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イスラーム勉強会ブログ

主に勉強会で扱った内容をアップしています。

71章解説【2】

2013年11月29日 | ジュズ・タバーラカ解説
5.彼は言った。「わが主よ、まことに私は私の民を夜も昼も呼び招きました」。
6.「しかし、私の呼び招きは彼らに(信仰からの)忌避を増し加えるばかりでした」。
7.「そしてあなたが彼らを赦し給うよう、私が彼らを(信仰へ)呼び招く度、彼らは指を耳に入れ、服に身を隠し、(不信仰に)固執して、高慢の上にも高慢となりました」。
8.「それからまことに私は彼らに声高に(信仰へ)呼び招きました」。
9.それからまことに私は(呼び招きを)公然とし、またこっそりと密かにもしました」。
10.「そして、私は言いました。『おまえたちの主に赦しを乞え。まことに彼はよく赦し給う御方であらせられた』。
11.『そしておまえたちの上に天(から雨)を豊かに送り(降らし)』、
12.『またおまえたちに財産と子孫を増やし、おまえたちに園々をなし、おまえたちに川々をなし給う』。

 続いてクルアーンは、ヌーフの努力やその民がヌーフの宣教を嫌がった様子を描写します:
「彼は言った。「わが主よ、まことに私は私の民を夜も昼も呼び招きました。しかし、私の呼び招きは彼らに(信仰からの)忌避を増し加えるばかりでした。そしてあなたが彼らを赦し給うよう、私が彼らを(信仰へ)呼び招く度、彼らは指を耳に入れ、服に身を隠し、(不信仰に)固執して、高慢の上にも高慢となりました」。」

 ヌーフはその主に呼びかけます:主よ、まことに私は民をあなたを信仰することへ、あなたを崇めることへ、朝夕休みなく呼びかけました。しかし私によるあなたを信じるようにとの呼びかけは、彼らのさらなる逃避と背信しか招きませんでした。あなたが彼らの罪を赦して下さるために、私が彼らをあなたを信仰することに呼びかける度、彼らはその指を耳の穴に入れて、私の呼びかけを聴くのを避けようとし、そして「服に身を隠し」、顔を覆って私を見ないようにしました。そして「固執して、高慢の上にも高慢となりました」。つまり不信仰に固執し、信仰に対して過度の高慢な態度を取ったという意味です。

 そしてヌーフはアッラーへの呼びかけを継続し、彼の民は不信仰に固執しました。それでもヌーフは民に影響を与えるようなあらゆる方法をとりました:
「「それからまことに私は彼らに声高に(信仰へ)呼び招きました。それからまことに私は(呼び招きを)公然とし、またこっそりと密かにもしました」。」

 ヌーフははっきりと聞こえるように声高にアッラーへの呼びかけを行ったことを告白します。「それからまことに私は公然とし」つまりヌーフはアッラーへの呼びかけを彼らに対して公然と行ったということです。公然と行うとは、あることを発表することであり、秘密の反対です。「またこっそりと密かにもしました」つまり彼らを密かにアッラーへと招いたということです。つまりヌーフは彼らに影響を与えるであろうと考えたさまざまな方法で彼らに呼びかけたのです。

 その最中、ヌーフは彼らに現世と来世の二つの善に興味を持たせようとしました:
「「そして、私は言いました。『おまえたちの主に赦しを乞え。まことに彼はよく赦し給う御方であらせられた。そしておまえたちの上に天(から雨)を豊かに送り(降らし)、またおまえたちに財産と子孫を増やし、おまえたちに園々をなし、おまえたちに川々をなし給う』。」
 ヌーフは彼らにアッラーへ帰って、己の罪を後悔し、主に赦しを乞うよう頼みました。もし彼らがそうすれば、アッラーは彼らの悔悟を受け入れ、どんなに多くても彼らの罪を赦し給うからです。それだけでなく、彼らの土地に豊かな雨を降らせ給い、そしてたくさんのお金と子孫を与え給い、そして実の成る木々のある園、そして彼らの農地を潤す川を作り給うてくださるのです。

 クルアーンの中には、信仰、畏敬、罪からの悔悟には糧の増大があると解説する章がいくつか存在します。至高なるアッラーは高壁章で次のように仰せです:「そして町の住民が信仰し、畏れ身を守ったならば、われらは彼らに天と地からの祝福を開いたであろうが、彼らは嘘と否定した。そこでわれらは彼らが稼いだものゆえに彼らを捕らえた」(高壁章96節)、「またおまえたちの主に赦しを乞え、そして彼の御許に悔いて戻れ、彼は(現世で)定めの期限まで良い享楽でおまえたちを楽しませ給い、それぞれ徳のある者には(来世で)彼の御恵みを与え給う」(フード章3節)

参考文献:ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ タバーラカ/アフィーフ・アブドゥ=アル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーンP80~81)

71章解説【1】

2013年11月01日 | ジュズ・タバーラカ解説
1.まことに、われらはヌーフを彼の民に遣わした。「おまえの民に、彼らに痛苦の懲罰が襲う前に警告せよ」、と。
2.彼は言った。「私の民よ、まことに私はおまえたちへの明白な警告者である」。
3.「おまえたちアッラーに仕え、彼を畏れ身を守り、私に従え」、と。
4.「彼はおまえたちの罪を赦し、定められた期限までおまえたちを猶予し給う。まことに、アッラーの期限は、それが訪れた時には、猶予されない。もしおまえたちが知っているならば」。

 預言者たちの物語や彼らの民とのやり取りのお話は、クルアーンが重点を置き、イスラーム宣教の反論者との議論においては手段とした重要な好影響を与える要素の一つです。また、アッラーの御満足があるだろうとの吉報や、彼に背いてはいけないとの警告や、イスラームの基幹とのそれらの目的の説明や、不信仰者たちからたくさんの危害を受けた後の預言者(祝福と平安あれ)と彼の追従者たちの心の強化のためにも利用されました。

 この章は、預言者ヌーフ(平安あれ)とその民の物語を展開します。その中から、マッカの不信仰者たちの状態とのつながりが見えてきます。ヌーフの民は偶像を崇めていて、マッカの不信仰者たちも偶像を崇拝していました。クルアーンはこの章の中で、ヌーフの民による背信へのしがみ付きを原因に起こる迎える厳しい結末を解明します。その中には、不信仰にしがみ続け、ムハンマド(祝福と平安あれ)のメッセージに呼応しないとヌーフ(平安あれ)の民が受けたような罰がおまえたちにもおこるぞ、とのマッカの不信仰者たちに対する警告があります。

 アッラーはまず、章の冒頭で次のように仰せになります:
 「まことに、われらはヌーフを彼の民に遣わした。「おまえの民に、彼らに痛苦の懲罰が襲う前に警告せよ」、と。彼は言った。「私の民よ、まことに私はおまえたちへの明白な警告者である」。」

 アッラーはヌーフを、偶像を崇めていた彼の民に送り給いました。そして彼に仰せになりました:おまえの民を警告し、彼らの不信仰は良い結末を呼ばないと怖がらせなさい。アッラーから厳しく痛い罰が彼らを襲う前に。そしてヌーフはその民に言いました:私は、皆さんの背信と背徳を警告するためにアッラーから皆さんに遣わされた者。私は既に明解な警告を皆さんに知らせた。

 ヌーフ(平安あれ)の呼びかけの内容ははっきりしており、そこには人間の幸福が込められていました:

 「「おまえたちアッラーに仕え、彼を畏れ身を守り、私に従え」、と。」

 ヌーフの宣教は3部から成り立っています:

 第一:アッラー御ひとりのみを崇め、偶像崇拝を放棄すること。この崇拝は、人々の心を一つにします。崇拝において人々は皆、ひとりの神に向かいます。崇拝の統一には、列の統一が成されます。そして人々を、偶像崇拝の原因となった迷信や思い込みや伝説から解放し、彼らをまっすぐの道に道いてくれます。アッラー御ひとりこそが、真なる崇められるべき御方なのです。

 第二:アッラーへの恐れの心。それは、アッラーに対する恐れから、魂を守ります。アッラーは諸々の罪を禁じ給いましたが、なぜならそれは人々の健康や道徳心を汚し、社会を軟弱にするためです。

 第三:アッラーの使徒(祝福と平安あれ)に服従すること。それは、アッラーの聖法の追従を含みます。なぜならアッラーの使徒はアッラーから聖法を直接、啓示を介して受け取り、ご自身の民にそれを伝え、それに従うよう命じるからです。

 これら3つの柱は、過去の使徒たちが呼びかけた基幹と重なります。そしてヌーフはその民に、それらを行えばアッラーの赦しを得られ、罰から救われると約束しました:

 「「彼はおまえたちの罪を赦し、定められた期限までおまえたちを猶予し給う。まことに、アッラーの期限は、それが訪れた時には、猶予されない。もしおまえたちが知っているならば」。」

 「おまえたちの罪」は、おまえたちの罪の一部、を意味します。つまり信仰する前に犯した罪です。「定められた期限までおまえたちを猶予し給う」つまり、この現世において、アッラーのみが知る定められた期間までおまえたちに猶予を与え、楽しませ給うということです。アッラーこそはおまえたちの寿命を定め給うた御方であるため、罰でおまえたちを滅ぼすことはない、という意味です。「まことに、アッラーの期限は、それが訪れた時には、猶予されない」つまり、アッラーが被造物に定め給うた寿命は期限があるため、増えることも減ることもない。期限という言葉がアッラーに接続されたのは、彼こそがそれを定め、記し給うたからです。「もしおまえたちが知っているならば」おまえたちがその真実を知っていたなら、急いで主の服従に走っただろうに、という意味です。

参考文献:ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ タバーラカ/アフィーフ・アブドゥ=アル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーンP78~80)

72章解説【4】

2013年10月04日 | ジュズ・タバーラカ解説
23.「ただし、アッラーからの伝達と彼の使信だけは別である(私はそれらのみを有する)。そしてアッラーと彼の使徒に背く者がいれば、まことに彼には火獄の火があり、彼らはそこにいつまでも永遠に(留まる)」。
24.やがて、ついに彼らが自分たちに約束されたもの(懲罰)を見た時、彼らは、誰が援助者に関してより弱く、数に関してより少ないかを知るであろう。
25.言え、「私には分からない、おまえたちに約束されたものが近いのか、それともわが主がそれに(猶予)期間をもうけ給うのか」。
26.(アッラーは)隠されたものを知り給う御方。それで彼は御自身の隠されたものを誰にも明かし給わない。
27.ただし、彼(アッラー)が使徒として満悦(選出)し給うた者は別である(そのような使徒には明かし給う)。彼(アッラー)は彼(使徒)の前にも後ろにも見張り(天使)を伴わせ給う。
28.彼(アッラーもしくは預言者)が、彼ら(使徒たち)が彼らの主の使信を確かに伝えたことを知り給うためである。そして、彼(アッラーもしくは預言者)は彼ら(使徒たち)の許にあるものを取り囲み、あらゆるものの数を計算し給うた。

 「ただし、アッラーからの伝達と彼の使信だけは別である(私はそれらのみを有する)。そしてアッラーと彼の使徒に背く者がいれば、まことに彼には火獄の火があり、彼らはそこにいつまでも永遠に(留まる)」。
24.やがて、ついに彼らが自分たちに約束されたもの(懲罰)を見た時、彼らは、誰が援助者に関してより弱く、数に関してより少ないかを知るであろう。」

 アッラーはその預言者(祝福と平安あれ)に、彼の民に次のように言うように命じ給います:至高なるアッラーが遂行するよう命じ給うたアッラーの使命を述べ伝えることだけが己を救うのだ、ということです。アッラーと彼の使徒に背く者には、火獄の炎があり、彼は来世でそこに永遠に留まるのです。罪人たちが-主が彼らに約束し給うている-罰を目の当たりにするとき、彼らの弱さの本当の姿が現われます。その日、彼らの援助者は何の役にも立ちませんし、それどころかその日彼らは少数で、アッラーの数え切れない群衆の前では存在しないに等しくなります。

 そして至高なるアッラーはその預言者(祝福と平安あれ)に、彼の民に自分は不可視界について知らないこと、その一つは最後の日についてのことであることを知らせるよう命じ給います:

 「言え、「私には分からない、お前たちに約束されたものが近いのか、それともわが主がそれに(猶予)期間をもうけ給うのか。(アッラーは)隠されたものを知り給う御方。それで彼は御自身の隠されたものを誰にも明かし給わない。ただし、彼(アッラー)が使徒として満悦(選出)し給うた者は別である(そのような使徒には明かし給う)。彼(アッラー)は彼(使徒)の前にも後ろにも見張り(天使)を伴わせ給う。」

 「私には分からない、おまえたちに約束されたものが近いのか」の意味:おまえたちに約束された現世における罰もしくは来世における罰が近いのか、それとも私の主がそれに「期間」:つまり長い期間、を設け給うのか分からない。つまりアッラーのみが不可視の情報と審判の起きる最後の日について知り給うということです。しかし不可視について一つだけアッラーは例外を述べ給うています:「ただし、彼(アッラー)が使徒として満悦(選出)し給うた者は別である」つまり、アッラーがその使命と預言者性のために選らび給うた者は別で、その者には彼が御好みの不可視界の情報を与え給うということです。やがて情報を与えられた者は不可視界の情報を語ることでその預言者性が証明され、また奇跡にもなります。至高なるアッラーは使徒たちを天使の護衛で囲み、彼らを守らせ給います。

 次の御言葉でこの章は締めくくられます:
 「彼(アッラーもしくは預言者)が、彼ら(使徒たち)が彼らの主の使信を確かに伝えたことを知り給うためである。そして、彼(アッラーもしくは預言者)は彼ら(使徒たち)の許にあるものを取り囲み、あらゆるものの数を計算し給うた。」

 【この本の解説】アッラーの使徒ムハンマド(祝福と平安あれ)が、過去の預言者たちがアッラーによって述べ伝えるよう命ぜられた聖法を自分たちの民に確実に述べ伝えことと、アッラーがその知識によって使徒たちの許にあるものを取り囲んだことを知るためである。また至高なるアッラーは御自身が創造し給うたものを数え給い、被造物で数えられないものはなく、アッラーに隠されるものもない、という意味です。
 (文頭の代名詞「彼」がアッラーに帰るという解説も他にあります。)

参考文献:ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ タバーラカ/アフィーフ・アブドゥ=アル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーンP102~103)

72章解説【3】

2013年09月19日 | ジュズ・タバーラカ解説
14.『またわれらは、われらの中には帰依者たちもいれば、不正な者たちもいる。そして、帰依した者、それらの者は正導(しょうどう)を追い求めたのである』。
15.『他方で、不正な者たちについては、彼らは火獄の薪であった』。
16.「彼ら(マッカの不信仰者たち)が(イスラームの)路に真っすぐ立つなら、われらは豊かな水を彼らに飲ませ与えよう」。
17.「われらがそれにおいて彼らを試すために。それで己の主の想念・唱名から背を向ける者があれば、彼(アッラー)は彼(その者)を辛い懲罰に入れ給うであろう」。
18.「そして諸モスクはアッラーのものである。それゆえ、(そこでは)アッラーに並べて何ものにも祈ってはならない」。
19.「そしてアッラーのしもべ(預言者ムハンマド)が立って彼(アッラー)に祈ると、彼らは彼(預言者ムハンマド)の上にもつれた毛とならんばかりであった」と(啓示された)。
20.言え、「私はわが主のみに祈り、彼に何ものも並び置かない」。
21.言え、「私はおまえたちに対し害(の力)も正導(の力)も有さない」。
22.言え、「私をアッラーから守ることは誰にもできない。また、私は彼を差し置いて避難所を見出すことはできない」。

 信仰においてジンは二種に分かれます:
 「またわれらは、われらの中には帰依者たちもいれば、不正な者たちもいる。そして、帰依した者、それらの者は正導(しょうどう)を追い求めたのである。他方で、不正な者たちについては、彼らは火獄の薪であった。」

 ジンは人間のように、アッラーに帰依して彼の導きの上を歩む、「正導(しょうどう)を追い求めた」帰依者たちがいます。つまり、彼らは真実の道を努力して探し求めたということです。以上は、私たちによるイスラームの選択が観察・熟考・瞑想の結果であるべきであることへと私たちを導いてくれます。なぜなら落ち着きがあり、かつ信頼でき、わずかなことで揺れずまたあらゆる疑いで崩壊しない堅甲な柱に基づくイスラームとして存在するためです。代わって:「不正な者たち」導きと正しさの道に反したために火獄の火力を増加させるための燃料になる者たちです。

 またクルアーンは、人々が導きの道を志したならば、アッラーは必ず彼らに恩恵を下し給うことを解明します:
 「彼ら(マッカの不信仰者たち)が(イスラームの)路に真っすぐ立つなら、われらは豊かな水を彼らに飲ませ与えよう。われらがそれにおいて彼らを試すために。それで己の主の想念・唱名から背を向ける者があれば、彼(アッラー)は彼(その者)を辛い懲罰に入れ給うであろう。」

 もし彼らが真実と善の道、真っすぐな道、つまりイスラームを歩めば、という意味です。「われらは豊かな水を彼らに飲ませ与えよう」彼らに豊富に水を与えよう、という意味です。つまり彼らの糧は増やされ、恩恵も豊かさが増されるということです。「われらがそれにおいて彼らを試すために」それによってわれが彼らを試すため、ということです。

 続いてクルアーンは、各共同体が留意すべき二つの真実を解明します:

 第一:幸せな生活、豊かな生活は、アッラーを畏れたことと彼に服従することにおいての行動の結果の一つとして現れたものであるということ。

 第二:アッラーの導きの上を歩むしもべたちにアッラーが恵み給う安楽は、彼らに与えられた試練であるということ。次のようにアッラーが仰せになっているとおりです:「われらがそれにおいて彼らを試すために」恩恵による試練は、罪に陥らないようにとの常なる自覚を激しく必要とします。お金という恩恵と豊かな財産は、多くの場合、恩恵からの疎外とアッラーの罰の実現を招く自惚れや足りない感謝、主を忘れる、己の教えに背くことに導きます。以上の意味は次のアッラーの御言葉です:「それで己の主の想念・唱名から背を向ける者があれば、彼(アッラー)は彼(その者)を辛い懲罰に入れ給うであろう」己の主の想念・唱名は、己の主に仕えることや、クルアーンや、己の主の訓戒を指します。「辛い懲罰に」安楽のない厳しい罰です。

 アッラーはその使徒に彼御ひとりへの崇拝、彼に同位者を置かないことへと導きます:
 「そして諸モスクはアッラーのものである。それゆえ、(そこでは)アッラーに並べて何ものにも祈ってはならない」マサージド=諸モスクとは、サジダ=跪拝が行われる場所を指します。つまり、サジダという言葉が派生してできた場所の名前ですから、礼拝や崇拝行為のために建てられた場所ということになります。そのためモスクはアッラーの家と呼ばれます。

 かつてユダヤ教徒とキリスト教徒は自分たちの教会やシナゴーグに入ると、アッラーに同位者を配置していました。そこでアッラーはその使徒と信徒たちにアッラーは御ひとりであると崇め、真心込めて彼に祈るよう命じました。

 続いてクルアーンは、ジンまたは不信仰者たちによる預言者(祝福と平安あれ)に対する態度を解明します:

 「そしてアッラーのしもべ(預言者ムハンマド)が立って彼(アッラー)に祈ると、彼らは彼(預言者ムハンマド)の上にもつれた毛とならんばかりであった」と(啓示された)」

 至高なるアッラーは仰せになっています:「そしてアッラーのしもべ(預言者ムハンマド)が立って彼(アッラー)に祈ると」つまりムハンマド(祝福と平安あれ)が彼の主を崇めるために立ち上がると、「ならんばかりであった」~しそうであった。「彼らは彼(預言者ムハンマド)の上にもつれた毛と」つまり彼らは固まって、またはそれぞれがその上に乗って、という意味になります。「ならんばかりであった」に含まれる主語は、礼拝の中でクルアーンを読んでいた預言者のもとに仲間同士で込み合って彼の読誦を驚きながら聴いたことから、ジンに帰るともいえます。

 また、「ならんばかりであった」の主語がクライシュの不信仰者に帰るとも言えます。すると意味は次のようになります:アッラーより使信を授かったムハンマドがアッラーを崇めているところに大勢の集団が彼を取り囲んでアッラーの光を消そうともくろんで彼の宣教が広まることなく、また誰の益にもならないように専念した、という意味になります。

 以上を前にして、アッラーはその使徒(祝福と平安あれ)に多神教徒たちに次のように話すよう命じ給います:

 「言え、「私はわが主のみに祈り、彼に何ものも並び置かない」。言え、「私はおまえたちに対し害(の力)も正導(の力)も有さない」。」
 つまり:ムハンマドよ、彼らに次のように言ってやれ:“私は主を崇め、祈る際には彼に何ものをも並び置かない”。そして次のようにも彼らに言ってやれ:“私はおまえたちから害を払拭することも、おまえたちに善を到達させることも出来ない。私はおまえたちを導くことにおいても迷わせることにおいても何の力も持っていないのである”。

 これこそが、複雑さや困惑さのないはっきりとしたイスラームの呼びかけです。それはアッラー御ひとりのみに向けられた崇拝の上に立っています。またアッラー御ひとりのみに属する事柄であるのに、自分らの預言者をアッラーと同位に見なしたり、善悪を関連付けたりといったことしていた諸宗教の追従者たちの多くを支配していた間違った理解を正します。

 続いてクルアーンは以上の意味を強調し、アッラーは預言者(祝福と平安あれ)に呼びかけ給います:
 「言え、「私をアッラーから守ることは誰にもできない。また、私は彼を差し置いて避難所を見出すことはできない」。」

 つまり:ムハンマドよ、“私がアッラーに背けば、私を勝たせたり私を守ったりすることは誰にも出来ないし、彼以外に非難できる場所を私は見つけられない”、と言ってやれ。

参考文献:ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ タバーラカ/アフィーフ・アブドゥ=アル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーンP99~102)

72章解説【2】

2013年09月05日 | ジュズ・タバーラカ解説
3.『そして―われらの主の栄光こそ高められよ―彼は伴侶を娶らず、子供も持ち給わない』。
4.『そしてわれらの愚か者はアッラーについて途方もないことを語っていた』。
5.『またわれらは、人間も幽精もアッラーについて嘘を語ることは決してない、と思っていた』。
6.『そして人間の男たちの中には幽精の男たちに守護を求める者がいた。そして、彼ら(人間の男たち)に不遜を増大させた』。
7.『また彼ら(人間)は、お前たち(幽精)が考えたように、アッラーは誰も甦らせ給わいはしないと考えた』。
8.『そしてわれらは天を求めたが、それが厳しい護衛(天使)と輝く流星で一杯であることを見出した』。
9.『またわれらは聴くためにその(天の)座所に座っていた。それで今、聞こうとする者は、そこに見張りの流星を見出すだろう』。
10.『また地にある者(人間)に悪が望まれたのか、それとも彼らの主は彼らに正導を望み給うたのか、われらにはわからない』。
11.『またわれらの中には正しい者たちもあれば、そうでない者もあり、われらはばらばらの違った路々にあった』。
12.『またわれらは地においてアッラーを頓挫させる(出し抜く)ことはならず、(地から天に)逃げて彼を頓挫させることもできないと考えた』。
13.『そしてわれらは導き(クルアーン)を聞くや、それを信じた。己の主を信じる者があれば、そうすれば(前項の報酬の)削減も不当(な重罰)も恐れることはない』。

 ジンたちは、「われらの主の栄光こそ高められよ」つまりわれらの主の王権、権力、能力、偉大さは至高である、と言いました。「彼は伴侶を娶らず、子供も持ち給わない」妻を娶らないので、彼には子供もいないということです。「そしてわれらの愚か者はアッラーについて途方もないことを語っていた」ジンの愚か者とは、アッラーについて嘘、つまり彼には妻と子供がいるという嘘を言っていたイブリースです。

 続いてジンたちが、自分らの中にあった間違った思い込みを残念がります:
 「またわれらは、人間も幽精もアッラーについて嘘を語ることは決してない、と思っていた」

 彼らは、人間であってもジンであっても誰もアッラーに関して嘘を付くことなどないと考えていたということです。クルアーンを聴いたときに、イブリースが嘘つきであることを確信したので、彼らはイブリースをサフィーフ=愚か者と名付けました。

 続いてクルアーンは、人間がジンに加護を求めることが迷いであり間違いであることを解明します:
 「そして人間の男たちの中には幽精の男たちに守護を求める者がいた。そして、彼ら(人間の男たち)に不遜を増大させた」

 イスラーム以前の時代、枯れ谷で野宿するなど、そこに留まらなければならない人は、大声で:この谷の強者よ!私はあなたに服従することに対して愚かでいる者たちからの加護をあなたに求める!と叫んでいました。谷にいる大きなジンへの呼びかけが自分を守ってくれると考えていたのです。「そして、彼ら(人間の男たち)に不遜を増大させた」つまり人間にはジンに対するこのような行為のために不遜が増えた、または、ジンがジンに加護を求める人間をさらに迷わせた、または恐れさせた、または、罪を増加させた、という意味になります。

 続いてクルアーンは、ジンが持っていた間違った信仰を解明します:
 「また彼ら(人間)は、お前たち(幽精)が考えたように、アッラーは誰も(バアス=1.甦る2.人を送る)甦らせ給わいはしないと考えた」

 つまり:不信仰なクライシュの者たちよ、ジンたちはお前たちが考えていたように、アッラーは被造物たちに彼の唯一性を説く使徒を送ることはないと考えていた。または清算のために死から生の状態に人間を戻すこととも言われます。

 またクルアーンは、ジンが人間に関する見えない情報を知ることはなく、魔術師や占い師や魔法使いがジンを介して不可視界の情報を得ているとの主張は嘘であることを解明します。以上によってイスラームはその追従者たちを迷信や幻想から解放し、当時一般化していたすべての事柄に制限を設けました。

 「そしてわれらは天を求めたが、それが厳しい護衛(天使)と輝く流星で一杯であることを見出した。 その(天の)座所に座っていた。それで今、聞こうとする者は、そこに見張りの流星を見出すだろう。」

 アッラーはジンの言葉について仰せになっています:「そしてわれらは天を求めたが」つまり、天の情報を求め、そしてそこに触れることを求めたということです。「それが厳しい護衛(天使)で一杯であることを見出した」われらは天使の強い護衛によって盗み聞きから守られているのを見つけたという意味です。「輝く流星」盗み聞きする者たちを追います。「その(天の)座所に座っていた」これ以前は、われらは護衛や流星のない場所の天に座っていたという意味です。「それで今、聞こうとする者は、そこに見張りの流星を見出すだろう」だが今盗み聞きを試そうとする者は、そのためにあらかじめ準備された流星が待ち構えているのを見出すだろう、流星は彼を追い、捕えて、天の情報を得ることから遮るだろう、という意味です。つまりジンたちは預言者ムハンマド(祝福と平安あれ)が送られてくるまでは、天の情報から自分たちが必要としているものを得ていたけれども、その後はジンたちにはそう出来なくなったということです。

 またクルアーンは、ジンたちが不可視界について無知あると認識していることを述べ、そして彼らの信仰について解明します:
 「また地にある者(人間)に悪が望まれたのか、それとも彼らの主は彼らに正導を望み給うたのか、われらにはわからない。またわれらの中には正しい者たちもあれば、そうでない者もあり、われらはばらばらの違った路々にあった。」

  われらジンの衆は、アッラーが、われらが天から知らせを盗み聞きすることを禁じることで大地の民に罰を望み給うたのか、それとも彼らの中から使徒を送って彼らに善を望み給うのかわからない、という意味です。「またわれらの中には正しい者たちもあれば」彼らはムスリムで、アッラーに従います。「そうでない者もあり」われらの中には善良さが完全ではない、もしくは善良さがない者がいる、ということです。「われらはばらばらの違った路々にあった」路が違うとは、主義が違うということで、われらはさまざまな学派は宗派に分かれており、中には信仰ある者もいれば、不信仰な者もいる、という意味です。

 またクルアーンは、ジンがアッラーの壮大な御力と完全な権力を認めていることを述べます:
 「またわれらは地においてアッラーを頓挫させる(出し抜く)ことはならず、(地から天に)逃げて彼を頓挫させることもできないと考えた」

 ここでの「考えた」は:確実に知っていることを指します。つまり、彼らは地においてアッラーを出し抜くことは不可能であることを知り、確信した、という意味です。同様に、アッラーが彼らを罰しようとするときには彼から逃げることは出来ませんし、彼は彼らがどこにいようとも彼らを捕え給います。

 続いてクルアーンは、ジンたちがクルアーンを聞いたときについて描写します:
 「そしてわれらは導き(クルアーン)を聞くや、それを信じた。己の主を信じる者があれば、そうすれば(善行の報酬の)削減も不当(な重罰)も恐れることはない」

 ジンたちはクルアーンを聞くと、それを「導き」と名付けました。なぜならそれが彼らの心を真実へと導く光だからです。彼らがクルアーンを聞いたとき、それがアッラーからのものであると信じ、認めました。誰でも己の主を信じる者は、恐れることも「削減」もない。つまり報酬における己が得る権利が減らされてふさわしいものより少なく与えられることを指します。また「不当もない」つまり不正や悪行などからくる罪です。ここでは、信仰の道を取ることで精神が安心でき、憧れるアッラーの公正さが解明されます。

参考文献:ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ タバーラカ/アフィーフ・アブドゥ=アル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーンP93~96)

72章解説【1】

2013年08月15日 | ジュズ・タバーラカ解説
72章【1】
1.言え。「私に啓示された。幽精(ジン)の一団が(私のクルアーンの読誦を)聞いて言った、『まことに、われらは驚くべきクルアーンを聞いた』」。
2.『それ(クルアーン)は正導に導く。それでわれらはそれを信じ、われらはわれらの主になにものをも同位に配さない』。

 この章は、ジンの世界にまつわる多くの先入観を正し、目に見えないこの被造物の本当の姿を解明しています。預言者の時代にクルアーンが呼びかけの対象としていたアラブ人は、ジンを得体の知れない神々の一つと捉えており、人とアッラーの間に親戚関係があると考えました。クルアーンはそのことについて言っています:「また、彼らはアッラーに幽精の同意者たちをなす」(家畜章100節)また、ジンは不可視界を知っていて、尋ねられたその情報を魔術師や占い師に伝えているとも信じていました。これは、クルアーンがこの章で突き止めたことです。預言者(祝福と平安あれ)はその事実をお嫌いになり、魔術や占いを信じることを次のように言いながら禁じました:《魔術師や占い師のところに来て、彼らの言うことを信じた者は、ムハンマドに啓示されたものを背信した者である。》

 さらに、ジンには地上において権力があると思われてもいたので、荒涼とした谷で一夜を明かさなければならない時は、他人に襲われないよう、大きなジンに加護を求めました。

 ジンに対するこういった形の信仰は、いろいろな人間社会に広まっていました。そして今日になってもまだ、この種の伝説や思い込みは多くの地域に残っています。

 「ジン」という名前は、隠れること(イジュティナーン)から派生しています。彼らは隠れており、目に見えません。クルアーンは彼らの身体の特徴について知らせています:「ジャーンヌ(ジンのこととも、ジンの太祖イブリースのこととも言われる)を火の炎から創った。」(慈悲あまねき御方章15節)マーリジュ(炎)とは、煙が邪魔しない、純粋な火を指します。

 また、ジンの存在を根本的に否定する人もいます。彼らは、目に見えない存在にまつわるいかなる話もすべて神話だと言います。

 そこでイスラームは、いないと信じている人たちと信じている人たちの意見の相違の元になっているこの話題に終止符を打つ言葉を齎しました。また、真実を決定し、ジンの存在を立証し、彼らの真実を解明し、彼らに関する間違った理解を正し、彼らの見えない力に対する怯えや恐れを払拭しました。クルアーンの別の箇所では、スライマーンがジンを諸事に就かせていたことをアッラーが教え給うています。

 現在の科学は、私たちの手や感覚の下にあるものを否定出来ません。かつては不可視状態にあった自然の力が、開発された機械によって五感に代わって感知されるようになりましたが、現代の科学は自らが使ったすべての力を見ることが出来ないのに、どうして自らが解明したり到達出来ない物事を否定することができるというのでしょうか。

 そこで尊いクルアーンは、丸ごと一つの章を使って、ジンの行動を隠し覆っていた布を剥ぎ取りました。今回はこのことを私たちは勉強していきます。章の冒頭は次のように始まります:

 「言え。「私に啓示された。幽精(ジン)の一団が(私のクルアーンの読誦を)聞いて言った、『まことに、われらは驚くべきクルアーンを聞いた』」。」

 預言者(祝福と平安あれ)に向けられた呼びかけです。アッラーから彼への啓示は、彼に伝授したい宗教上の教えを投げかけることであり、アッラーが彼に啓示したものの一つがこの章です。「幽精(ジン)の一団」は、3~10から成る集団です。彼らジンはクルアーンを聞いた後、自分の仲間たちのところに帰って言いました:「まことに、われらは驚くべきクルアーンを聞いた」つまり、不思議かつ驚きに値する感慨深いクルアーンを聞いた、と。それは、素晴らしい裁定、意味の深い訓戒において、他の諸典とのはっきりとした違いを持っていると。

 この章が啓示された経緯としてイブン・アッバースの言葉が伝承されています。アッラーの使徒(祝福と平安あれ)はジンたちを見ることなく彼らにお読みになった。つまり彼らの存在に気付かないままジンたちは預言者(祝福と平安あれ)の読誦を聞いたということです。当時預言者(祝福と平安あれ)は数名の教友たちと市場に向かっているところでした。するとジンと天の情報の間が、彼らに対する流星の襲撃で隔たれてしまいます。その折にジンが言いました:何か起きたに違いない。皆、この事件の原因を知るために東と西の隅々に向かえ。彼らは出発すると、ワーディー・ナハラで教友たちとファジュルの礼拝をしている預言者(祝福と平安あれ)に遭遇しました。彼がその時に読んでいたクルアーンを聞いたジンたちは言いました:これこそが、われわれと天の情報の間を隔てたもの。その後彼らは自分の仲間の元に帰って、見て来たことを話しました。このジンたちはクルアーンを次のように描写しました:

 「それ(クルアーン)は正導に導く。それでわれらはそれを信じ、われらはわれらの主になにものをも同位に配さない」

 このクルアーンは真実と正しい道に導きます。この導きの自然な結果は、それがクルアーンであるとの信仰です。そのためもあって、彼らは「われらはそれを信じ」と言ったのです。クルアーンに対する信仰は、何ものも配さず、ただおひとりのみの御方アッラーを純粋に信仰することを伴います。そのため、彼らは「われらはわれらの主になにものをも同位に配さない」と言ったのです。

参考文献:ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ タバーラカ/アフィーフ・アブドゥ=アル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーンP91~93)

73章解説【3】

2013年07月25日 | ジュズ・タバーラカ解説
20.まことに、おまえの主は、おまえが夜の3分の2未満、そして半分、そして3分の1を(礼拝に)立ち、おまえと共にいる者たちのうちの一派もそうであることを知り給う。そしてアッラーは夜と昼を計り(それらの長さを知り)給う。彼は、おまえたちがそれを計算できないことを知り、おまえたちに対して顧み戻り給うた。それゆえ、おまえたちはクルアーンから(おまえたちにとって)易しいものを(夜の礼拝において)読め。彼は、いずれおまえたちの中には病人、また他にもアッラーの御恵みを求めて地を闊歩する者、また他にもアッラーの道において戦う者が出てくるであろうことを知り給うた。それゆえ、そこから易しいものを読め。そしておまえたちは礼拝を遵守し、浄財を払い、アッラーに良い債権を貸し付けよ。そしておまえたちが自分たちのために前もってなしておく良いことがあれば、おまえたちはアッラーの御許でそれが一層良く、一層大きな報奨であるのを見出す。そして、アッラーは赦しを乞え。まことにアッラーはよく赦し給う慈悲深い御方。

 最後にアッラーは、この章の冒頭から一年経って啓示された長い一節でこの章を締めくくり給います。その中でアッラーは、信者たちが崇拝のために夜中祈り立っていることを知り給い、それを彼らより嘉納し給うたこと、そして夜の礼拝を軽減したことを知らせ給うています:

 「まことに、おまえの主は、おまえが夜の3分の2未満、そして半分、そして3分の1を(礼拝に)立ち、おまえと共にいる者たちのうちの一派もそうであることを知り給う。そしてアッラーは夜と昼を計り(それらの長さを知り)給う。彼は、おまえたちがそれを計算できないことを知り、おまえたちに対して顧み戻り給うた。それゆえ、おまえたちはクルアーンから(おまえたちにとって)易しいものを読め…」

 至高なるアッラーは仰せになります:御使いよ、おまえと、おまえと共にいる信者たちが夜の3分の1、そして半分、そして3分の2未満をわれが命じた礼拝のために立っているのを知っている。「そしてアッラーは夜と昼を計り(それらの長さを知り)給う」アッラーは両者の長さを制限し給い、それらの各部分を知り給う。「彼は、おまえたちがそれを計算できないことを知り」おまえたちが夜と昼の細かい計算が出来ないことを知り給う。「おまえたちに対して顧み戻り給うた」夜の礼拝におまえたちが立てなくなったことのために。ここでのタウバは、顧みるという意味で使われます。つまりおまえたちの主は軽減することでおまえたちに対して顧みたという意味です。「それゆえ、おまえたちはクルアーンから(おまえたちにとって)易しいものを読め」礼拝を指すとも言われています。クルアーン読誦は礼拝の重要な構成要素だからです。つまり、おまえたちにとって易しい量の礼拝を成せ、という意味です。または、熟考とともにおまえたちにとって易しいものをクルアーンから読め、という意味とも言えます。

 続いて、夜の礼拝が軽減された原因が述べられます:
 「彼は、いずれおまえたちの中には病人が出てくるであろうことを知り給うた」病や不調のために夜の一部を崇拝のために費やせないことが信者たちに起こる可能性があります。

 「また他にもアッラーの御恵みを求めて地を闊歩する者」アッラーからの恩恵であり至福である糧や儲けを求める商人、旅行者を指します。彼らの旅によってときに夜の崇拝が行われなくなることがあります、

 「また他にもアッラーの道において戦う者」彼らはイスラーム宣教と彼らの任務を妨げる存在との戦いに従事する人たちです。または、自分たちの国を守る人たちです。

 続いてアッラーは仰せになります:「それゆえ、そこから易しいものを読め。そしておまえたちは礼拝を遵守し、浄財を払い」そこから、はクルアーンを指します。礼拝の遵守とは、畏敬の念を持つこと、人間の間に入ってくる様々な罪から純正であることといった礼拝がもつ権利を満たすことを指します。浄財を払うことは、信者たちの財産から定められた額を取りだして、貧しい人たちなど受給するに相応しい人たちに払われることです。

 アッラーは以上に付け加えて仰せになっています:「アッラーに良い債権を貸し付けよ」アッラーの御満足のために喜捨などに財を指しだすよう急きたてる御言葉です。ここではアッラーのためにお金を出すことをアッラーに債権を貸しつけることだとしています。天と地の間のすべてを所有し給うアッラーは何も必要とされない自足し給う御方ですが、善行者に対して何倍にも返して下さるという見返りに人々をひきつけるための表現です。

 章は次の御言葉で締めくくられます:「そしておまえたちが自分たちのために前もってなしておく良いことがあれば、おまえたちはアッラーの御許でそれが一層良く、一層大きな報奨であるのを見出す。そして、アッラーは赦しを乞え。まことにアッラーはよく赦し給う慈悲深い御方」

 至高なるアッラーは、信者たちに現世で成した喜捨、崇拝行為などの善行の報奨を来世に見出すことを知らせ給います。彼らはこの報奨を、現世で行ったものよりも優れた形で見出します。「一層大きな報奨」の意味は:彼らのために来世に取り置かれた報奨は、現世で行った行為と比較すると、より大きくて良いものであるということです。「そして、アッラーは赦しを乞え。まことにアッラーはよく赦し給う慈悲深い御方」自分たちの罪や怠慢の赦しを懇願することです。至高なるアッラーは、彼に罪の赦しを求める者の罪を赦し、彼に悔悟して戻るしもべに慈悲を与え給います。

(参考文献:ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ タバーラカ/アフィーフ・アブドゥ=アル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーンP112~114)

73章解説【2】

2013年07月11日 | ジュズ・タバーラカ解説
11.そしておまえはわれを、恩恵の持ち主で(わが使信を)嘘と否定する者たちと共に、構わずにそっとしておくように。わずかばかり彼らを猶予せよ。
12.まことに、われらの許に足枷と焦熱地獄はある。
13.また喉を塞ぐ食べ物と痛苦の懲罰も。
14.大地と山々が振動し、山々が砕け散った砂丘となった日に。
15.まことに、われらはおまえたち(マッカの民)の証人である使徒をおまえたちに遣わした、ちょうどわれらがフィルアウンに使徒を遣わしたように。
16.だがフィルアウンはその使徒(ムーサー)に背き、それでわれらは彼を猛烈な捕獲で捕らえた。
17.それでおまえたちが信仰を拒んだなら、いかにして子供を(恐怖によって)白髪となす(最後の審判の)日を畏れ身を守るのか。
18.天がその(日の恐怖)によって、裂ける(日)。彼(アッラー)約束は成就されるものであった。
19.まことに、これ(クルアーンの威嚇的な諸節)は訓戒である。それゆえ、(救済を)望む者があれば己の主に至る道を取る(が良い)。

 続いて、嘘つき呼ばわりしている者たちへの脅迫の言葉が述べられます:
 「そしておまえはわれを、恩恵の持ち主で(わが使信を)嘘と否定する者たちと共に、構わずにそっとしておくように。わずかばかり彼らを猶予せよ。」

 つまり:われと、現世の欲と娯楽に浸っている輩を構わずに置いておき、彼らのことは気にしないように。また彼らのことなど考えなくてよい。われひとりで彼らには十分であり、彼らの清算はわれが引き受ける。おまえは彼らをほんのしばらくの間だけ猶予しておけばいい。早くとも遅くとも、彼らにはわれの罰が届くのである、という意味です。クルアーンは彼らのような嘘つき呼ばわりする者たちを:「恩恵の持ち主」と名付けています。彼らは、アッラーより与えられたすべての恩恵を優先したがるためにアッラーの教えを拒んだ人たちです。代わってアッラーのメッセージを信じ、それを実践することは、娯楽の一部や、貧しい層といった自分たち以外の人たちの利益のために至福の一部を放棄する必要があります。これこそが、彼らがイスラーム宣教の敵となる立場を取る秘密なのです。

 この嘘つき呼ばわりする者たちには来世では鎖と火と飲み込めない食べ物と痛苦の罰があります:
 「まことに、われらの許に足枷と焦熱地獄はある。また喉を塞ぐ食べ物と痛苦の懲罰も。」

 足枷は重く、焦熱地獄は来世における火の点いた罰の館です。喉を塞ぐ食べ物とは、アッラーがその館に準備し給うた醜い、それを食べる人の喉を詰まらせる食べ物です。そして痛い罰が加わります。

 次にアッラーは、最後の審判の日の恐ろしい光景を描写します:
 「大地と山々が振動し、山々が砕け散った砂丘となった日に。」

 大地と山々は不安定になり、その上に存在しているものたちを揺らします。その結果、山々は砂で出来た丘に変わりますが、最下部が動くと次々に崩れてしまいます。

 続いてアッラーは、その使徒ムハンマド(祝福と平安あれ)が誘おうとしていることを嘘とする者たちに、脅迫と共に語りかけ給います。同時に、フィルアウンとその民が、自分たちに送られた使徒に逆らった報復として起きた出来事にも言及し給います:
 「まことに、われらはおまえたち(マッカの民)の証人である使徒をおまえたちに遣わした、ちょうどわれらがフィルアウンに使徒を遣わしたように。だがフィルアウンはその使徒(ムーサー)に背き、それでわれらは彼を猛烈な捕獲で捕らえた。」

 使徒ムハンマド(祝福と平安あれ)は審判の日に、その民の不信と逆らいを証言します。アッラーはフィルアウンにムーサー(平安あれ)を使徒として送ったように、ムハンマド(祝福と平安あれ)をその民に送りましたが、フィルアウンとその民はムーサーに逆らったためにアッラーは彼らを厳しい罰、つまりフィルアウンとその軍を溺れさせるという罰で懲らしめ給いました。

 またアッラーは、不信仰者たちに審判の日の恐ろしさと彼らが受けようとしている罰を思い起こさせ給います:
 「それでおまえたちが信仰を拒んだなら、いかにして子供を(恐怖によって)白髪となす(最後の審判の)日を畏れ身を守るのか。天がその(日の恐怖)によって、裂ける(日)。彼(アッラー)約束は成就されるものであった。」

 つまり:もし、おまえたちが不信仰状態で居続けるのであれば、どのように自分たちの身を、子供たちの頭が恐ろしさの余りに白髪となってしまう日から守るのか。その日、空は、同じくその恐ろしさのために裂ける、という意味です。アッラーはこれらが確実に起こることを強調し給います。「彼(アッラー)約束は成就されるものであった」つまりアッラーの約束は間違いなく起こり、彼は約束を必ず守る、という意味です。

 続いて、既述された諸節が持つ目的の解明にクルアーンはかえります:
 「まことに、これ(クルアーンの威嚇的な諸節)は訓戒である。それゆえ、(救済を)望む者があれば己の主に至る道を取る(が良い)」

 アッラーは不信仰者を脅かすような内容をもつ既述の諸節を、自戒を望んで主の満足に到達出来る道を歩もうとする者に対する訓戒とし給いました。

(参考文献:ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ タバーラカ/アフィーフ・アブドゥ=アル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーンP110~112)

73章解説【1】

2013年06月13日 | ジュズ・タバーラカ解説
1.包まる者よ、
2.夜に(礼拝に)立て、少時を除いて。
3.(つまり)その(夜の)半分、もしくは、それより少し欠くほどか、
4.あるいは、それ(夜の半分)より増やせ。そしてクルアーンを滔々と読誦せよ。
5.まことにわれらはいずれ、おまえの上に重い言葉(クルアーン)を投げかける。
6.まことに夜の発現、それはさらに平坦で言葉もさらに廉直である。
7.まことに、おまえには、昼間は長い(生活のための)往来がある。
8.そしておまえの主の御名を唱え、彼に専従し仕えよ。
9.東と西の主、彼のほかに神はいない。それゆえ彼を代理人とせよ。
10.そして、彼ら(マッカの多神教徒)の言うことに耐え、彼らからきれいに(みごとに)身をかわし避けよ。

 この章が啓示された背景がいくつか伝えられています:

預言者(祝福と平安あれ)による人々への宣教活動を阻止するための策を講じようとクライシュがアン=ナドワ館に集まったという知らせがアッラーの使徒(祝福と平安あれ)に届くと、悲しみに覆われた彼は、ご自身をも衣服で覆いました。(服に包まったという意味)そして心配する中眠りにつきましたが、そこに大天使ジブリールが来て、言いました:「包まる者よ」つまり衣服に包まった者よ。そのような呼び名は預言者(祝福と平安あれ)にとって慰めでした。アラブの習慣として、呼びかけの相手の状態に合わせた呼び名で親しみを込めるということがあります。

また:ジブリールがヒラーの洞窟にいた預言者(祝福と平安あれ)の前に現れたとき、預言者(祝福と平安あれ)は恐れから震えながら家に帰りました。寝床に逃げた彼は、覆ってくれ、覆ってくれ、と言いました。預言者(祝福と平安あれ)がまさにそのような状態にあったとき、ジブリールがふと現れて、「身を包んだ者よ」と言い、その直後に「包まる者よ」が啓示されました。

また:預言者(祝福と平安あれ)が礼拝のために身を服で包んだところで、「包まる者よ」つまり崇拝行為の準備が整った者よ、と呼ばれたと言われています。

至高なる御方の御言葉:「夜に(礼拝に)立て、少時を除いて」は、崇拝行為のために少しの時間を除いて夜に立ちなさい、という意味です。ここで言葉は預言者(祝福と平安あれ)に向けられたものです。眠りを放棄して、崇拝行為のために夜は立ちなさいとの天からの呼びかけです。それは背負わされることになる重い責務に対する準備になるのです。それはほかでもない、アッラーへと人々を誘う仕事です。

この呼びかけが預言者(祝福と平安あれ)に向けられたものであるということは、同時に彼の追従者たちである信徒たちに向けられたものでもあるということです。皆が崇拝行為とアッラーへの誘いの責任を預言者と共有するためです。そのためにも信徒たちは預言者(祝福と平安あれ)の夜の礼拝における道をたどったのです。

これらがアッラーが定め給うた初期の任務です:寝床の放棄、礼拝・クルアーン読誦・タスビーフ(スブハーナッラーということ)・タハリール(ラーイラーハイッラッラーということ・罪の許しを請うといった行為を含むアッラーに捧げる崇拝行為を夜に行うこと。

夜中の崇拝行為が、軍に入ったばかりの兵士の訓練に匹敵することに注目しないわけにはいきません。ただし崇拝行為は違った種類の訓練です。それは実に、信者を創造主につなげ、魂を強くし、また活性化し、神の命令を受け入れやすい状態にする精神的訓練なのです。こういった面のほかに、夜中の崇拝行為は身体を鍛えて厳しさを受け入れる訓練となるいった面もあります。そうすることで魂は満足と忍耐で人生のさまざまな責務を負える準備状態に入れます。また安楽、思うが侭に欲を満たすといった危機感や重大な仕事の実行を弱めたりといった浪費者たちの状況を避けることもできます。つまり夜の崇拝行為は、初期の信者たちが卒業して行った信者の小学校であるということです。だからこそ人々のために輩出された中でももっとも優れた共同体なのです。この共同体こそが国々を解放し、導きと平等を各地に広めたのです。

アッラーは崇拝行為に関して仰せになっています:
「夜に(礼拝に)立て、少時を除いて。(つまり)その(夜の)半分、もしくは、それより少し欠くほどか、あるいは、それ(夜の半分)より増やせ。そしてクルアーンを滔々と読誦せよ。まことにわれらはいずれ、おまえの上に重い言葉(クルアーン)を投げかける。」

夜における崇拝行為は夜の半分かそれより少しだけ短い時間、つまり夜の三分の一よりも少なくない時間に行われなければなりません。魂の研磨と創造主とのつながりにおいて求められている効果と成功した行動を生み出すためです。それか夜の半分としても良いが、長い崇拝行為によって求められているものの逆の効果、つまり体が弱まってしまって、それ以降の生活に支障が出てしまうことがないように三分の二以下としてもよい。「そしてクルアーンを滔々と読誦せよ」の意味は、字の判読とともにじっくりと考えながら一節一節を読め、意味についての熟考のない読み方ではいけない、です。それには、無理のない程度での美しく読もうとする試みも含まれます。「あなたたちの声でクルアーンを飾りなさい」というハディースも存在します。

「まことにわれらはいずれ、おまえの上に重い言葉(クルアーン)を投げかける」つまり、ムハンマドよ、導き・英知・正確さ・明解さにおいて人間の言葉を超える尊く重い言葉-クルアーン-をいずれ啓示する、という意味です。または、クルアーンは、人々が慣れ親しんだ間違った信条の放棄や受け継いできた腐敗した習慣の放棄の要求を含むことから、人々にとって重くて踏み込みにくいものとなるだろうという意味です。

そこでアッラーは、崇拝行為のために夜の間立ち、クルアーンを読むことの英知を解明し給います:
「まことに夜の発現、それはさらに平坦で言葉もさらに廉直である。まことに、おまえには、昼間は長い(生活のための)往来がある。そしておまえの主の御名を唱え、彼に専従し仕えよ。東と西の主、彼のほかに神はいない。それゆえ彼を代理人とせよ。」

夜の発現とは、夜の時間帯すべてや、その間に行われるクルアーン読誦や礼拝などの服従行為のことです。だからそれは「さらに平坦で」つまりさらに足がしっかりと地につき、混乱から離れており、昼間よりも礼拝する者にはより重いものだ、ということです。「言葉もさらに廉直である」より正しい言葉ということです。夜における静かな声、動きの少なさは、クルアーンの意味についての熟考と礼拝における畏敬の念の高まりを助けます。

「まことに、おまえには、昼間は長い(生活のための)往来がある」つまり、昼間には用事を済ませたりする十分に空いた時間がある。だからこそ、夜間にやり逃した崇拝行為があるなら、昼間にそれを取り戻せばいいだろう、という意味です。「そしておまえの主の御名を唱え」おまえに対して創造と調教の義務を負い給うたアッラーの御名前を唱えなさい、という意味です。「彼に専従し仕えよ」彼のために崇拝行為に専念し、意志を純正化し、彼以外の存在を彼とともに配置しないこと。タバットゥルとは:現世から離れてアッラーに向かうことを指します。「東と西の主、彼のほかに神はいない」他でもない至高なる彼こそが東と西の所有者です。「それゆえ彼を代理人とせよ」彼おひとりのみを頼り、降参し、よりどころにしなさい、という意味です。

(参考文献:ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ タバーラカ/アフィーフ・アブドゥ=アル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーンP107~110)


74章解説【5】

2013年05月30日 | ジュズ・タバーラカ解説
49.それで彼らはどうしたというのか、訓戒から背を向けるとは。
50.彼らはまるで驚いてどっと逃げ出したロバたちのようであった、
51.ライオンから逃げ出した(ロバたちのようであった)。
52.いや、彼らの誰もが開かれた書簡が自らにもたらされることを望む。
53.断じて(そんなことはありえない)、いや彼らは来世を恐れない。
54.断じて、まことに、それ(クルアーン)は訓戒である。
55.それゆえ、望んだ者はそれ(クルアーン)を心に留めた。
56.だが、アッラーが望み給うということがなければ、彼らは心に留めない。彼は畏怖にふさわしく、赦しにふさわしい御方。
  続いてアッラーは、導きに誘おうとした人間から逃げた集団について軽蔑して描写します:
  「それで彼らはどうしたというのか、訓戒から背を向けるとは。彼らはまるで驚いてどっと逃げ出したロバたちのようであった、ライオンから逃げ出した(ロバたちのようであった)。」
  ここでクルアーンは自問します:多神教徒たちはどうしたことだろう。「訓戒から背を向けるとは」つまり彼らに向けられた、このクルアーンを使ったアッラーの訓戒に背を向けている。彼らはそれに耳を傾けて益を受けようとしないということです。「彼らはまるでロバたちのようであった」野生のロバを指します。「驚いてどっと逃げ出した」恐怖のために逃げ出しています。彼らは「ライオン」から逃げました。ライオンを追う狩人たちを指すともいわれます。
  続いてクルアーンは、預言者(祝福と平安あれ)に嫉妬心を抱く者たちの心理状態を描写します:
  「いや、彼らの誰もが開かれた書簡が自らにもたらされることを望む。断じて(そんなことはありえない)、いや彼らは来世を恐れない。」
  クルアーンは、アッラーが御選びになり、そして彼だけに啓示を授け給うた預言者(祝福と平安あれ)に対する嫉妬を明らかします。また彼らの一人ひとりがこの位を渇望していること、そして一人ひとりが自分だけの特別の開かれた書簡が与えられ目の前で開かれることを望んでいることも明らかにします。「断じて(そんなことはありえない)」つまり無益な望みなど捨てるよう、との意味です。「いや彼らは来世を恐れない。」彼らの来世を恐れない態度と、再生と清算に対する否定こそが彼らを腐敗させ、クルアーンによって訓戒を得ることから背を向けさせたのです。なぜなら彼らが来世を恐れたであれば心は改悛し修正されたはずだからです。
  続いてアッラーは次の御言葉で章を締めくくり給います:
  「断じて、まことに、それ(クルアーン)は訓戒である。それゆえ、望んだ者はそれ(クルアーン)を心に留めた。だが、アッラーが望み給うということがなければ、彼らは心に留めない。彼は畏怖にふさわしく、赦しにふさわしい御方。」
  「断じて」つまり来世を甘く見る態度を改めよという意味です。「まことに、それ(クルアーン)は訓戒である」まことにクルアーンは何を信じ、行わなければならないのかを彼らに思い出させる。「それゆえ、望んだ者はそれ(クルアーン)を心に留めた」それより訓戒を得、その中に書かれたアッラーの命令と禁止を実践した。「だが、彼らは心に留めない。」彼らはこのクルアーンから訓戒を得たり益を得ない。「アッラーが望み給うということがなければ」存在するものすべてはアッラーの御望みという存在すべての天命を征服しているものに帰る。私たち人間はその一部でも知ることはありませんが、命令や禁止といったアッラーが私たちに何を望み給うているかは知ることができます。至高なる彼こそは「畏怖にふさわしく」つまり畏れられ、彼の罰が怖いものだと認識されるに値する存在であるということです。それなのになぜ彼を恐れないのか、人々よ!また彼は:「赦しにふさわしい御方」なぜなら彼は彼を畏れ彼の導きに従った者を赦し給うからです。それなのになぜお前たちは主に帰らず(悔悟せず)、自分たちが犯した罪に対する赦しを彼に求めないのか。
  (参考文献:ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ タバーラカ/アフィーフ・アブドゥ=アル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーンP130~131)