日本一“熱い街”熊谷の社長日記

組織論の立場から企業の“あるべき”と“やってはいけない”を考える企業アナリスト~大関暁夫の言いっぱなしダイアリー~

続発する故障者たちは、オリンピック商業化の被害者か

2008-08-20 | その他あれこれ
オリンピックに関するスポーツ倫理についての続編を。

先般は、野口みずき選手の「練習過多→故障→出場辞退」の話を中心に、「行き過ぎたトレーニングによる肉体破壊」とドーピングとの類似性の問題に端を発してのスポーツ倫理のあり方に関する問題提起をしました。
→http://blog.goo.ne.jp/ozoz0930/e/fffdbf170faba2979c87958adf9f1431 参照

その後も、野口選手同様に本番前の故障を圧して出場した女子マラソン土佐礼子選手が途中棄権、同じ女子マラソン世界最高タイム保持者のラドクリフも5月の左足大腿(だいたい)骨の疲労骨折の影響で失速の24位、中国の陸上110メートルハードル前大会金メダリストで国民的英雄の劉翔選手の「故障→レース直前棄権」…、「行き過ぎたトレーニング」が及ぼす肉体破壊による不本意な結果は後を絶ちません。

そもそもオリンピック精神、アマチュアリズムとは何でしょう?
「オリンピック憲章」第2条に以下のようにあります―『オリンピズムは、肉体と意志と知性の資質を高揚させ、全体としてバランスがとれるようこれを結合させることを目ざす人生哲学である。文化や教育とスポーツを一体にするオリンピズムが求めるのは、努力のうちに見出される喜び、よい手本となる教育的価値、普遍的・基本的・倫理的諸原則の尊重などをもとにした生き方の創造である 』

「行き過ぎたトレーニングによる肉体破壊」は果たして、「肉体と意志と知性の資質を高揚させ、全体としてバランスがとれるようこれを結合させることを目ざす人生哲学である」というオリンピック精神に則っているといえるのでしょうか。「肉体の資質」は「高揚」を超え、もはや「バランス」が崩れた状態にすらあるとは言えないでしょうか。

私は子供の頃、小学校の先生から“近代オリンピックの父”クーベルタン男爵の言葉『オリンピックで重要なことは、勝つことではなく、参加することである』を教わりました。もちろんオリンピック参加選手がより上位の順位をめざしそれを勝ち得るに越したことはなく、当時本気で「参加」だけすればそれで満足という選手がいたというわけではありません。要するに男爵の言葉は、あまりに順位にとらわれて体を壊すような努力をしてまで上位を目指しても、それは意味のないことであると言っているのだと思うのです。ドーピングの禁止は、まさにそんな考え方の反映であったわけですから、“行き過ぎたトレーニング”にも同様の判断があってしかるべきなはずなのです。

前回、この“行き過ぎたトレーニング”の元凶は、84年のロス五輪以降「経済とスポーツの接近」が急激に進展したことにこそあるのではないか、と述べました。この点をもう少し詳しくお話します。

84年の“オリンピック経済開放”は、そもそもは旧共産圏(ソビエト連邦や東ドイツなど)の実質プロであるステートアマ問題に資本主義国が意見し、IOCはこれに応えるか否かの判断を迫られるました。こうした中IOCは、プロ選手を出場させる事によって得られそうな経済的な見返りの誘惑から、それまでの「アマチュア憲章」を放棄してオリンピックのオープン化を図るという“悪魔の選択”をしたのです。

この結果オリンピックに参加するスポーツ選手、特にトップレベルの選手がアマチュアであることに意味がなくなり、「強いものには経済的支援が得られより強くなれる」「強いことがオリンピックで証明されたものには、大きな経済的見返りが与えられる」という、商業社会の論理に“スポーツの祭典”は飲み込まれてしまったのです。

ゲーテの劇詩で有名な「ファウスト」をご存知でしょうか。ルネッサンス期に実在したという主人公ファウストは、悪魔に魂を売り渡す契約をして魔術を使えるようになり、放縦で享楽的な人生を送りますが、晩年その生活に疑問を抱き悪魔との契約が切れた瞬間に死するというストーリーです。84年以降のオリンピック精神は、まさにファウスト的衝動で「コマーシャリズム」という名の悪魔に魂を売り渡したのであり、そこから生まれる数々の弊害の責任はすべて“売り渡した張本人”であるIOCにあるのです。

ロス大会当時のIOC会長サマランチのもと商業主義は加速したといわれ、一時期は誘致活動にIOC委員への賄賂が提供された事なども問題になりました。こういった部分こそ現在では粛清され健全化をされている様相ではあるものの、健全なスポーツの精神が「悪魔」に侵食された状態は未だに続いていることに変わりはないのです。

「過度のトレーニングによる肉体破壊」を強いられる選手たちは、こういった問題の被害者に過ぎません。目先の問題としては、コーチの管理責任、監督の指揮責任が問われるのかもしれませんが、個別の管理責任を追及しても根本的な問題解決には至らず、4年後も8年後もまた同じ悲劇が起きるに違いありません。本当の責任の所在はどこにあるのか、北京オリンピック開催期間の今こそ世界のマスメディアは声を大にして、糾弾すべき時にきていると思うのです。