退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「出来るなら=虚心坦懐」ということについて

2011-03-24 02:21:58 | Weblog
晴れのちくもり。だったと思うがとりあえず冷える。

クリストファー・ラッシュ「エリートの反逆」読了。

著者はどうやら「『道徳』としての宗教」が機能しなくなったことを憂えている模様。
その一方で「宗教はアヘンだ」と言ったマルクスがいたりするものの。

いわゆる「エリート」と「一般大衆」の「接点」が圧倒的に失われてしまい
それをフォローするはずのアカデミズムも自分の「生き残り」しか考えていないと。

もちろんある種の「論理」を突き詰めるとそこに「正解」が失われるのはもはや「自明」。
その理由は単純で「世界は人が思うより複雑だから」。

むしろあらゆるものを「コントロールできる」と思うのが「不自然」で
もしできるならやってれば、というお話ではある(相当に迷惑なお話だけれど)。

「エリート」あるいは「専門家」たちは
互いに共有する「論理」のみをいたずらに重んじるだけで。

それらをふまえてみると
実は前近代的な「宗教を信じる」という在り方が効果的だったりするのだという視点。

いずれにせよ人が考えられることは「たかがしれている」。
互いにもっと「謙虚」であるべきだというのが当面の「倫理」だろう。

「だからダメなんだ」ということは誰にでも言えるとして
「どうしたらいいいのか」ということについて「知恵」を集め「実行」するしかない。

その際の「最低限のルール」として
「いいものはいいこと」と「ダメなものはダメなこと」を互いに率直に認めること。

自説の「正しさ」をいたずらにあげつらわないこと。

あらためて「目的=到達地点」を思えば
人は案外「同じ方向」を向いているもの。

ところが「歴史」はそうした「ナイーブさ」を「戯言」だと証明している。

さて。
どうしたものか。

とりあえず虚心坦懐に「議論」しよう。
コメント
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