無罪者たちが受ける恩恵について話しています。

 まず、アッラーによって無から存在させられた人間に対するかれの深き恵について章が始まります:
 「人間には、言及されるようなものでなかった時期が来た(経過した)ではないか。」

 冒頭に出た疑問文は、事実を強調するためのほかなりません。疑問詞「هل」の意味は、確実に、です。例えば:あの人が何をしたか見たか、という疑問文。あなたが、彼が確実にあの人が何をしたか見たのを知っているにもかかわらずしている質問です。これはあなたが彼に質問するための文章ではなく、事実を強調するための文章なのです。またこの節にある「人間」はアーダムの子孫です。人間に魂が吹き込まれる前には無という名もない期間が過ぎていたことを指しています。

 この章の冒頭は、かつて自分がこの世界に存在していなかった後に存在させられたことについて人間に深く考えるよう促しています。自分が存在させられたという事実は心にアッラーの御力に対する感謝の気持ちを起こさないでしょうか。かの御力は人間を無から存在させて、「言及されるようなもの」としたのです。

 実にこの冒頭の言葉は力強い訴えであり、人間に対して、自分自身に帰って自分自身の真実を発見せよと導く叫びです。その時人間は:創造という恩恵を与え、存在を与えた存在こそが、崇められ、感謝されるに相応しいことを知るのです。

 続く節は、人間がどのように創造され、存在されたかを人間に思い出させます:
 「まことに、われらは人間を―われらは彼を試す―混ぜ合わされた精液から創り、そして彼に聴覚と視覚を成した。」

 「أمشاج」は混ぜ合わされたものという意味ですが、アッラーは男性の精液である「نطفة」を「أمشاج」と表現し給うたのは、精液が含んでいる様々な要素を注目させるためです。

 至高なるアッラーは、以上の過程を経た人間を無駄に、または遊びで創り給うたのではありません。「われらは彼を試す」との御言葉で解明し給うた通り、そこには叡智と目的があるのです。「われらは彼を試す」とはつまり、アッラーが諸預言者に啓示し給うた聖法に沿って人間を試す、または様々な恩恵や剥奪や災難で人間を試すという意味です。そうすることで人間の本性が現われ、その人間の正直さが彼の嘘から判明します。

 アッラーによる人間に対する試練は、理性と認識が基づくゆえ、アッラーは人間に聴力、視力を与え給うて物事を理解させ、選択権を与え、選択の度に応じた報いを下し給います。アッラーは仰せになっています:「そして彼に聴覚と視覚を成した」聴覚と視覚は人間の生活と思考の支えであり、人間に対する最大の恩恵です。もし人々が、耳が聞こえず、目の見えない状態で生まれていたとしたら、与えられていた場合と違って、理性も認識力もなく、その二つなしでは生きて行けなかったことでしょう。

 聴覚と視覚という恩恵についての言及の傍で、アッラーは人間に導きと迷いの道を解明し給いました:
 「まことに、われらは彼を道に導いた、感謝する者として、あるいは忘恩の輩(不信仰者)として」

 「われらは彼を道に導いた」:つまり彼に善と悪の道を示し、迷いから導き、諸使徒や彼らに啓示した聖法を介して何が正しくて何が間違っているかを解明した、ということです。アッラーは二つの道を示し給うた後に、そのどちらを選ぶかを人間に選択する自由を与え給いました。導きを選べば、アッラーが自分に与え給うた恩恵に感謝するしもべとなり、アッラーに仕え、善の道を歩くことになり、アッラーの御満悦を得られることになります。代わって迷いを選ぶと、アッラーが与え給うた恩恵を忘れる者となり、罪と自惚れの道を歩くこととなり、アッラーの怒りと罰が相応しくなります。

 続いてアッラーは、罪の道を歩いている者たち用に来世に準備し給うているものを解明し給います:
 「まことに、われらは不信仰者たちに鎖と枷と烈火を用意した。」

 アッラーは不信仰者に次の3つを準備し給うています:足にかけられる鎖、罪人たちを縛り上げる特別な枷、枷は通常、手にかけられます。そして燃え上がり、それによって人々が苦しむこととなる烈火です。

 そしてアッラーは、導きの道を歩む人たちに準備し給うている至福の数々を解明し給います。アッラーは彼らを「الأبرار」敬虔な者たちと呼び給うています:
 「まことに、敬虔な者たちは酒杯から飲むが、その混ぜものは樟脳であった。アッラーのしもべたちがそこで飲む泉、彼らはそれをこんこんと(易々と)湧き出でさせる。」

 「الأبرار」は正直さと敬虔さとアッラーに対する誠実さと被造物に対する善き心構えを集結させた人である「البارّ」の複数形です。これら敬虔な者たちは樟脳の混ざった飲料を飲みますが、樟脳とはインドや中国の木から取れる名の知れた香料で、アラブでは高級な香料の一つと捉えられています。アラブ人はこの樟脳を飲み物に混ぜて楽しみます。または、この酒杯を飲んだ者は樟脳のような芳香を見つけるという意味ともとれます。彼らはきらめく泉からくまれる水を飲みますが、その泉は豊かなため枯渇してしまうことを恐れる必要はありません。彼らは望むままに泉を湧き出でさせます。また:彼らはその泉の水を望む場所に移動出来る、つまり水道のような形であるとも言われます。もちろん、アッラーが最も御存知です。

 この節は信仰者を二部に分けたと言えるでしょう:敬虔な者たち、アッラーのしもべたち。敬虔さは彼らの行為の特徴を指し、アッラーのしもべたちは彼らがどのくらいアッラーに近付いているかの特徴です。

 また敬虔な者たちはかつて以下の二つの特徴を持っていました:
 「彼らは誓願を果たし、その害悪が広がる日(最後の審判の日)を恐れ、」

 誓願(النذر)とは:義務ではない服従行為を自らに課すことをいいます。アッラーのためにサダカ、斎戒、ハッジを自らに課します、という感じです。そして自分の誓願をアッラーに叶えて欲しいことに関連付けます。アッラーが私の病を治してくださった折には、私はアッラーのために~~を自らに課します、という形をとります。誓願を果たすことには:アッラーが人間に義務とし給うた事柄を行うことも含まれます。つまり全ての服従行為がその中に入ります。また罪の誓願は果たすべきではないことに注意が必要です。

 「その害悪が広がる日を恐れ」の意味するところは:最後の審判の日です。その日への恐怖はアッラーへの服従行為や善行、罪からの回避を活発にさせます。「その害悪が広がる日」つまりその害と危険はあらゆる場に広まるという意味です。

 至高なるアッラーが述べ給うた敬虔な者たちのいくつかの特徴について:
 「また、貧しい者や孤児や捕虜に食べさせる、それ(食料)への愛着に抗って。」

 つまり彼らは食事を提供しますが、それは彼らの好む、食べたいと思っているものなのです。また自分たちもそれをとても必要としています。つまり自分たちが必要とし、好む食べ物を他の必要としている人たちに優先します。しかも普段は、その食べ物が上等でないと好まないようなものです。この意味を持つ節がクルアーンの別箇所に出てきます:「おまえたちはおまえたちの愛するものから(善に)費やすまで忠義を得ることは決してない。」(イムラーン家章92節)この心構えに基づいて行われる善行は、貧者を敬うよう富者に求めます。また両者は平等であるという気持ちを植え付けることで、富者が自分だけが良いものを食べて、貧者には良くないものを施すということが起きなくなります。

 アッラーによって親切が割り当てられたのが、「貧しい者」です:自分にも家族にも必要なお金をまったく持っていない人です。

 「孤児」は:父親を亡くした貧しく幼い、成人に達していない子供を指します。孤児を養うとは:孤児たちを食べさせ、学習させ、教育し、監督する機関を作ることをいいます。こういった形で孤児たちは社会の善良な一員となって成人します。代わって孤児を軽視することは悪徳と罪の泥沼に放り込むことになります。

 「捕虜」は:イスラーム軍が捕まえた敵軍の人間か、イスラーム軍に降参した者です。イスラームは捕虜の命を守り、彼の人間性に対する敬いから食料提供することを命じています。捕虜に快適な環境を提供することも上記に当てはまります。このような人道的システムから、当時の捕虜を原因に人々が暗殺し合って捕虜に酷い仕打ちが行われていた時代における捕虜に対するイスラームの慈悲性が現われています。またイスラームは、国際連合が制定した人権の一つである、捕虜には適切に接し、食事を提供するという決まり事を先に決めてもいました。

 またアッラーは敬虔な者たちの精神状態と、彼らを親切に駆り立てる原因を描写し給います:
「われらがあなたがたに食べさせるのはアッラーの御顔のためにほかならず、あなたがたからは報酬も謝恩も望みません。まことに、われらはわれらの主から、顰面に、(苦渋と恐怖による)歪面になる日を恐れるのです」。

 彼らは2つの理由から親切に接し、食べさせています。1.アッラーの御満悦とお近づきを求めて。2.かの恐ろしい日を恐れて。アッラーは審判の日を「顰面」と表現し給うたのはその日の厳しさを表すためです。またはその日になると被造物の顔が心配のしすぎから顰面になるためです。

 続いて審判の日には恐怖の代わりに安心を、顰面の代わりに喜びを与え給うことでアッラーは敬虔な者たちを安心させ給います:
 「それで、アッラーは彼らをその日の害悪から守り、彼らに輝きと喜びを投げ与え(授け)給う。」

 アッラーは審判の日の罰から彼らを守り給います。「輝き」は顔に現れる善きしるしと輝きです。そしてアッラーから享受された偉大な報奨のために心は喜びます。

 まだ敬虔な者たちと彼らが受ける至福の描写が続きます:
 「そして、彼らが耐えたことに対し、楽園と絹で彼らに報い給う。」

 アッラーが敬虔な者たちを忍耐で描写し、忍耐者たちにアッラーが準備し給うている褒美の説明には、忍耐の称讃とアッラーの御許における忍耐の位置の解明があります。またその中には人生の難局、悲しみと戦う忍耐者に対する吉報があります。

 忍耐は美徳の基本であり、地上にあらわれる善の源です。自我の要求に勝つこと、有害な欲望を抑制すること、導きに沿った道を歩むことには忍耐が必要です。クルアーンは忍耐の報奨を解明しています:「楽園と絹」修辞力に富んだ表現で敬虔な者たちの至福を2単語で語っています:食べ物が美味しいという気持ち、衣服が心地よいという気持ちです。アッラーは「楽園」という御言葉で、様々な美味しそうな果実といった敬虔な者たちが楽しむものを指しています。そして魔法がかかったような美しい景色、誘惑的な緑の茂み、輝くテーブルなどもあります。「絹」は、彼らが着て楽しむ、絹の衣服を指します。

(参考文献:ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ タバーラカ/アフィーフ・アブドゥ=アル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーンP147~152)

77章解説【2】

2012年06月19日 | ジュズ・タバーラカ解説
بسم الله الرحمن الرحيم
25.われらは大地を把持するものとなしたのではないか、
26.生きた者を、そして、死んだ者を(把持するものと)。
27.そして、われらはそこに聳え立つ山脈をなし、おまえたちに甘美な水を飲ませたではないか。
28.災いあれ、その日、嘘と否定した者たちに。
29.「おまえたちが嘘と否定していたもの(火獄)に赴け」。
30.「三つの枝のある陰に赴け」。
31.「(遮る)翳がなく、炎に対して役立たない(陰に赴け)」。
32.まことに、それ(火獄、あるいは炎)は城のような火花を放ち、
33.ちょうどそれ(火花)は黄褐色の駱駝たちのようである。
34.災いあれ、その日、嘘と否定した者たちに。
35.これは、彼ら(不信仰者)が話さない日。
36.彼らが(弁明を)許可されず、また申し開きすることもない。
37.災いあれ、その日、嘘と否定した者たちに。
38.これが決定の日であり、われらはおまえたちと昔の者たち(今昔の不信仰者)を集める。
39.もしおまえたちに策略があったなら、われに対し策を弄(ろう)してみよ。
40.災いあれ、その日、嘘と否定した者たちに。
41.まことに、畏れ身を守る者たちは(木)陰と泉にいて、
42.そして、彼らの望む果物に(囲まれている)。
43.「おまえたちがなしてきたことうゆえに楽しく食べ、飲むがいい」。
44.まことにわれらはこのように善を尽くした者たちに報いる。
45.災いあれ、その日、嘘と否定した者たちに。
46.「おまえたちは僅かの間、食べ、楽しむがよい。まことにおまえたちは罪人である」。
47.災いあれ、その日、嘘と否定した者たちに。
48.また、「おまえたちは屈礼(礼拝)せよ」、と言われても、彼らは屈礼しない。
49.災いあれ、その日、嘘と否定した者たちに。
50.その(クルアーンの)後、彼らはどんな言葉(啓典)を信じると言うのか。

 続いてクルアーンは大地やそこに置き給うた山々や水に私たちの目を向けさせ給います:

 「われらは大地を把持するものとなしたのではないか、生きた者を、そして、死んだ者を(把持するものと)。そして、われらはそこに聳え立つ山脈をなし、おまえたちに甘美な水を飲ませたではないか。災いあれ、その日、嘘と否定した者たちに。」

 至高なるアッラーは大地をしっかりと持つものとなし給いました。大地はその中に死んだものたちを抱き、その外側に生きるものたちを抱きます。この生物を抱擁する、という表現は今日では引力と言われます。つまり大地がその表面にある、人間、動物などすべてのものを引き付ける力のことです。引力がなかったら、毎日起きる大地の迅速な変動のためにすべてのものが宇宙空間に飛んでいってしまったことでしょう。そのため大地は自身に生き物を引き寄せて、そこから散らばっていかないようにしているのです。

 またアッラーが人間に与え給うた恩恵の一つに、聳え立つ山々があります。「そして、われらはそこに聳え立つ山脈をなし」この御言葉の直後に何と仰せになったかに注目してください:「おまえたちに甘美な水を飲ませたではないか」水と山に関係があることを指しています。つまり山々はそこに降った雪を取りこんで人間が飲むために保存し、泉となって甘い水を湧き出させるのです。

 そして続きのアーヤはアッラーの約束の日を嘘であるとした者たちを待ちうけている恐ろしい結末について語ります:

 「「おまえたちが嘘と否定していたもの(火獄)に赴け」。「三つの枝のある陰に赴け」。「(遮る)翳がなく、炎に対して役立たない(陰に赴け)」。まことに、それ(火獄、あるいは炎)は城のような火花を放ち、ちょうどそれ(火花)は黄褐色の駱駝たちのようである。災いあれ、その日、嘘と否定した者たちに。」

 不信仰者たちは次のように言われることになります:おまえたちが嘘だと言っていた地獄の罰、今おまえたちが目の前に見ているそれに向かいなさい、と。「三つの枝のある陰に赴け」陰とは、地獄の煙で、その火の激しさのために三つに分かれています。「(遮る)翳がなく、炎に対して役立たない(陰に赴け)」。普通の陰のように、地獄の陰はその下にあるものに翳を与えず、また激しい暑さからも守ってくれません。また各方面から襲ってくる地獄の舌からも守ってくれません。ここでアッラーが罰を陰と呼び給うたのは、嘘つき呼ばわりしてきた者たちを嘲笑するためです。「まことに、それ(火獄、あるいは炎)は城のような火花を放ち」つまりこの類の火から城のような火花が散っていくということですが、城という言葉は、聳え立つような邸宅を指すとともに、石で出来ている家や、ナツメヤシや木の根元を指します。「ちょうどそれ(火花)は黄褐色の駱駝たちのようである」黄色に近い黒褐色の駱駝です。

 クルアーンは火から離れる火花を城やナツメヤシや木の根元に似せ、また限りのない広がりや枝分かれする様子を黄色の駱駝に似せました。クルアーンの諸節が以上のような類似させる表現を使うとき、アラビア語精神に則って、人々が慣れ親しんだ表現で語りかけます。かつてアラブの村々は各方々に散らばっており、あちこちに黄色の駱駝たちが存在していました。そこでクルアーンは業火の恐ろしさをその火花で表現しようとしたことで、火花は業火にぴったりの表現となりました。

 クルアーンは続いて嘘つき呼ばわりする者たちの甦りの日における精神的状態を描写します:

 「これは、彼ら(不信仰者)が話さない日。彼らが(弁明を)許可されず、また申し開きすることもない。災いあれ、その日、嘘と否定した者たちに。」

 甦りの日には、その日の恐ろしさのために、嘘つき呼ばわりしていた者たちは口を開きません。また話そうともしませんし、過去の行為を謝ろうとしてもそれは許可されません。なぜなら、アッラーが彼らに善の道を示し給うた後に迷いの道を選び給うた今、もう言い訳をする時間ではなくなっているためです。

 続いて甦りの日がしもべ間の裁きの日であることが解明されます。その日、策略は役立ちません:

 「これが決定の日であり、われらはおまえたちと昔の者たち(今昔の不信仰者)を集める。もしおまえたちに策略があったなら、われに対し策を弄(ろう)してみよ。災いあれ、その日、嘘と否定した者たちに。」

 甦りの日は決定的な裁定が下される日です。アッラーはその日、真理をもって被造物の間を裁き給います。またその日にアッラーは預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)を嘘つき呼ばわりしていた者たちをその共同体から集め給いますが、過去の共同体の中からも同様に、自分らの預言者を嘘つき呼ばわりしていた者たちがその行為の清算のために集められます:「もしおまえたちに策略があったなら、われに対し策を弄(ろう)してみよ」つまりおまえたちにあの日の恐怖とアッラーの罰から逃れるための策略とアイディアがあるなら、アッラーの激しい一撃と復讐から身を守ってみるがいい、しかし、残念なことにその日、策略は役立たないのだ、という意味です。本当にアッラーの罰は彼らの上に襲いかかるのです。

 続いてアッラーが篤信者たちのために準備し給うている褒美の描写に移ります:
 「まことに、畏れ身を守る者たちは(木)陰と泉にいて、そして、彼らの望む果物に(囲まれている)。「おまえたちがなしてきたことうゆえに楽しく食べ、飲むがいい」。まことにわれらはこのように善を尽くした者たちに報いる。災いあれ、その日、嘘と否定した者たちに。」

 生い茂る木々が篤信者たちに陰を作ります。彼らは安楽と至福の中にあり、泉の近くにいる彼らは好きな時にそこから飲めます。また彼らの望む果物もあります。このような恩恵に浴している中に、上方から呼びかけの声が聞こえてきます:「おまえたちがなしてきたことうゆえに楽しく食べ、飲むがいい」この言葉は、アッラーが間に何も介さずに直接語られるものか、天使が名誉を与えるために投げかける言葉であると考えられます。この直後にアッラーは仰せになりました:「われらはこのように善を尽くした者たちに報いる」つまり、アッラーが篤信者たちに先ほど数え上げた恩恵で報い給うように、全ての善行者、アッラーの禁止事項を避け、かれの命令に従った者たちによく報い給う、という意味です。

 続いて、アーヤは享楽に耽っている嘘つき呼ばわりしていた者たちに再度呼びかけます:
 「「おまえたちは僅かの間、食べ、楽しむがよい。まことにおまえたちは罪人である」。災いあれ、その日、嘘と否定した者たちに。」

 至高なるアッラーは彼らに仰せになります:現世で好きにいろいろなものを食べ、楽しみなさい、この楽しみは短く、続かない。以上が人生の重要事である者は、その目から道徳心や罪からの浄化の精神が払拭されてしまいます。そのため、彼らは罰が相応しい罪人となるのです。

 最後に、アッラーはこの章を嘘つき呼ばわりしていた者たちを責める言葉で締めくくり給います:
 「また、「おまえたちは屈礼(礼拝)せよ」、と言われても、彼らは屈礼しない。災いあれ、その日、嘘と否定した者たちに。その(クルアーンの)後、彼らはどんな言葉(啓典)を信じると言うのか。」屈礼はイスラームに服従することか、礼拝を指しますが、礼拝の基幹の一つが屈礼つまり深い礼だからです。嘘つき呼ばわりしていた者たちにムハンマドに啓示されたものを信仰し、アッラーに礼拝しなさいと言われても彼らは従わず、応じません。

 これらすべての明証があっても信仰しない彼らは、今後もどんな明証があっても信仰しないでしょう。「その(クルアーンの)後、彼らはどんな言葉(啓典)を信じると言うのか。」クルアーン以上の包括した導き、強い明証を持つ啓典も言葉も存在しません。

(参考文献:ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ タバーラカ/アフィーフ・アブドゥ=アル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーンP168~172)

77章解説【1】

2012年05月15日 | ジュズ・タバーラカ解説
بسم الله الرحمن الرحيم
1. 次々と送られるものたち(風)にかけて、
2. そして激しく吹き荒れる暴風に(かけて)、
3. また(雲と雨を)撒き散らすものたち(風あるいは天使)に(かけて)、
4. そして(善悪を)分かち区別するものたち(啓典を啓示する天使)に(かけて)、
5. そして訓戒を投下する者たち(天使)に(かけて)、
6. 免責事由として、または警告として、
7. まことに、おまえたちに約束されたこと(復活)は起こるものである。
8. そして星々が消された時、
9. また天が裂けた時、
10. また山々が粉砕(ふんさい)された時、
11. また使徒たちの定めの時が到来した時、
12. 「いかなる日までそれら(使徒たち)は遅延(ちえん)されたか」。
13. 「決定(最後の審判)の日までである」。
14. そして決定の日が何であるかを、何がおまえに分からせたか。
15. 災いあれ、その日、嘘と否定した者たちに。
16. 昔の者たちをわれらは滅ぼさなかったか。
17. それから、われらは彼らに(彼ら同様の)後の者たちを続かせ(滅ぼし)た。
18. このようにわれらは罪人たちに為す。
19. 災いあれ、その日、嘘と否定した者たちに。
20. われらはおまえたちを卑しい水(精液)から創ったのではないか。
21. それから、われらはそれを安定した定着地(子宮)に置いたではないか、
22. 定められた期間まで。
23. それでわれらは定めた。(われらの)なんと良き定める者であることか。
24. 災いあれ、その日、嘘と否定した者たちに。


 この章の内容は、以下のように要約されます:1.審判の日とその恐怖の発生の強調、2.審判の日の到来を嘘であると言う者たちへの脅迫、3.その脅迫が10回に渡って言及され、篤信者たちが享受することになる安楽という吉報も共に述べられていること、です。

 至高なるアッラーは、人々に約束された審判の日の到来が確実で疑いのないことを前提に、章の始まりの部分で、諸々の事柄にかけて誓いの言葉を述べ給います。

 「次々と送られるものたち(風)にかけて、そして激しく吹き荒れる暴風に(かけて)、また(雲と雨を)撒き散らすものたち(風あるいは天使)に(かけて)、そして(善悪を)分かち区別するものたち(啓典を啓示する天使)に(かけて)、そして訓戒を投下する者たち(天使)に(かけて)、免責事由として、または警告として、まことに、おまえたちに約束されたこと(復活)は起こるものである。」

 誓われた諸々の事柄が何を意味しているかにおいて、解説者たちの意見は相違しています。ここではその中からいくつかの意見を取り上げておきます:「次々と送られるものたちにかけて」次々に送られる風、またはムハンマドに次々に投下されたクルアーンの各節にかけた誓い、またはアッラーの命令と禁止のために送られる天使であると言われています。「そして激しく吹き荒れる暴風に(かけて)」吹かれる様子がとても激しい風、または心をその警告によって恐れさせるクルアーンの諸節であると言われます。「また(雲と雨を)撒き散らすものたち(風あるいは天使)に(かけて)」雨を降らすために雲を追い払う風、または人々の心の中に導きと英知を齎すクルアーンの諸節であると言われます。「そして(善悪を)分かち区別するものたち(啓典を啓示する天使)に(かけて)」正と不正を分けるクルアーンの諸節である、または雲を分ける風とも言われます。「そして訓戒を投下する者たち(天使)に(かけて)」アッラーの啓示をかれの人間の使徒たちに伝える天使たちと言われます。「免責事由として」アッラーの御前で言い訳が通用する可能性が残らないよう、被造物の免責事由を消し去るためと言われます。「または警告として」罪を行う際の罰という脅しと警告のため、と言われます。

 しかし至高なるアッラーは何に関して誓いの御言葉を並べ給うたのでしょうか?それは、多神教徒らに約束された審判の日、報奨、罰といったものらが確実に起こることに関しての誓いでした。

 クルアーンの諸節が、審判の日が疑いなく起きることを強調したことは、その日に見られることになる様々な恐ろしい光景を思い浮かばせるのに適切だったのです:

 「そして星々が消された時、また天が裂けた時、また山々が粉砕(ふんさい)された時、また使徒たちの定めの時が到来した時、「いかなる日までそれら(使徒たち)は遅延(ちえん)されたか」。「決定(最後の審判)の日までである」。そして決定の日が何であるかを、何がおまえに分からせたか。」

 星々の光が消し去られ、空の天体が裂け、山々は根元から引っこ抜かれてばらばらにされ、使徒たちは自分らの共同体に対して証言するために顔を出す時間が決められます。しかしこれらの重要な事柄はいつの日にまで延ばされたのでしょうか?「決定の日までである」つまり決定が実行される日です。その時に、アッラーは被造物の間を分け給うのですが、善行者にはその善行に報い給い、悪行者にはその悪行に報い給います。「そして決定の日が何であるかを、何がおまえに分からせたか。」事の重要さと恐ろしさを強調するために疑問文となっています。つまり人間よ、何がその日の恐ろしさや厳しさの程度が如何ほどであるかを分からせたのか、その日の真実は頭脳が理解できる以上に大きなことだ、ということです。

 諸節が審判の日の恐ろしい光景について解明した後、まるである質問者が次のように質問しているようです:その日の到来を嘘だと言っていた者たちはどうなるのか?答ははっきりとした形をとりつつ早急に出されました:「災いあれ、その日、嘘と否定した者たちに。」報復の日とムハンマドの預言者性を嘘と否定した者たちに死滅あれ、ということです。この節は10回繰り返されていますが、アッラーは大地に起こる危険、共同体の歴史、人間の発生、審判の日における人間の帰り処は至福となるか罰となるかといった10の光景に関する言及の直後に仰せになりました。アッラーは人々に至福について思い起こさせたりかれの怒りで怖がらせ給う際、これらの至福を軽視し嘘であると否定する者たちに災いあるようにとの言葉を以て想起と怖がらせを強調し給いました。以上は彼らが継続して嘘であると否定していることに対する叱責となります。また一つの文章を繰り返したり、一つの話題の中で何度も使うことはアラブでは一般的で、講義や詩では習慣化されたことです。

 続いてクルアーンは、使徒に背いたために滅ぼされた過去の共同体の行く末について私たちに熟考させます:

 「昔の者たちをわれらは滅ぼさなかったか。それから、われらは彼らに(彼ら同様の)後の者たちを続かせ(滅ぼし)た。このようにわれらは罪人たちに為す。災いあれ、その日、嘘と否定した者たちに。」

 アッラーは仰せになります:ヌーフ、アード、サムードなどの民のように、わたしの使徒を嘘つき呼ばわりし、わたしの諸印を否定した過去の共同体をわたしは滅ぼさなかったか。そして彼らの後に来た他の者たちの中で彼らのように嘘つき呼ばわりし、罪を犯したイブラーヒームの民やルートの民やマドヤンの民も。われらが過去の共同体に為したことは、彼らと同じように真実から背を向けて度を超すような道を辿る他のすべての共同体にも為すのである。

 続いてアッラーは、アッラーの御力を証明する人間の創造の原点へと私たちの意識を向けさせ給います。その御力は人間の死後に生き返らせることにおいて決して無能ではありません:

 「われらはおまえたちを卑しい水(精液)から創ったのではないか。それから、われらはそれを安定した定着地(子宮)に置いたではないか、定められた期間まで。定められた期間まで。それでわれらは定めた。(われらの)なんと良き定める者であることか。災いあれ、その日、嘘と否定した者たちに。」

 卑しい水とは、男性の精子を指します。アッラーはそれを卑しいものつまり少なくて弱いものという意味で描写し給いました。この水は数百万の精子を含んでいて、その中の一つが卵子に辿り着いて、胎児の始めの姿になります。「それから、われらはそれを安定した定着地(子宮)に置いたではないか」つまりアッラーはそれを独立した安定した場所、つまり子宮に置いたということです。コントロールされた場所での安定や、胎児を腐敗や変化から守る固定されたシステムに照らして、子宮のことをアッラーは「マキーン(定着地)」と非常に繊細に描写し給いました。以上によって受精卵は様々な変化に対応できるための準備をします。また子宮に留まる期間はあらかじめ定められました:「定められた期間まで」そしてその期間を超えることなく完全な容姿を備えた人間として産まれます。その直後にアッラーは仰せになります:「それでわれらは定めた。(われらの)なんと良き定める者であることか」つまり至高なるアッラーは子宮の中で胎児が成長するための期間を定め給うたということです。このような、賞賛され、崇拝されるに相応しい力の持ち主はなんとすばらしいことでしょう。

(参考文献:ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ タバーラカ/アフィーフ・アブドゥ=アル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーンP165~168)