退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「『存在証明=アリバイ』のために生きないこと」について

2017-09-09 02:03:09 | Weblog
快晴。風は秋の気配。

「政治的ロマン主義」読了。

最後まで調子は変わらず。
「状況次第」で「主張を変える者たち」の群れよ。

何やらどこかの国の「評論家」の姿に似ていなくもなく。
彼らは「現実」を「自分を愛するための材料」にしかしない模様。

意味ありげな言葉で意味ありげなことを言い
自分が「何者か」であることを「証明」したいのだと。

そのくせ自分では「何も生み出さないもしくは生み出せない」。
なるほどこの種の「存在」は時代を問わず各地で見られる。

「好きなこと」をして楽しく暮らせばいいのに。
蓮實重彦「凡庸な芸術家の肖像」を思い出した次第。

そう言えば。

そのためにはそれなりの言葉や知識が必要になることは確か。
それを「手軽」にしたのが「他人のアラ」に突っ込むことか。

いずれも「存在証明」のためだとしたら虚しいこと。
「証明しなければ存在できないようなもの」は実は「なくっていい」。

むしろ自らが「証明しなければならない存在」であることを語るのみ。
ずいぶん「哀しいこと」ではないのか。

この「逆説」に気付くといいのだけれど。
「時代を問わない」ことを思えばなかなか難しいことのようではある。

もっとも「返す刀」で自分が斬られる覚悟もないと。
「好ましい緊張感」はそのためにも必要なはず。

何度でも繰り返すが「どう生きようと自由」。
それぞれの「実験」は何がしか「惹かれるもの」があるくらいがちょうどいい。
コメント
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