まだ陽があるうちにホテルに向かう。
左手に赤城山系をみて関東平野の玄関口が宇都宮。
宿はホテル東日本宇都宮、GoToキャンペーンで大幅割引だったので2食付きにした。
食事は和洋中が選べ、和食のコースにした。
レストランにはほとんど客がおらず気の毒になる。
部屋も快適だった。
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左手に赤城山系をみて関東平野の玄関口が宇都宮。
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食事は和洋中が選べ、和食のコースにした。
レストランにはほとんど客がおらず気の毒になる。
部屋も快適だった。
世良田から新田荘を行き足利に入る。
ちょうど関東平野の北の端、赤城山の裾野を回って行くと唐沢山城址。
市街地から北上して城山に入っていくとなかなかの登山ルート。
クネクネと曲がる道を行き、標高247mの山頂に着くと城址入口。
唐沢山城は中世の名城のひとつであるが現在では神社の方で有名らしい。
広大な駐車場があり土産物売場も観光地然としている。
唐沢山城は上杉謙信が傘下の国衆を率いて猛攻数度、ついに落とせなかった城として名高い。
城の始まりは延長年間に俵藤太藤原秀郷が築城したことで、その子孫佐野氏が居城として手を入れ続けた。
佐野氏は鎌倉公方と管領上杉氏らが始めた関東争乱、北条氏の野望に巻き込まれたものの上手く生き延びた。
立地上、上杉謙信の関東乱入の際には真っ先に攻められる運命にあり雪解けの頃になると謙信がやってきて猛攻を加えられた。
以後、謙信に囲まれれば帰順、上杉が春日山に帰ってしまえば北条方に復すといった外交術で謙信をいらだたせた。
結局謙信は唐沢山城を落とせなかったのである。
その秘訣は城の縄張にあることは登城していくルートですでに解りかけた。
城の虎口にたどり着くまでにひと山登ってくればよいという訳にはいかず複雑かつ急峻な地形を押し登らねばならない。
楠木正成の千早城を攻める幕府方のような様相であったかもしれない。
さてレストハウスの駐車場の端が虎口、喰違となっていて桝形のように作られている。
ここが西城、堀切にかかった橋を渡ると本丸を含む主要部となる腰曲輪が続いていて南城に至る。
この間上からは横矢が常時かけられるように設計されている。
社務所があるところが南城、眺望が開けていて関東平野を一望、はるかに箱根の方まで見通せる。
謙信に攻められていれば頼みは北条勢の後詰め、援軍はいかにという気分を目にできることは城兵の士気に影響しただろう。
本丸には神社社殿が置かれていてその周囲には高石垣が巡っている。
佐野氏の治世に築かれたものではなさそうで神社整備の際に整備されたのではなかろうか。
防衛上、石垣は関東においては効果は薄く土造りの土塁の方が山城では攻めにくい。
本丸は二の丸を始め堀切で分断された小さな曲輪が取り囲んでいる。
駐車場からは高低差はそれほどでもなく見物に体力が必要でもない。
天気がよければ眺望もよく山城好きには格好のいい城といえよう。
城跡のあちこちに野良ネコが参集しており壮観。
居心地がいいのか人々の世話が行き届いているのかどのネコも丸々と太りのんびりしている。
動画リンク
杉山城から北へ行き利根川を渡ると太田市。
クルマ好きにとってはSUBARUの町であるが、歴史好きからすると武士の聖地でもある。
太田市で発祥するのが新田氏、その向こう渡良瀬川を越えた山際が足利氏の本貫となる。
新田と足利は清和源氏の血脈を濃く持ち、宗家頼朝の家系が途絶えると源氏の棟梁に近い地位を得た。
平氏の流れを汲む執権北条氏が専横を極めると鎌倉に出仕していた足利高氏が後醍醐帝の誘いを受けて挙兵した。
一方、新田はこれに呼応して鎌倉へ乱入、北条氏滅亡を果たす。
以後の政局は京の支配をめぐって混沌とし関東は江戸時代まで首都の座を西国に譲る。
家康が入国するまでの関東は事実上独立地域として鎌倉公方と関東管領たちが関東平野の国衆を操って戦国を過ごしている。
新田庄あたりをウロウロしていると鼻息荒い源氏のことを思い出して気持ちが晴れやかになる。
さて徳川氏は三河松平郷の主となり西三河の覇者となっていくのであるが途中、氏族の綺羅を考えて「徳川は新田の末裔」と名乗り出した。
八幡太郎義家の孫、義重は新田庄を得て新田氏を名乗りその四男義季が得川を苗字としたという。
新田の得川の末裔という徳阿弥なる時宗の遊行僧が三河山奥に流れていって松平太郎左衛門に気に入られて居着いた。
養子となった徳阿弥が松平親氏、その9代後の子孫が家康となる。
家康は織田信長と同盟してその派遣の傍にあり、信長の中立ちで徳川の苗字に復して徳川氏の祖となる。
そんな経緯で世良田が徳川将軍家の故郷となったのであるが、徳川氏が新田氏の末裔という説は歴史家のほとんどが詐称と言い切っている。
また家康嫌いの司馬遼太郎さんがその小説の中で意地悪な書き方をしたことから家康は全国的に不人気であるから、太田市が徳川の故郷という意識は一般に低いだろう。
最近では太田市でも得川を徳川と称したとしているようで要は「徳川の故郷」を観光資源にしたいらしいがどうなることやら。
世良田に鎮座するのが東照宮。
これは将軍家にとって当然の処置であろう。
そんなことで北関東をぐるっと回る途中、東照宮に寄り道してみた。
一帯は太田市歴史公園として整備されており資料館があったので入ってみた。
玄関前広場には太刀を捧げる新田義貞の銅像。
ホールには大河ドラマ「太平記」で足利尊氏役の根津甚八、脇屋義祐役の石原良純が着用した甲冑が展示されていた。
今年の裏大河で太平記が放映中なのでタイムリー。
よく出来たレプリカで30年前の制作時に使用されたものとは思えない保存状態。
思わぬ眼福であった。
東照宮の方は財の投入規模は日光などとは比べようもなく、松平の東照宮クラス。
それでも境内はきれいに掃除されていて神職の若い人も親切だった。
菅谷館から北へ5kmに杉山城、続日本100名城に指定された。
近年発掘調査が行われて山内扇谷両上杉氏の抗争下で山内上杉氏により築かれたと考えられている。
さらに地元ボランティアの方々によって草刈りなど整備が行き届いており山城愛好家の間で高評価という。
駐車場は城山の北側にあって中学校の間を抜けていくと大手口に続く外郭が現れる。
市野川沿いの独立丘陵の尾根を削平して丸ごと要害化されており尾根の頂上が本郭、尾根筋に沿って曲輪が配置され北へ抜けると搦手口に至る。
杉山城の縄張は非常に凝った作りをしており敵兵の進行をいかに妨げいかに横矢を入れるか入念に設計されている。
一見、自然地形にみえるが人工的に深く空堀を設け、切岸を作っている。
杉山城の素晴らしい景観は人手によって整備が行き届いているところにある。
土の城にとって一番厄介なのは樹木、雑草。
特に巨木は眺望を損なうだけでなく縄張の妙をわかりにくくする。
その点、杉山城は南側は完全に樹木が伐採され地肌がよくみえる。
これは発掘調査が行われてまもないからと思われるがいつまでも維持していってもらいたい。
三島の山中城と並び中世城郭を学ぶ上でいい教科書といえるだろう。
嵐山町のこのあたりには中世城郭がいくつも築かれ国の史跡として菅谷館、杉山城の他に小倉城、松山城が選定されている。
松山城は北条氏が受け継いで要害化、秀吉の北条征伐時に北からやってきた上杉前田の連合軍によって陥落した。
真田昌幸、信幸親子も参加している。
https://www.youtube.com/watch?v=JNYzme-Y75U
コロナ禍で取材撮影もままならない日々が続いている。
夏場を過ぎてようやく収束気味となってきたがワクチン流通の先行きがみえない以上まだまだ予断を許さない状況である。
そんな不穏な世情の中、GoTo travelなる政府のキャンペーンが行われていて格安で宿泊できる。
この機をとらえて小旅行を企画した。
メインの目的はツインリンクもてぎの中のHONDAコレクションホールを訪ねること、一度は行かねばならぬと思っていた施設である。
宿を宇都宮にとり1日目は続100名城に指定されている埼玉西部の城を訪ねることにした。
快晴の中出発、まずは「菅谷館」を訪問、開館前なので先に城跡を見て回る。
比企郡菅谷にあるこの城はその地名の通り平安末期の武家草創期には比企氏の勢力下にあった。
比企氏は源頼朝の乳母の甥、比企能員が引き立てられたが鎌倉幕府草創期、北条氏との政争に敗れて没落した。
次に一帯の主となった畠山重忠が居館を当地に置いたことから重忠ゆかりの地とされているようだ。
しかし重忠もまた権力闘争の末に討ち死にする。
菅谷館が100名城に選定された背景は鎌倉期の史跡というよりも中世の山城として遺構がよく残っているからといえる。
城址を巡ってみれば川を背負った河岸段丘に段差を利用して曲輪を作り、空堀と土塁で要所を防御している。
それほど広大というわけでもなさそうだが案内文によれば東京ドーム3個分の敷地という。
朝の散歩にちょうどいい縄張と高低差。
三ノ郭の資料館に寄ってスタンプを押して杉山城に向かう。