退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「本当のこと」について

2011-03-19 03:15:50 | Weblog
繰り返すが
福島第一原発が本当にヤバイ。

本当のこと」を知らせない政府・東京電力のヒドさよ。

日本国民はいたずらにパニックに陥るような「愚民」ではない。
この「未曾有の事態」が「人災」であることを知ろう。

TVに出ている「専門家」はほぼ「御用学者」だと思っていい。
根拠もなく「安全」を言い立てるだけの存在。

「現在の限られた事実」を伝えることに何の意味があるのだろう。
「危機管理」というのは「最悪の事態」まで想定した上で対処すること。

その「当然」が出来ないなら何の「統治」か。

この「デタラメさ」には哄笑するしかないものの
一方多くの人々の「生活」が脅かされている。

そもそも圧倒的な化学反応に「水をかける」だけの無意味さは誰にでもわかるし
それが事故発生から相当の時間を経てようやく行われる「バカバカしさ」。

ひょっとしたら日本列島の真ん中が「真空地帯」になる危険性もあるのに。

ひとつだけ「希望」があるとすれば
この「最悪」を経験することによって人々が「自発性」を発揮する「源」になること。

「馬鹿野郎たちの横行」はもう見逃せない。
「時代の要請」という形でひとりひとりが受け止めよう。
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「反抗するものとしての知性」について

2011-03-19 02:01:43 | Weblog
晴れ。寒さはやや緩む。

ハンナ・アーレント「過去と未来の間」を読み始める。
仲正昌樹「今こそハンナ・アーレントを読み直す」の誘いを受けてみた格好。

ギリシャ・ローマから「大局を見る」あたりのスケールはさすが。
歯が立たないところも少なくないけれど「確かな知性」は十分に感じられる。

マルクスやニーチェの捉え方が興味深い。
なるほどそういうことでもあったのかと思うことしきり。

これはちょいとハマってみる価値がありそう。
追々あれこれ読んでいこう。

「ニュールンベルグ裁判」を傍聴したはずの開高健が
「過去と未来の国々」という作品のタイトルを付けたのはここが元だったと今更気付く次第。

あくまで印象に過ぎないのだけれど
「全体主義」というのは「『公式の祭り』に参加できなかった人々の『祭り』」のような。

どこにも「自分」を刻めなかった人々が
「時勢」に乗るという感じがする。

ただしもしそこに「謙虚な気持ち」があるなら
「なぜ自分はそこで乗りたがるのか」という「反省」もあっていいだろう。

さまざまな「鬱屈」をそもそもなぜ「鬱屈」だと自分は思うのか。
そうした「判断」を下す自分はどういう「ルール」の中でそう判断したのか。

もっともそれが望むべくものではないことは重々承知の上で。
「情動に流される」のは人の「基本」。

その「基本」を知るがゆえに「反抗するもの」。
とりあえずそれが「知性」だということにしておく。
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