日本一“熱い街”熊谷の社長日記

組織論の立場から企業の“あるべき”と“やってはいけない”を考える企業アナリスト~大関暁夫の言いっぱなしダイアリー~

〈70年代の100枚〉№84~“黒いビートルズ”と呼ばれたモータウン第2世代の星

2009-09-21 | 洋楽
「70年代の100枚」もスタートから2年を数え、残すところあと20枚を切りました。なんとか年内に100枚に到着すべく、祝日のユルネタ日を使って枚数をこなします。

№84    「ナチュラル・ハイ/コモドアーズ」

コモドアーズは今でこそ、ライオネル・リッチーが所属していたということでその名を知られるグループですが、もともとは黒人レーベル=モータウン所属のいわゆる“第2世代グループ”で、60年代後半から70年代初頭にかけてジャクソン5のバックや前座を務め徐々に頭角を現し、73年に正式デビューを果たします。デビュー当時は、先輩テンプスやトップスのようなコーラス・グループではなくブラック系のファンクバンドと言う印象で、74年のスマッシュ・ヒット「マシンガン」もインスト・ナンバーでした(ライオネルはサックス&キーボード担当!)。その後、日本では当時のディスコで新ステップとしてちょい流行した「バンプ」(このお尻をぶつけ合うダンス知ってる人はかなりな70年代フリーク!)が、小ヒット。KC&ザ・サンシャイン・バンドなどと同類の扱いで、ディスコ・ファンの間で名前を知られる存在になります。

彼らの転機は77年のアルバム「コモドアーズ」。空飛ぶ彼らのロゴ・マークをメイン・ビジュアルに据えたこのアルバムからの第二弾シングルとしてカットされた「イージー」は、それまでの彼らとは一味違うロッカ・バラードでした。リード・ボーカルのライオネル・リッチーの声質がこんなにもバラード系に合うとは、当時は誰もが驚いたのではないかと思います。シングルは全米4位、アルバムもヒットに押されて3位まで上昇します。そして、そんなヒット・アルバムの余勢を駆って翌年リリースされたのが、この「ナチュラル・ハイ」です。前作の空飛ぶロゴが着陸を試みるかのようなジャケット・デザインは、新たな飛び立ちの前作により遂に自分たちの「道」を見つけたとの宣言でしょうか。アルバム的には前作をさらにグレード・アップさせ、確固たるコモドアーズ・スタイルを決定づけるものでした。

そしてこのアルバム最大の聞きモノであり、その後のバンドとライオネル・リッチーの方向づけをした1曲が「スリー・タイムス・ア・レディ(永遠の人に捧げる歌)」です。ヒット曲「イージー」をさらに一歩前進、ポップなリズムを一切排した本格ラブ・バラードとなっています。「詞よし!曲よし!歌いっぷりよし!」の、まさに歴史に残る名曲、名唱と言うにふさわしいできばえです。当時のディスコのチーク・タイムの超定番でもありました。この曲で彼らは初の全米№1を獲得。アルバムは前作同様3位まで上昇しました。そしてこの後はご存じ、コモドアーズのバラード路線が大爆発。「セイル・オン(4位)」「スティル(1位)」「レイディ(8位)」とバラードばかりが大ヒットを記録する訳です。82年にライオネルはバンドを脱退し、さらなるバラード路線をひた走るのです。

ただ誤解をしてはいけないのは、この後シングルヒットはバラード一辺倒になってしまった彼らですが、このアルバムを聴いても分かるようにファンク・バンドの基本は忘れずに、リズミカルでメロディアスな曲の数々は健在なのです。前作の「コモドアーズ」本作「ナチュラル・ハイ」次作「ミッドナイト・マジック」あたりはまさしく彼らの全盛期で、“黒いビートルズ”などと呼ばれてもいたのもうなずけるほどの見事な曲作りとアレンジの数々が満載であり、アルバム単位で聞いてみるとバンドとしてのバラードだけではない実力が十分にうかがい知れるのです。

ただ残念なことに、現在国内発売の彼らの作品ですが、ベスト盤、オムニバス、コンピレーションの類いは多数出ているもののオリジナル作は調べた限りすべて廃盤。ブラック・ミュージック界の個々のアーティストの本質を捉えずに、ごく一部のスーパー・スターをのぞいては一介の“使い捨て”ダンス・ミュージック的な扱いに終始する日本のレコード会社の対応には、やや人種差別的な思想を感じざるを得ず本当に残念な限りであります。