退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「美しい誤解と青春」について

2016-11-25 02:23:14 | Weblog
晴れ。夜にはタバコを吸わなくても口から煙が出る。

片野ゆか「動物翻訳家」を読む。

ペンギン、チンパンジー、アフリカハゲコウ、キリン。
「動物園」という「檻」に入れるならせめて快適にという飼育員たちの働きよ。

「同じ言語」は話せなくともどこか「伝わるもの」がある。
その様子を生き生きと映し出す著者の描写は見事。

「環境エンリッチメント=環境を豊かにする」という言葉を初めて知る。
いかにも「不細工」だけれどその内容は悪くなく。

つい最近までキリンのエサがウシのそれを基準にされていた事実には驚くのみ。
その後の飼育員の対応は素晴らしいものの。

この「世界」の「貧しさと豊かさ」を同時に知った感じ。
「コミュニケーションが不可能であること」を承知の上での「美しい誤解」がここにはある。

おそらく人間同士でもそれは同じで
逆にその「事実」が浮き彫りにされているように思えてなるほど。

すべてがうまくいくわけではない。
だからこそうまくいった「実例」が輝きを帯びる仕組み。

フェデリコ・フェリーニ「青春群像」(’53)を観る。

今から60年以上前のイタリアの若者たちのあれこれ。
「男同士の連帯の強さ」と「マザコンぶり」がたっぷり。

ここでも「予期せぬ妊娠」が事態を動かす。
「泣くばかり」の母親や若妻がいる一方で女優たちはいかにもな「大人」。

「祭り」の喧騒とその後の対照がなかなか。
「浮気者の夫」はさんざん遊んでおきながら妻の元へ戻り。

貧しい暮らしの中で夢を見ながら若者たちはそれぞれに「経験」を積む。
すべてを見守ったモラルドが最後に「旅立つ」のにふむふむ。

「小さな駅員」グイドとの束の間の「交流」は「ファンタジー」の趣き。
原題は「雄牛」でニーノ・ロータの音楽が素敵。

後年の「ファンダンゴ」(’85)では若き日のケヴィン・コスナーが同じような振る舞いを。
ちなみに「ファンダンゴ」の意味は「馬鹿騒ぎ」でもある。

国を問わず「青春の有り様」に変わりがないことをあらためて。
「過去に若者だった者」は敢えて「武勇伝」を語らずむしろ「失敗談」を披露していただきたいところ。

「過去」を飾る者たちの「現在」を思うと
それはちょいと「哀しいこと」だったりするので。
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