退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「現代の寛容ぶりもしくは『コミュニケーション』」について

2018-01-15 02:25:52 | Weblog
晴れ。風なく寒さも緩む。

武田砂鉄「芸能人『寛容』論 テレビの中のわだかまり」を読む。

「特に語られないまま『一線』にいる」という切り口よ。
「芸能人」としてはいいとして「芸能」としては微妙なような。

EXILEやaikoに対する「違和感」には賛成。
マツコ・デラックスが「毒舌」ではないというのにも納得。

そうした分析にはうなずきつつどこか「物足りなさ」を覚えて。
敢えて言えば「余技」といった印象が濃く。

著者本来の持ち味はここではなかろうといった感じ。
おそらくこの種の「判断」にはもっと「喝破」が必要なはず。

もっともこれが「現代の寛容」なのだと言われればふむふむ。
「わだかまりを抱えつつ受容するということ」なのかもしれず。

難しい時代だなと思うことしきり。

さて。

このところ「嘘を愛する女」という映画の宣伝で高橋一生を見ることが多く。
彼の魅力としてまず最初に気付くのが「声のよさ」。

「冷静な知性」をイメージしやすい一方で
「何を考えているのかわからない」謎めいた感じを与えやすく。

こういうキャラクターに「魅力を感じる理由」とは何か。
実は「自分に都合のいい妄想の材料」としてピッタリということ。

「妄想」の基本は「安全地帯にいながら好きにできること」。
要は「実際の相手がいない世界」。

なるほどそいうことかと思った次第。

がしかし。

よくよく考えてみれば「普通のお付き合い」も結局それと同じ。
その行方が幸いならいいのだけれど。

コミュニケーションって何だろうとあらためて思う。
それぞれが「ひとり上手」と呼ばれても仕方あるまい。
コメント
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