بسم الله الرحمن الرحيم
13.彼らはそこで寝台に寄りかかり、そこでは太陽も酷寒もみないで。
14.そして彼らの上にはその(楽園の木)陰が間近で、その果物は低く垂れ下げられた。
15.そして彼らの周りには銀の器とギヤマンのコップが回され、
16.(つまり)銀のギヤマンで、彼ら(召使の酌人たち)は適量を計り取る。
17.そして彼ら(敬虔な者たち)はそこ(楽園)で酒杯で(酒を)注がれるが、その混ぜ物はショウガである。
18.(つまりショウガとは)サルサビールと名付けられたそこ(楽園)にある泉(の水)である。
19.そして彼らの周りには永遠の少年たちが回る。お前が彼らを見たなら、撒き散らされた真珠かと想ったであろう。
20.(そこに)至福と広大な王権を見たであろう。
21.彼ら(敬虔な者たち)の上には緑の錦と緞子(どんす)の服があり、銀の腕輪で飾られ、彼らには彼らの主が清らかな飲み物を飲ませ給う。
22.「まことに、これがおまえたちへの報いであり、おまえたちの努力は厚く報いられた」(と彼らに言われた)。
23.まことにわれら、われらこそがおまえの上にクルアーンを降示として降した。
24.それゆえ、おまえの主の裁定に耐え、彼らのうちの邪な者にも忘恩の不信仰者にも従ってはならない。
25.そして、おまえの主の御名を朝に夕に唱えよ。
26.そして、夜のうちも彼に跪拝し、夜に長く、彼を賛美(礼拝)せよ。
27.まことにこれらの者(不信仰者)は目先のもの(現世)を好み、重大な日(最後の審判の日)を己の背後に打ち捨てる。
28.われらが彼らを創り、彼らの(体の各部の)連繋(れんけい)を頑丈にしたのである。それでもしわれらが望んだなら、彼らを同類のものと交代に取り替えたであろう。
29.まことに、これ(クルアーンの章や節)は訓戒である。それゆえ、(救済を)望む者があれば己の主への道を取る(が良い)。
30.だが、おまえたちは、アッラーが望み給うたのでなければ(アッラーへの服従を)望むことはない。まことにアッラーはよく知り給う英知ある御方であらせられた。
31.彼(アッラー)は御望みの者を彼の御慈悲のうちに入れ給う。一方、不正な者たちには痛苦の懲罰を彼らに用意し給うた。
アッラーは楽園における敬虔な者たちの生活や恩恵について描写し給います:
「彼らはそこで寝台に寄りかかり、そこでは太陽も酷寒もみないで。」
「الأرائك アラーイク(寝台)」は、高価な布を垂れ掛けたベッドです。また彼らは楽園で害のある日光を浴びせてくる太陽を見ることも、体を刺す厳しい寒さを経験することもありません。
「زمهرير ザムハリール」は月を指して使われることもあります。つまり彼らは楽園で太陽も月も見ることがない、ということです。代わりに彼らには楽園の特別な光が与えられるため太陽と月の光は不要となります。
至福のしるしとして:降りてきた陰、手の近くにある果物:
「そして彼らの上にはその(楽園の木)陰が間近で、その果物は低く垂れ下げられた。」
つまり木々の陰は彼らに近く、彼らの上にあり、楽園の果物はそれを食べる人のために準備されているゆえ、誰にもそれをもぎ取ることが困難ではありません。
また、敬虔な者たちに、高級な器とコップが差し出されます。その中に大変おいしい飲み物が入れられます:
「そして彼らの周りには銀の器とギヤマン(ガラス製品の古風な呼び名)のコップが回され、(つまり)銀のギヤマンで、彼ら(召使の酌人たち)は適量を計り取る。」
「آنية アーニヤ」とは食べ物を入れる銀製の器です。「أكواب アクワーブ」は取手のないコップです。このコップは「قواريرカワーリール」ですが、その単数形カールーラとは飲料用のガラス製の入れ物です。楽園のそれは銀製にもかかわらず、ガラスの透明性と銀の白さを持ち合わせています。「適量を計り取る」は、酌人たちは飲料を、飲む者の欲する量以上にも以下にも計り取らないという意味です。
そしてアッラーは、敬虔な者たちが飲む飲み物について仰せになります:
「そして彼ら(敬虔な者たち)はそこ(楽園)で酒杯で(酒を)注がれるが、その混ぜ物はショウガである。(つまりショウガとは)サルサビールと名付けられたそこ(楽園)にある泉(の水)である。」
飲み物で満たされたコップはショウガで混ぜられますが、アラブでは好んでショウガが使用されます。そしてこのコップはサルサビールと名付けられた泉の水で満たされます。その強い甘さとのど越しの良さがこの名前の由来です。
至福の追加として、この器やコップを運んでいる容姿の美しい、年齢が変わることのない少年たちの存在です。彼らがあちこちにいる様子はちょうど撒き散らされた真珠のようです:
「そして彼らの周りには永遠の少年たちが回る。お前が彼らを見たなら、撒き散らされた真珠かと想ったであろう。」
アッラーはこの至福を大まかに描写し給います:
「(そこに)至福と広大な王権を見たであろう。」
つまり、楽園で視線をあちらの方に向けたなら、表現できないほどの至福と、魂が休息し幸福になるために必要な全てに充分な大きな王権を見るでしょう、という意味です。
アッラーは敬虔な者たちが着る衣服と装飾品について述べ給います:
「彼ら(敬虔な者たち)の上には緑の錦と緞子(どんす)の服があり、銀の腕輪で飾られ、彼らには彼らの主が清らかな飲み物を飲ませ給う。」
彼らの身体を薄い絹地でできた緑色の衣服である「سندس スンドゥス」と、「إستبرق イスタブラク」と言われる厚めの絹地の衣服が覆います。また彼らは銀製の腕輪を身に着け、そして「彼らの主が清らかな飲み物を飲ませ給う。」それはあらゆる汚れと害から遠ざけられた純正な飲み物です。
そして、敬虔な者たちに光栄を与える主の呼びかけが続きます:
「「まことに、これがおまえたちへの報いであり、おまえたちの努力は厚く報いられた」(と彼らに言われた)。」
なんとこの呼びかけが素晴らしく、信仰厚き人たちにとって偉大な喜びであることでしょう。なぜなら主が彼らに呼びかけ給うという事実は彼らにとって最大の幸福であるからです。彼らに対する呼びかけの中に、万物の主の満足と親愛を感じ取っているのです。彼らの行為はアッラーにより感謝されるものであったため、アッラーは彼らに来世の至福を褒賞として与え給いました。
イスラーム宣教の初期、マッカの不信仰者たちは預言者(祝福と平安あれ)の宣教活動の撃退を試みて、時に危害を彼に加え、また時に富や権力で活動から逸らせようとしました。そのため次に続く節がこの立場を扱っているのが分かります:
「まことにわれら、われらこそがおまえの上にクルアーンを降示として降した。それゆえ、おまえの主の裁定に耐え、彼らのうちの邪な者にも忘恩の不信仰者にも従ってはならない。」ムハンマドよ、至高なるアッラーはおまえにクルアーンを英知に基づいて分けて啓示した。だからこそおまえに敵対する者たちにおけるアッラーの裁定と英知に忍耐し、おまえを宣教活動の道から外させようと望む者たちの誰にも従ってはいけない。彼らは罪に深く浸っているか、不信仰の中に溺れている。
任務が重かったため、助けが必要でした。ここでアッラーより、助けがあることが示されます。アッラーに避難場を求めること、彼を多く思い起こす(ズィクル)こと、礼拝を遵守することです。アッラーは仰せになります:
「そして、おまえの主の御名を朝に夕に唱えよ。そして、夜のうちも彼に跪拝し、夜に長く、彼を賛美(礼拝)せよ。」
「ذكر الله ズィクルッラー」の意味するところがアッラーの御名を心と舌で常に唱えることであったり、「بكرة ブクラタン(朝)」という言葉の登場のため、ファジュルの礼拝をすることであるとも取れます。「أصيلا アスィーラー(夕)」昼の真ん中以降つまりズフルとアスルの礼拝を指します。「夜のうちも彼に跪拝し」はマグリブとイシャーの礼拝を指します。「夜に長く、彼を賛美(礼拝)せよ」夜中にするタハッジュドの礼拝を指します。
そしてクルアーンは不信仰者の頑固の原因が現世への愛と来世の存在の否定であることを解明します:
「まことにこれらの者(不信仰者)は目先のもの(現世)を好み、重大な日(最後の審判の日)を己の背後に打ち捨てる。」
彼ら不信仰者たちは「عاجلة アージラ(目先のもの)」を好みますが、これは現世を指します。現世がこの名で付けられたところに人生の短さ、日々が早く過ぎ去ってしまうことが想起されます。そして人々は現世の楽しみや欲望を得ようと急ぎます。また同時に、「己の背後に打ち捨てる」背後に残していくという意味ですが、つまり信仰の放棄、来世で自分らを救ってくれる善行の実践の放棄を指します。「重大な日」最後の審判の日を指します。その日の厳しさと恐ろしさから重大という表現で描写されました。
信じ続けないでいるならば…と不信仰者たちに向けられた警告の言葉が次の聖句に続きます:
「われらが彼らを創り、彼らの(体の各部の)連繋(れんけい)を頑丈にしたのである。それでもしわれらが望んだなら、彼らを同類のものと交代に取り替えたであろう。」
自分たちの力に自惚れている多神教徒らは知るがいい:アッラーが彼らを作り給うたことを。「彼らの(体の各部の)連繋(れんけい)を頑丈にしたのである」つまりアッラーは御自身の被造物を頑丈に作り給うたということです。彼らを滅ぼし、彼らに代わって主を崇めて背くことのない民を出現させることはアッラーには可能なことなのです。
続いて、この章が、導きと信仰と善行を主の御満足に到達させるための手段として望む者にとって訓戒であることをアッラーが解明し給います:
「まことに、これ(クルアーンの章や節)は訓戒である。それゆえ、(救済を)望む者があれば己の主への道を取る(が良い)。だが、おまえたちは、アッラーが望み給うたのでなければ(アッラーへの服従を)望むことはない。まことにアッラーはよく知り給う英知ある御方であらせられた。」
つまり、この章は思い起こし、教えを得た者にとって訓戒であるということです。「それゆえ、(救済を)望む者があれば己の主への道を取る(が良い)」アッラーへの道を取るとは、アッラーが人間に課した義務を行い、禁止と命令において彼に従うことで彼に近づこうとすることを意味します。代わって次の聖句:「だが、おまえたちは、アッラーが望み給うたのでなければ(アッラーへの服従を)望むことはない」ここに強制の意味合いはありません。人間が導きの道を取ると同時に、すべてを包囲するアッラーの御力の存在と包括的な彼の御意志を信じなければならないという意味があります。そのため導きの道を自分が取ったのは自分に徳があるからと位置付けるだけではなく、アッラーに謙遜し、また導いてくださったことに感謝すべきです。またこの聖句には、世界を覆っているアッラーの御力と彼の御希望なしでは何も起きないという彼の包括的な御意志の前に、自分が目指すべきものとは何かを知りなさいとの警告が含まれています。
最後の聖句:
「彼(アッラー)は御望みの者を彼の御慈悲のうちに入れ給う。一方、不正な者たちには痛苦の懲罰を彼らに用意し給うた。」
至高なるアッラーは彼の御意志、親切、そして信徒らの相応しさに応じて彼らを楽園に入れ給います。また同じように、罪深き嘘つき呼ばわりする者たちを罰の場、つまり地獄に入れ給います。
(参考文献:ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ タバーラカ/アフィーフ・アブドゥ=アル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーンP155~160)
13.彼らはそこで寝台に寄りかかり、そこでは太陽も酷寒もみないで。
14.そして彼らの上にはその(楽園の木)陰が間近で、その果物は低く垂れ下げられた。
15.そして彼らの周りには銀の器とギヤマンのコップが回され、
16.(つまり)銀のギヤマンで、彼ら(召使の酌人たち)は適量を計り取る。
17.そして彼ら(敬虔な者たち)はそこ(楽園)で酒杯で(酒を)注がれるが、その混ぜ物はショウガである。
18.(つまりショウガとは)サルサビールと名付けられたそこ(楽園)にある泉(の水)である。
19.そして彼らの周りには永遠の少年たちが回る。お前が彼らを見たなら、撒き散らされた真珠かと想ったであろう。
20.(そこに)至福と広大な王権を見たであろう。
21.彼ら(敬虔な者たち)の上には緑の錦と緞子(どんす)の服があり、銀の腕輪で飾られ、彼らには彼らの主が清らかな飲み物を飲ませ給う。
22.「まことに、これがおまえたちへの報いであり、おまえたちの努力は厚く報いられた」(と彼らに言われた)。
23.まことにわれら、われらこそがおまえの上にクルアーンを降示として降した。
24.それゆえ、おまえの主の裁定に耐え、彼らのうちの邪な者にも忘恩の不信仰者にも従ってはならない。
25.そして、おまえの主の御名を朝に夕に唱えよ。
26.そして、夜のうちも彼に跪拝し、夜に長く、彼を賛美(礼拝)せよ。
27.まことにこれらの者(不信仰者)は目先のもの(現世)を好み、重大な日(最後の審判の日)を己の背後に打ち捨てる。
28.われらが彼らを創り、彼らの(体の各部の)連繋(れんけい)を頑丈にしたのである。それでもしわれらが望んだなら、彼らを同類のものと交代に取り替えたであろう。
29.まことに、これ(クルアーンの章や節)は訓戒である。それゆえ、(救済を)望む者があれば己の主への道を取る(が良い)。
30.だが、おまえたちは、アッラーが望み給うたのでなければ(アッラーへの服従を)望むことはない。まことにアッラーはよく知り給う英知ある御方であらせられた。
31.彼(アッラー)は御望みの者を彼の御慈悲のうちに入れ給う。一方、不正な者たちには痛苦の懲罰を彼らに用意し給うた。
アッラーは楽園における敬虔な者たちの生活や恩恵について描写し給います:
「彼らはそこで寝台に寄りかかり、そこでは太陽も酷寒もみないで。」
「الأرائك アラーイク(寝台)」は、高価な布を垂れ掛けたベッドです。また彼らは楽園で害のある日光を浴びせてくる太陽を見ることも、体を刺す厳しい寒さを経験することもありません。
「زمهرير ザムハリール」は月を指して使われることもあります。つまり彼らは楽園で太陽も月も見ることがない、ということです。代わりに彼らには楽園の特別な光が与えられるため太陽と月の光は不要となります。
至福のしるしとして:降りてきた陰、手の近くにある果物:
「そして彼らの上にはその(楽園の木)陰が間近で、その果物は低く垂れ下げられた。」
つまり木々の陰は彼らに近く、彼らの上にあり、楽園の果物はそれを食べる人のために準備されているゆえ、誰にもそれをもぎ取ることが困難ではありません。
また、敬虔な者たちに、高級な器とコップが差し出されます。その中に大変おいしい飲み物が入れられます:
「そして彼らの周りには銀の器とギヤマン(ガラス製品の古風な呼び名)のコップが回され、(つまり)銀のギヤマンで、彼ら(召使の酌人たち)は適量を計り取る。」
「آنية アーニヤ」とは食べ物を入れる銀製の器です。「أكواب アクワーブ」は取手のないコップです。このコップは「قواريرカワーリール」ですが、その単数形カールーラとは飲料用のガラス製の入れ物です。楽園のそれは銀製にもかかわらず、ガラスの透明性と銀の白さを持ち合わせています。「適量を計り取る」は、酌人たちは飲料を、飲む者の欲する量以上にも以下にも計り取らないという意味です。
そしてアッラーは、敬虔な者たちが飲む飲み物について仰せになります:
「そして彼ら(敬虔な者たち)はそこ(楽園)で酒杯で(酒を)注がれるが、その混ぜ物はショウガである。(つまりショウガとは)サルサビールと名付けられたそこ(楽園)にある泉(の水)である。」
飲み物で満たされたコップはショウガで混ぜられますが、アラブでは好んでショウガが使用されます。そしてこのコップはサルサビールと名付けられた泉の水で満たされます。その強い甘さとのど越しの良さがこの名前の由来です。
至福の追加として、この器やコップを運んでいる容姿の美しい、年齢が変わることのない少年たちの存在です。彼らがあちこちにいる様子はちょうど撒き散らされた真珠のようです:
「そして彼らの周りには永遠の少年たちが回る。お前が彼らを見たなら、撒き散らされた真珠かと想ったであろう。」
アッラーはこの至福を大まかに描写し給います:
「(そこに)至福と広大な王権を見たであろう。」
つまり、楽園で視線をあちらの方に向けたなら、表現できないほどの至福と、魂が休息し幸福になるために必要な全てに充分な大きな王権を見るでしょう、という意味です。
アッラーは敬虔な者たちが着る衣服と装飾品について述べ給います:
「彼ら(敬虔な者たち)の上には緑の錦と緞子(どんす)の服があり、銀の腕輪で飾られ、彼らには彼らの主が清らかな飲み物を飲ませ給う。」
彼らの身体を薄い絹地でできた緑色の衣服である「سندس スンドゥス」と、「إستبرق イスタブラク」と言われる厚めの絹地の衣服が覆います。また彼らは銀製の腕輪を身に着け、そして「彼らの主が清らかな飲み物を飲ませ給う。」それはあらゆる汚れと害から遠ざけられた純正な飲み物です。
そして、敬虔な者たちに光栄を与える主の呼びかけが続きます:
「「まことに、これがおまえたちへの報いであり、おまえたちの努力は厚く報いられた」(と彼らに言われた)。」
なんとこの呼びかけが素晴らしく、信仰厚き人たちにとって偉大な喜びであることでしょう。なぜなら主が彼らに呼びかけ給うという事実は彼らにとって最大の幸福であるからです。彼らに対する呼びかけの中に、万物の主の満足と親愛を感じ取っているのです。彼らの行為はアッラーにより感謝されるものであったため、アッラーは彼らに来世の至福を褒賞として与え給いました。
イスラーム宣教の初期、マッカの不信仰者たちは預言者(祝福と平安あれ)の宣教活動の撃退を試みて、時に危害を彼に加え、また時に富や権力で活動から逸らせようとしました。そのため次に続く節がこの立場を扱っているのが分かります:
「まことにわれら、われらこそがおまえの上にクルアーンを降示として降した。それゆえ、おまえの主の裁定に耐え、彼らのうちの邪な者にも忘恩の不信仰者にも従ってはならない。」ムハンマドよ、至高なるアッラーはおまえにクルアーンを英知に基づいて分けて啓示した。だからこそおまえに敵対する者たちにおけるアッラーの裁定と英知に忍耐し、おまえを宣教活動の道から外させようと望む者たちの誰にも従ってはいけない。彼らは罪に深く浸っているか、不信仰の中に溺れている。
任務が重かったため、助けが必要でした。ここでアッラーより、助けがあることが示されます。アッラーに避難場を求めること、彼を多く思い起こす(ズィクル)こと、礼拝を遵守することです。アッラーは仰せになります:
「そして、おまえの主の御名を朝に夕に唱えよ。そして、夜のうちも彼に跪拝し、夜に長く、彼を賛美(礼拝)せよ。」
「ذكر الله ズィクルッラー」の意味するところがアッラーの御名を心と舌で常に唱えることであったり、「بكرة ブクラタン(朝)」という言葉の登場のため、ファジュルの礼拝をすることであるとも取れます。「أصيلا アスィーラー(夕)」昼の真ん中以降つまりズフルとアスルの礼拝を指します。「夜のうちも彼に跪拝し」はマグリブとイシャーの礼拝を指します。「夜に長く、彼を賛美(礼拝)せよ」夜中にするタハッジュドの礼拝を指します。
そしてクルアーンは不信仰者の頑固の原因が現世への愛と来世の存在の否定であることを解明します:
「まことにこれらの者(不信仰者)は目先のもの(現世)を好み、重大な日(最後の審判の日)を己の背後に打ち捨てる。」
彼ら不信仰者たちは「عاجلة アージラ(目先のもの)」を好みますが、これは現世を指します。現世がこの名で付けられたところに人生の短さ、日々が早く過ぎ去ってしまうことが想起されます。そして人々は現世の楽しみや欲望を得ようと急ぎます。また同時に、「己の背後に打ち捨てる」背後に残していくという意味ですが、つまり信仰の放棄、来世で自分らを救ってくれる善行の実践の放棄を指します。「重大な日」最後の審判の日を指します。その日の厳しさと恐ろしさから重大という表現で描写されました。
信じ続けないでいるならば…と不信仰者たちに向けられた警告の言葉が次の聖句に続きます:
「われらが彼らを創り、彼らの(体の各部の)連繋(れんけい)を頑丈にしたのである。それでもしわれらが望んだなら、彼らを同類のものと交代に取り替えたであろう。」
自分たちの力に自惚れている多神教徒らは知るがいい:アッラーが彼らを作り給うたことを。「彼らの(体の各部の)連繋(れんけい)を頑丈にしたのである」つまりアッラーは御自身の被造物を頑丈に作り給うたということです。彼らを滅ぼし、彼らに代わって主を崇めて背くことのない民を出現させることはアッラーには可能なことなのです。
続いて、この章が、導きと信仰と善行を主の御満足に到達させるための手段として望む者にとって訓戒であることをアッラーが解明し給います:
「まことに、これ(クルアーンの章や節)は訓戒である。それゆえ、(救済を)望む者があれば己の主への道を取る(が良い)。だが、おまえたちは、アッラーが望み給うたのでなければ(アッラーへの服従を)望むことはない。まことにアッラーはよく知り給う英知ある御方であらせられた。」
つまり、この章は思い起こし、教えを得た者にとって訓戒であるということです。「それゆえ、(救済を)望む者があれば己の主への道を取る(が良い)」アッラーへの道を取るとは、アッラーが人間に課した義務を行い、禁止と命令において彼に従うことで彼に近づこうとすることを意味します。代わって次の聖句:「だが、おまえたちは、アッラーが望み給うたのでなければ(アッラーへの服従を)望むことはない」ここに強制の意味合いはありません。人間が導きの道を取ると同時に、すべてを包囲するアッラーの御力の存在と包括的な彼の御意志を信じなければならないという意味があります。そのため導きの道を自分が取ったのは自分に徳があるからと位置付けるだけではなく、アッラーに謙遜し、また導いてくださったことに感謝すべきです。またこの聖句には、世界を覆っているアッラーの御力と彼の御希望なしでは何も起きないという彼の包括的な御意志の前に、自分が目指すべきものとは何かを知りなさいとの警告が含まれています。
最後の聖句:
「彼(アッラー)は御望みの者を彼の御慈悲のうちに入れ給う。一方、不正な者たちには痛苦の懲罰を彼らに用意し給うた。」
至高なるアッラーは彼の御意志、親切、そして信徒らの相応しさに応じて彼らを楽園に入れ給います。また同じように、罪深き嘘つき呼ばわりする者たちを罰の場、つまり地獄に入れ給います。
(参考文献:ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ タバーラカ/アフィーフ・アブドゥ=アル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーンP155~160)
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