日本一“熱い街”熊谷の社長日記

組織論の立場から企業の“あるべき”と“やってはいけない”を考える企業アナリスト~大関暁夫の言いっぱなしダイアリー~

オバマ大統領ノーベル平和賞受賞は“弱いアメリカ”の象徴か?

2009-10-10 | ニュース雑感
昨日夕刻、突然飛び込んできた「オバマ大統領ノーベル平和賞受賞」のニュース。2ちゃんあたりでは、「まだ何もやってねーじゃねー?」「ノーベルおかしくね?」とちょっとした“祭り”になっているようです。

私も第一報を聞いたときに思ったのは、「何で?」です。そりゃそうですよ。大統領就任から1年弱。確かに「核廃絶宣言」はあったものの、まだ何も行動を起こしている訳ではないのですから。ただよくよくノーベル平和賞の位置付けを考えてみると、なるほどと思う点も出てきます。物理、化学、医学、文学、経済という学問的なものに与えられるノーベル賞に、唯一平和賞と言う毛色の違ったものがあるという意味。これは、とりもなおさず創設者の発明家ノーベルが、自身のダイナマイト発明が引き起こした戦争兵器への転用を悔いて、平和の願いを込めて作られたという大きな意図が背景にあります。すなわち、他部門の賞とはかなり色合いが異なるのです。他の賞が発明そのものの価値ではなくいかに実用化され価値が証明されたかが審査基準になるものであるのに対して、平和賞は特定の平和活動をこれからの世界平和にいかにして寄与させるかを賞がバックアップするという意図があるように思えるのです。

そしてもうひとつ、この平和賞だけがノーベルの母国スゥェーデンの選出ではなく、隣国ノルウェーの国会が選出するという仕組みも他部門との大きな違いのひとつです。自国選出をしないのは「公平を期して」というのがその理由ですが、公平を期する必要があるのは、この平和賞の選出基準があいまいで主観的なものにならざるを得ない事の象徴でもあると言えるでしょう。ポイントは、その“主観的”選出機関がノルウェー国会であるということ。一国の国会ですから、政治的“主観”抜きに選出基準を考えることは不可能に近い訳です。こうやって考えてみると、ノーベル平和賞は至って政治的かつ主観的判断基準で選ばれることが常であり、オバマ大統領の受賞の是非を論じるよりも、今の世界情勢の中でノルウェー国会の主観に基づいた政治的判断がどのようなものであったのかを推察することの方が数段意義があることのように思えてきます。

2016年オリンピック開催地選びのIOC総会の時にもお話ししましたが、個人的にはここにも世界におけるアメリカの立ち位置の変化が見て取れるように感じています。アメリカがリーマン・ショック以前の“強い”“世界に冠たる”アメリカであったなら、今回の受賞はなかったのかもしれません。すなわち、アメリカが世界覇権の多極化進展の中で以前とは違う立場になり、唯一無二ではなく多くのリーダー国のひとつに“成り下がった”ことで、ノルウェー国会は「言った以上しっかりやれよ!」と“釘を刺さした”ということではないかと思うのです。言い方を変えるなら、今のアメリカは世界の厳然たるリーダーではないから、オバマ大統領の核廃絶宣言に世界が追随するためには、ノーベル賞の“お墨付き”が必要であるとノルウェー国会は考えたとういうことなのかもしれません。いずれにしましても、アメリカが以前のアメリカであったなら、オバマ氏の現段階での平和賞授与はありえなかったと思えるのです。視点を変えればこの受賞は、ブッシュ政権の汚点たる武力外交とリーマン・ショックに対する、世界の嫌悪感の結果とも言えるのかもしれません。

通常ノーベル賞の内定者には内示があるそうで(マハトマ・ガンジー氏は内示を5回固辞したといいます)、オバマ氏に内示があった上で今回の賞を受けたのであれば、彼はアメリカが世界覇権を一度手放すことの容認と下降を続ける自身の国内で支持率の上昇とを天秤にかけた上で、後者を選んでの受諾だったのかもしれません。オリンピック、ノーベル賞、表向きは政治的色合いの薄い話題においても、世界の中でのアメリカの立ち位置の変化は止めようのない流れに入りつつあるように思えます。

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