ピッコロ便り

ピッコロシアター、県立ピッコロ劇団、ピッコロ演劇学校・ピッコロ舞台技術学校など、劇場のトピックをご紹介します。

【掲載情報】韓国・仁川日報でピッコロ劇団が紹介されました。

2011年04月10日 | ピッコロ劇団

東日本大震災のニュースは世界を駆け巡っていますが、連日報じられているのは被災地の惨状や原発事故の動向ばかりではありません。

ピッコロシアターに友好的な韓国富平アートセンターチョ・ギョファン館長が演劇人の視点から阪神・淡路大震災での県立ピッコロ劇団の被災地激励活動などを検証し、「芸術や文化には心の傷を癒す効果がある」と3月14日の仁川日報に寄稿しています。

以下全文を紹介します。

 

文化事業専門員 高井

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2011年3月14日月曜日     オピニオン      第6673号 仁川日報

<文化散策>

チョ・ギョンファン/富平アートセンター館長

 大災害で日本全土が衝撃を受けている。筆者だけでなく、皆さんも同じ気持ちだろう。

このような災害において、われわれ芸術家の果たすべき役割は何であろうか。先日、芸術教育視察のため、兵庫県にあるピッコロシアター(兵庫県立尼崎青少年創造劇場)を訪れ、教科過程や卒業公演を見てきた。ピッコロシアターは1995年に発生した阪神・淡路大震災当時、ピッコロシアター附属県立ピッコロ劇団が、地域密着型の劇団として凄絶なまでに文化芸術活動を行ったことで有名な所だ。

 ピッコロシアターは大ホール396席、中ホール200席、小ホール100席の、言葉通りの「小さい劇場」だ。開館5年目の1983年に、記念事業としてピッコロ演劇学校を開校し、1992年に舞台技術学校、1994年には県立ピッコロ劇団を創立したが、翌年、震災で一時劇場業務を中止し、5ヶ月間に64ヶ所で慰問公演を行った。これについてピッコロシアター・藤池現館長は、「初めは、大震災で大変な状況の中で、演劇をお見せするのは市民に抵抗感を与えてしまうのではと悩んだ」と振り返った。

 そこで、演劇というより、子どもたちと一緒に遊ぶ「演劇ごっこ」の形でアプローチした。子どもたちに笑顔を戻してもらいたい、夢と希望を与えたいという思いからだった。

 電車ごっこをしたり、一緒に歌を歌ったり、イベントで街中を巡り歩いたりした。地元企業からの協賛品を地元の方々にお配りするイベントも開いた。老人ホームを訪ねてお年寄りの方々と一緒に踊ったりもした。

 巡回活動を終え、ピッコロシアターで劇団代表の秋浜悟史氏が台本を書き、演出をした『学校ウサギをつかまえろ』(注:原作=岡田淳)を上演した。学校の飼育場から逃げ出したウサギを先生や生徒たちが知恵を絞って探すという内容で、ピッコロ劇団が被災地域の子どもたちに希望を与える応援歌だった。その後、再び被災地域を訪れ、心の傷を癒すために住民たちと演劇を通じた活動を継続した。

当初、若い団員たちは日本初の県立劇団としてのプライドを持ち、マスコミからスポットライトを当てられ、地元のスターという意識があった。しかし、大震災が起きてから、俳優という職業のあるべき姿について悩み、公共劇団の持つべき使命感や社会貢献というものを肌で感じることで、彼らはより成熟した考え方を身につけた劇団員へと成長できたのだ。大震災以降、ピッコロ劇団の活動には目覚ましいものがあった。中学や高校で演劇指導にあたったり、地域間の交流公演を活発に行った。演劇セミナーも数多く開催し、市民演劇創造活動に貢献した。「待つ」ではなく「訪ねていく」という概念が立ち上げられ、今のピッコロシアターのひと味違うコンセプトにつながったのだ。

現在、劇団は定員が35名に増えており、これまでの17年間、地元の方々から支えられ続けながら存在感を発揮している。今や地元だけでなく、他の地域でも公演を行い、兵庫県の代表的な文化芸術の象徴としてその根を下ろしている。そこには、大震災時の慰問公演を、劇団員と話し合いながら積極的に取り組んだ実行力が高く評価される。

日本は地震が多い国だ。常にそれに備えてはいるが、それでもなお恐怖心も残っている。大震災時に文化芸術分野が社会に貢献するべきだということについては、先の阪神・淡路大震災以降、社会的な共感が得られたと言える。芸術、そして文化には心の傷を癒すカがあるということ、それは文化芸術に関わっている者すべてにとって、反芻してみる価値がある。被災地の一日も早い回復と安定を、隣国の国民としてお祈りする。