扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

沼津港のかき揚げタワー -丸天のかき揚げ丼-

2010年05月25日 | ご当地グルメ・土産・名産品

山中城址から1号線を西へ降りていき三島に入る。
雲が張り富士山は見えない。

晩飯は沼津港の魚河岸に店がある丸天にした。
私は天丼が好きなのであるがここのかき揚げ丼はすごい。
専用器で揚げていると思うがとにかくでかいというか高い。

さしものかき揚げ好きも完食は果たせず撤退。

ウェブをみると欧州の株式・為替が暴落していて落胆、暗い気分のまま1号線を西へ向かい東名に入ることなく豊田まで行った。
5時間かかった。

 





100名城No.40 箱根の大手門、山中城

2010年05月25日 | 日本100名城・続100名城

一夜城を北へ降りたところが国道1号線、旧東海道である。

1号線を西に行くと箱根湯本駅前、箱根ホテルなどがあって賑わう。
芦ノ湖に出る手前あたりが1号線の最高標高点となり874メートルある。

箱根関所跡を過ぎ箱根峠を超えていくと道は下り坂になって三島市に降りていく。
この途中に山中城址がある。
山中城は北条氏が秀吉来襲に備えて急造した。

駿河から箱根を超えていく際にはこの山城を必ず落とさねばならない。
箱根を突破しようとすれば街道から左右の斜面を登ってゆかねばならない。
何せ山中城は文字通り東海道の「上」に街道を抱え込むように築かれているのである。
北条という関東の帝国の大手門といえる。
その点、西南戦争における田原坂と思えばよいだろう。

天正18年(1590)3月27日、秀吉軍は豊臣秀次を総大将に山内一豊など駿河遠江の軍兵7万で登ってきた。対する北条軍は4千。
わずか半日で落ちた。

とはいえ鎧袖一触という風ではなく豊臣軍も秀吉の旗本一柳直末が討ち取られ相当の被害を出した。津波のような勢いで押し流したというべきであろう。

北条は手先が器用であって城普請が上手であった。
山中城は北条流築城の最後期にあり技術の粋を集めた。
石垣は用いない。天守もない。野戦築城術という言葉がふさわしいかもしれない。

三の丸から上がっていくと巨大な空堀があり出丸の外面には障子堀、畝堀を巡らす。
障子堀とは障子の桟のように四角く土を盛り上げたもので縦横の迅速な移動を妨げる。
堀は手をかけるものがなくすべる。ずるずるとやっているうちに上から弓鉄砲で狙撃されるのである。

山中城はこの障子堀がよく復元され北条の築城術を垣間見ることができる。
西出丸の障子堀が有名だが今日は工事中であって立ち入り禁止になる。

工事をしている人を眺めていると機械で土を掘りまた揚げている。
戦国時代ではもちろん人手である。

大軍を引き受けてなかなか落ちなかった山城はいくつもある。
古くは千早城がそうであり、豊後岡城も落ちなかった。
戦国後期には攻め手の戦術が変化した。鉄砲が主兵装になると戦場が一変する。
鉄砲は火縄銃であっても有効射程は数10メートルから100メートルはあるからどれほど空堀が深くても対岸から撃てる。
攻め手は従卒をずらりと並べて城方を射すくめ堀にいろんなものを投げ込んで埋め、歩兵を突撃させ続ければいつかは落ちる。
土塁から矢を射るものは半身を露出するのだから狙撃すればよい。

城跡を巡っていると中世の理屈で造られた北条の防御と近世の理屈で攻めてくる豊臣軍の攻撃の有様がよくわかる。
豊臣軍の津波とは北条という中世帝国を押し流すものであったのである。

山中城が落ちると北条帝国の絶対国防ラインの諸城も危機にさらされる。
豊臣本軍の秀吉はそのまま箱根に入り小田原城を囲む。
囲んでしまうと秀吉は動かず、支城攻めは前田利家やら上杉景勝に任せて高見の見物をした。

早雲以来の韮山城、上野の松井田城、忍城、館林城、武蔵の八王子城、鉢形城が猛攻に晒され次々に落ちていく。
忍城は小田原開城まで持ちこたえたが戦局に寄与することはなかった。
北条の支城攻略は秀吉に対する忠誠と功名のために費やされなぶり殺しにされたのである。

山中城は落城後、打ち捨てられ埋もれた。
現在、発掘復元作業により往時の姿を取り戻している。
戦略の面からあるいは攻防を偲ぶには格好の素材であるといえよう。
 
 
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山中城址入口、道路は国道1号線

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縄張図、馬蹄形に山頂を削り街道を抱えるように曲輪を配す

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三の丸空堀、底面からの高さは8メートルに及ぶ

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西の丸障子堀、工事中でぬかるんでいるがこの姿の方が登りにくく実戦時に近い

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二の丸虎口、橋が架かる

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二の丸障子堀

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岱崎出丸の障子堀




続100名城No.126 移動する豊臣都市、石垣山城

2010年05月25日 | 日本100名城・続100名城

石垣山城は小田原城から川ひとつ超えた標高257メートルの山頂に築かれた。
北条氏の堅城小田原城を見下ろす。
天正18年(1590)箱根を超えて来襲した秀吉は80日かけて城を築いた。

西からやってきたのは軍勢だけではない。
豊臣政権の閣僚は全て参陣しているから政庁そのものが移動する。
勅使も来たし利休が来て、能役者も来た。女どもも来た。
石垣を用いた築城は関東以東ではここが初だという。
文明も西から来たわけだ。

秀吉の小田原攻めはこうだ。
小田原城を大軍で囲んで出られなくしてしまう。関東に散らばる支城は余力で閣個撃破する。
北条勢が殻に閉じこもっている限り本軍はやることがないから日々、暇つぶしに余念がない。
戦う方はたまったものではない。
ケンカしていて一番腹が立つのは敵が正々堂々と勝負しないことではないか。
北条5代の戦略とはとにかく城の内側に籠もって我慢し、相手が根を上げるまでじっと待つことしかない。
ただし、秀吉は根を上げなかった。政庁も私生活も娯楽も全て持ってきているわけだから飽くことはない。
商人までが群がって来るわけだから物資補給にも支障はない。

秀吉が箱根早雲寺に到着するのが4月5日、石垣山城が竣工するのが6月27日。
この間、様々なドラマがあった。
利休の弟子、山上宗二が箱根湯本で惨殺され、伊達政宗がぎりぎりで落城に間に合い、間に合わなかったものもいた。
家康は三河を取り上げられ眼下の関東平野に移ることを決断した。

石垣山城は「一夜城」ともいうが一夜でできたわけではない。
北条方からみえる面の天守ができた時、夜間に東面の樹木を伐った。北条からみれば一夜にて白亜の城が出現したようにみえたという。
対峙して3ヵ月、北条の運命を決定づけた一夜であったといえる。

石垣山城は城址公園として整備が進んでおり山城を探検するという感はない。
二の丸跡は一面芝生であるし、本丸・天守台の石垣も城跡というよりは枯山水の石組のようである。
物見台があり小田原の町を見下ろすことができる。
小田原攻めの際には小田原城は位置も北よりで天守もなかった。
おそらく青青と繁った樹木の中に細々とした砦群があり、それを包囲する天下の大軍の旗が無数にはためき武者がたむろっていたのであろう。

豊臣の天下に抗する最後の障害は確かに彼の掌の中にあった。
秀吉着陣の後、10日ほどで北条氏政・氏直親子は観念し開城となる。
激戦の末に勝利したのではなく、どんちゃん騒ぎの中で天下が転がり込んでくるというあたりまことに秀吉らしい。
石垣山が「都」であったのもわずか3月、奥州の仕置に去った後は再び使われることもなく朽ちていく。
史上最もコストパフォーマンスの悪かった建造物のひとつに数えてよい。

肥前名護屋城もそうだが秀吉の痕跡はここでも土の中なのである。
 
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石垣山城の縄張、城域はさほど広くはない

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本丸の石垣跡

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物見台からの眺望

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北西方向、箱根方面

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小田原城天守も木陰からみえる




100名城No.23 戦国最終章の小田原城

2010年05月25日 | 日本100名城・続100名城

名古屋に行くのにあまりに天気が良いものだから箱根を超えてゆこうと思い立った。
国道1号線をゆくのである。

拙宅は多摩にある。
八王子の手前、高幡不動まで西へ行き、そこからずっと南下していくと厚木に出る。さらに南に行き大磯で相模灘に出る。
箱根までの道中、小田原があり小田原城に未だ行っていないことに気づいた。

小田原城とは北条氏の城である。

伊豆の興国寺城を手中にした伊勢新九郎盛時は牛の角に松明を結び、小田原城に向けて大量に逆落としさせる奇計をもって先住者大森氏を追った。

彼の子孫は彼が残した伊豆と相模をよく守ってさらに膨張し関東平野の大部分を制覇した。早雲の次代氏綱は鎌倉幕府執権の「北条」という氏を名乗り、紋も同じものを用いた。関東の守護者たる自負があったのであろう。

古来、小田原という地は風光明媚で住みやすいということに加えて箱根の手前という地勢上、軍事的要素を多分に持たされた。
山塊を酒匂川が削り取った平地が町ひとつを営むのにほどよくあり、ここに平山城を築けとばかりに丘陵が用意されている。

箱根の関の番所にうってつけであり、北から関東に攻め入る他国者から隠れるにもちょうどよい。関東は西と北の守りは堅い造りになっている。
関東の西端は箱根の外輪と奥多摩・秩父山系が天然の要害を形成する。山沿いに小田原からずっと回っていけば高崎・宇都宮・水戸と太平洋までが山々で守られる。

北条氏は氏綱が本城を小田原に移して以降、滅ぶまで動かなかった。心身共に居心地がよかったのであろう。
氏綱の息子氏康は河越野戦にて扇谷上杉氏を破り関八州を侵食しそれは彼の死後、氏政の代で達成される。
関東を手中にした後の北条の戦略は関東に敵勢力を入れないということのみであり「越後や甲斐から長躯進撃してきたときは外周に配した支城に籠城し時間をかせぎ、相手が疲れるのをひたすら待つ」というものであった。
支城を無視して小田原に来れば天下の堅城に籠もって動かずあきらめて撤収するところを追い打ちにする。
少なくとも謙信と信玄はこれにかかった。


北条は「氏」を律儀に通字としていくためなかなか代替わりと実権者が覚えにくい。
早雲は別格として当主は氏綱・氏康・氏政・氏直と嫡子が継ぎ、氏政の弟でよく働いたのが八王子城を築いた氏照である。
彼等と戦国の勝利者、織田信長と豊臣秀吉の差は「首都」の感覚である。
北条が一歩も小田原城を動かなかったのに対し、信長は那古野から清洲、岐阜、安土と西へ進み、秀吉は常に最前線にあり大坂に彼の都を造った。
故郷に錦を飾ることなどを全く考えなかったところにこの両名の天下に対する感覚がある。

このことを取ってみても北条氏が天下を狙う器でなかったことがわかるし、武田氏や上杉氏も同じである。
要するに北条氏は自らを関東管領でよしとした。
箱根の向こうで秀吉が毛利と和睦し、四国、ついで九州を平定したときも関東の外縁で細々としていた。

天正13年(1585年)という年、つまり秀吉が関白になった時点の情勢はおもしろい。
奥州では伊達政宗が家督を継ぎ、父を殺され(あるいは殺し)猛然と他国を切り取り出す。関東では北条が盤踞し四国では長宗我部が、九州では島津が全土をほぼ手中にしている。中国には毛利がいる。
秀吉が関西・中部に満足していればこの時点でかつての室町幕府の体制に似た構図になる。今日の道州制議論にも通じるものがあろう。要するに地元の覇者が地元を治めることであり、そうした形で戦国の世が別の局面に移行した可能性はある。
秀吉以外はそれでも了としたであろう。

ただし、秀吉は中央集権体制を志向した。というよりも日本国を意識し、海外にまで雄飛しようと志し、「国王」たらんとした。
秀吉の天下一統に従わない者が関東・奥州のみになったとき、西の脅威がなくなった秀吉は全ての有力大名を小田原に参陣させた。
「小田原の囲みにいない者は敵と見なす」というこの上なくわかりやすいルールは、以前、以降のいかなる為政者もやったことがない。特にこの場合、「来る」という行動が伴わねばならない。

道州制ははかない幻となった。小田原の百日間とは我が国初の中央集権体制の幕開けであったとみてよい。
もっともこの体制は覇気のない徳川家によってまた地方主権にもどってしまうのだが。

小田原城は今でこそ、石垣と天守を持つ近世城郭の顔をしているが北条の時代は土塁と空堀を基本とした中世城郭である。
ただ、北条氏はこのほどよい小田原の空間をぐるりと堀を設けて城下町まですっぽりと入れてしまった。
形は違うが中国の都市のようなものである。
惣構えというこの発想の痕跡はまだ小田原市内の各所に点在してはいる。ただし痕跡であって今、イメージすることは難しい。
秀吉も参陣した諸将もこれをみて真似をした。大坂もそうだし岡崎もそうなった。秀吉は京の町まで土塁で囲った。

個人的な関心事としては江戸の小田原城よりも戦国北条の小田原城であるのだが、今こうして二の丸・本丸を回ってみても北条の痕跡はない。現在見る小田原城は江戸期に入ってこの地を治めた大久保氏や春日の局の係累稲葉氏が土塁に石を貼り付け、当世風の天守をあげたものであって軍事要塞の遺構ではない。

北条氏が滅びると箱根の番所にうってつけの小田原は「入り鉄砲に出女」を警戒する国境検問所の役人が詰める譜代大名の館になり果ててしまい、城下は箱根に臨む旅行者がここで覚悟を決めて箱根の険に挑み、降りてきたものにはほっとさせる宿場町として栄える。
三代将軍家光は小田原に来て天守に登り、眺めに御満悦であったという。

二の丸には北条三代の解説をする資料館、天守も内部は資料館になっているのだが、北条を讃えるには資料が足らず泰平の世にあった譜代大名の時代が戦国の気風を掻き落としてしまったためどうも物品の居心地が悪い。
関八州の主であった北条の痕跡としては実に情けない。
信玄の甲府などでは戦国が町の顔になって観光客を呼ぶのであるが、小田原を落とした早雲の偉業は引っ込み思案な彼の子孫が末代まで存在を希薄にしまっているのである。

天守に登ってみると城下が一望でき、相模灘も輝いている。北に北条時代の詰めの城があり、西をみれば秀吉が築いた「一夜城」跡に段々畑がみえている。

氏政、氏照兄弟や当主の氏直は総延長9キロメートルに及ぶ自分の城下がさらに囲まれ天下の有力諸将の全てがそこからこちらを睨み、頼みの伊達政宗も最上義光も飼い主に口笛を吹かれた子犬のようにあっちにいってしまった時、おのれの運命を悟るのである。

石垣山に登ってみることにする。
 
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小田原城復元模型、江戸期の状態、天守後方が詰めの城

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小田原城天守、江戸期の図面に従ってRCで外観復元

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復元された銅門

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まだあかがね色を保つ

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復元が進む南方面、馬出がよくわかる

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秀吉の小田原攻め配置図、海まで水軍で囲んだ

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一夜城方面、確かに人の動きまでわかるだろう