晴れ。おだやか。
三中信宏「分類思考の世界」を読む。
収集した標本の数が増えすぎて手に負えなくなって以降
それらを「いかに分類するか」という「問題」が生まれた模様。
「種」をいろんな基準で分けるのもいいけれど
そもそも「種とは何なのか」という定義が実は難しいらしい。
たとえば「雌雄を掛け合わせて子が生まれるか」という基準にしても
雌雄もなく「体細胞分裂」する生物を無視してしまうことになったり。
その当時の「流行」に従って
数式ですべてを説明してしまおうという時期も。
個人的には「いろんなヤツがいる」で何の問題もなく
仮に分類するにしても「とりあえずの基準」で十分のように思われるのだが。
たとえば中越典子と武井咲は「似ている」と思うものの
それを「誰もが認めること」にしようとは思わない。
賛成も反対もあってよく
ただ「自分なりに確信を持ってそう思う」だけでいい。
若い頃の乙羽信子と長澤まさみも「似ている」し
淡谷のり子と中島美嘉も「似ている」。
もちろん同じ「似ている」という言葉を使いはするが
厳密に言えばその「中身」は違うわけで。
敢えて言えばそうした「似ている」に対しての「リアクション」がどう出るのかということ。
そこから「始まる」ものが楽しければそれで満足。
「位相幾何学(トポロジー)」においては
「ドーナツとコーヒーカップは同じ形」というのも有名な話。
おそらくあとはそのことを「面白い」と思うかどうかだけだろう。
三中信宏「分類思考の世界」を読む。
収集した標本の数が増えすぎて手に負えなくなって以降
それらを「いかに分類するか」という「問題」が生まれた模様。
「種」をいろんな基準で分けるのもいいけれど
そもそも「種とは何なのか」という定義が実は難しいらしい。
たとえば「雌雄を掛け合わせて子が生まれるか」という基準にしても
雌雄もなく「体細胞分裂」する生物を無視してしまうことになったり。
その当時の「流行」に従って
数式ですべてを説明してしまおうという時期も。
個人的には「いろんなヤツがいる」で何の問題もなく
仮に分類するにしても「とりあえずの基準」で十分のように思われるのだが。
たとえば中越典子と武井咲は「似ている」と思うものの
それを「誰もが認めること」にしようとは思わない。
賛成も反対もあってよく
ただ「自分なりに確信を持ってそう思う」だけでいい。
若い頃の乙羽信子と長澤まさみも「似ている」し
淡谷のり子と中島美嘉も「似ている」。
もちろん同じ「似ている」という言葉を使いはするが
厳密に言えばその「中身」は違うわけで。
敢えて言えばそうした「似ている」に対しての「リアクション」がどう出るのかということ。
そこから「始まる」ものが楽しければそれで満足。
「位相幾何学(トポロジー)」においては
「ドーナツとコーヒーカップは同じ形」というのも有名な話。
おそらくあとはそのことを「面白い」と思うかどうかだけだろう。