静聴雨読

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プルースト「失われた時を求めて」の翻訳と刊行

2008-03-14 07:32:12 | 文学をめぐるエッセー
(1)翻訳

翻訳のいのちは、文体のみずみずしさと文章の分かりやすさに集約されると述べましたが、これを二十世紀の巨人プルーストを例にとって検討してみます。

プルースト「失われた時を求めて」は戦後すぐにその全訳が新潮社から刊行されました。複数の訳者による分担訳でした。新潮文庫にも収められました。

その後、井上究一郎による全訳が筑摩書房から刊行されました。この版は、「筑摩世界文学大系」、「プルースト全集」、ちくま文庫などに繰り返し収録されました。プルースト訳の決定版との評価が読書界でありました。私もこの井上究一郎訳で読んだ一人です。

ところが、この井上究一郎訳に鈴木道彦が異を立てました。鈴木道彦は1960年代から、全七篇の「失われた時を求めて」を一篇ずつ翻訳しては発表していました。
鈴木道彦の論拠は、「ユリイカ臨時増刊 総特集=プルースト」(1987年12月、青土社)に、「『失われた時』と翻訳の問題」として発表されました。ちょうど井上究一郎訳が完成しようとする時で、なぜこの時期に、屋上に屋を架するように、自ら「失われた時を求めて」の全訳を決意するに至ったかについて、鈴木道彦は述べています。

鈴木道彦は翻訳のいのちを、「第一に原文の正確な把握、第二に分かり易い明快な訳文」としています。この二点に照らして、井上究一郎訳を批判しています。
例えば、「花咲く乙女たちのかげに」の翻訳で、「井上訳で語り手の父親のこととして理解されていた『大学教授』が、私にはコタール医師のこととしか見えないし、同じくアルベルチーヌの叔母とされていた人物が、私にはヴァントゥイユ嬢の女友だちのこととしか読めない」というように、原文の把握の点で井上究一郎訳には問題が多いと指摘しています。
また、井上究一郎訳は一文が非常に長く、読んでもすぐに理解できない個所が多い、とも指摘しています。確かに原文も一文が非常に長いが、それを分かり易い訳文にするのが翻訳者の技量だというわけです。満々たる自信です。

鈴木道彦訳は集英社から全13巻として刊行され、完結しました。これを揃えたいのは山々ですが、全部で6万円ほどするので手が出ません。最近これが集英社文庫ヘリテージシリーズとして再刊され始めました。これなら手が届きます。改めて、鈴木道彦訳のお手並み拝見といきましょう。
 (2006/6)
            
(2)刊行

プルースト「失われた時を求めて」は戦後3種類の全訳本が公刊されました。
 新潮社版=複数の訳者による分担訳
 筑摩書房版=井上究一郎による個人訳
 集英社版=鈴木道彦による個人訳

これらはそれぞれ判型などを変えさまざまな刊本があります。

新潮社版は次の3種:
 四六判・フランス装・全13冊(初刊)
 文庫判・全13冊
 六判・厚紙装・化粧函入り・全7冊(再刊)

筑摩書房版は次の3種:
 菊判・函入り・全5冊(「筑摩世界文学大系」)
 菊判・函入り・全10冊(「プルースト全集」)
 文庫判・全10冊

集英社版は次の2種:
 判・函入り・全13冊
 文庫判・全13冊

ところで、「失われた時を求めて」は七篇から成る小説です。ところが日本語になった全訳版では、13冊になったり、7冊になったり、5冊になったり、10冊になったりして、冊数が一定になっていません。つまり、一篇一冊になっていない版がほとんどです。唯一の例外は、新潮社版の再刊で、一篇一冊を実現しています。

この当然と思える一篇一冊がなぜ普及しない? おそらく製本上の理由でしょう。つまり、厚くなりすぎる篇が出て、製本が難しいという問題があるのでしょうか。しかし、製本技術は発達しました。現に、「埴谷雄高全集」(講談社)には、菊判・厚函入り・800ページのものがありますし、集英社ギャラリー「世界の文学」は、菊判・薄函入り・1300ページ超になっています。実現不可能な要求ではないように思います。

天金(本の上部に金箔を塗ること)や背皮装などのぜいたくは望みません。ただ、できれば、鈴木道彦訳「失われた時を求めて」を一篇一冊の造本で味読してみたい。ビブリオマニア(書痴)のささやかな希望です。集英社の英断を期待したいと思います。 (2007/5)
            


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6 コメント

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Unknown ()
2008-03-15 04:54:05
こういう内容を求めていました。
私はこれから読もうと思っていますが
なにせ内容から借りて読むより買いと思っていましたが、問題の値段が高いという点で、最近文庫も取り扱われていますが、貧乏学生なので在庫を気にしながらベストな訳者を選びたかったので。

あなたのような専門的な方が評論していてとても助かっております。
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コメントありがとうございます (ozekia)
2008-03-17 05:27:46
Dさん、こんにちわ。
コメントありがとうございます。

「失われた時を求めて」は、一度全編を味読することを是非お勧めします。
「『失われた時を求めて』を読む」も次回掲載しますので、ご参考にしてください。

また、文学については「文学をめぐるエッセー」のカテゴリーに、本と読書については「BIBLOSの本棚」のカテゴリーに、コラムがありますので、ご紹介します。
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Unknown (maya)
2008-04-16 17:28:53
はじめまして。「失われた時を求めて」を初めて読むのですが、鈴木訳か井上訳か迷っています。
平易であってほしいとは思いますが、詩情が失われるのはいやだし、両方買って読み比べながら楽しむ、というのが最高なのでしょうがそうもいきません。
アドバイスいただければ幸いです。
よろしくお願いします。
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コメントありがとうございます (ozekia)
2008-04-17 19:27:17
mayaさん、ozekia です。コメントありがとうございました。

鈴木訳か井上訳かについては、私の中では、すでに答えが出ています。

20年ほど前は、井上訳しかなかったので、私も井上訳で親しみました。

その後、鈴木訳が完成し、私も鈴木訳を読む機会がありましたが、流麗な訳文は断然鈴木訳に軍配があがります。

プルーストについては、ほかに、次のコラムがあります。

2008年3月18日
2007年6月1日

よろしかったら、ご覧ください。

ほかにご質問があれば、メールをいただければと思います。
 ozekia@mail.goo.ne.jp
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不思議な誤読 (くじら)
2010-10-30 15:31:38
吉川一義氏の新訳が待たれる今日この頃ですが、井上訳を丹念に(2年半)読んだ小生としては、鈴木氏の「作者の父親がコタール」「アルベルチーヌの叔母がヴァントイユの娘の友人」とはとても思えません。作者の父親は官僚だし、アルベルチーヌは孤児であり、叔父夫婦により育てられてきたことは歴然です。鈴木氏の先入観による誤読には恐れ入ります。
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コメントありがとうございます (ozekia)
2010-10-30 22:48:06
くじらさん、こんにちわ。
コメントありがとうございました。
ご指摘の件については、私には難しすぎて、わかりません。
吉川一義氏の全訳は期待していますが、それを読み通せる気力が残っているかどうか、はなはだ心もとない次第です。
是非、吉川訳の読後感を教えてください。
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