(12)西鎌倉の休日
「渡辺茂夫と渡辺季彦」と題するコラムを終わるにあたり、書き漏らしたことのいくつかを補足しておきたい。
その1。茂夫の帰国後、季彦の介護を受けながら過ごしたお宅について。
山本茂の『評伝』には「片瀬山」の文字が見える。一方、多くの方は鎌倉ではないか、という。
片瀬山に住む知人にこの矛盾を問い合わせてみた。
すると、こういうことだという。「湘南モノレールの片瀬山駅の西側は藤沢市片瀬山で、東側は鎌倉市西鎌倉なのですよ。」それで納得した。
2007年7月のある日、湘南モノレールの片瀬山駅に降り立った。休日の午前なので、あたりは静まり返り、住宅地の道では犬の散歩をする人とすれ違うばかりであった。目指すお宅はまもなく見つかった。薔薇の季節は終わり、庭には白いむくげの花が咲いていた。私はストーカーではないので、玄関のアーチを眼に刻み付けて、その場を立ち去った。
渡辺季彦の消息についても何人かの方に問い合わせたところ、ご健在で、相変わらずヴァイオリンの弟子を取っておられるとのことであった。
(13)エピローグ2・晩秋の横浜
その2。テレビ・ドキュメンタリー「よみがえる調べ 天才バイオリニスト渡辺茂夫」
2007年の晩秋、このコラムの締めくくりの意味で、横浜の放送ライブラリーを再度訪れて、テレビ・ドキュメンタリー『よみがえる調べ 天才バイオリニスト渡辺茂夫』を三度鑑賞した。
茂夫と季彦の「共生ぶり」が描写されるのは、残り12分のところからだと確認した。ほんのわずかな時間の映像であるが、それが1996年以来私の脳裏に刻まれて離れなかったのである。
なぜだろう? 改めて考えると、季彦の茂夫への介護ぶりが強烈に印象に残ったためだと、今になっては推測できる。ちょうど、「放送ライブラリー」を最初に訪れた頃は、私も母の世話に忙しくしていた。
「老・老介護」ということばがある。60歳代や70歳代のものが80歳代や90歳代のものを介護することを指すのが一般的だが、季彦・茂夫の場合は、80歳代が50歳代を介護している。その姿が異様に思えたのである。「介護施設に入所させてもらったら」という周囲の勧めを季彦は頑なに拒否したという。確かに、映像に映し出される季彦は、見るからに頑固親父そのものだ。
(14)エピローグ3・白金のまぼろし
その3。茂夫の渡米前の自宅について。
テレビ・ドキュメンタリー「よみがえる調べ 天才バイオリニスト渡辺茂夫」を見て、東京・白金であったことがわかった。さらに、「三光町25」という番地が、テレビ・ドキュメンタリーに写っていた。
東京都港区は、戦前の麻布区・赤坂区・芝区を統合してできた区で、町の名に、麻布箪笥町、赤坂青山南町、芝白金三光町など、統合前の区名を残している特徴があった。茂夫の自宅は、その芝白金三光町25であった。その後の住居表示変更で、芝白金三光町は白金6丁目などに変わって、現在に至っている。
これを知って、茂夫の自宅を求めて、白金6丁目界隈をさすらってみたが、当然、見つけられなかった。今の茂夫宅(季彦宅)は西鎌倉なのだから。
茂夫の通った小学校は「白金小学校」。
実は、私も、この小学校の同窓で、4年生の途中で転入した時に、茂夫が6年生で在籍していたようなのだ。すでに、茂夫は、「蒼穹」を想起させる「星空」を作曲して、永遠の宇宙に遊んでいたころであった。
不思議なめぐりあわせであった。
西鎌倉、横浜、白金と、私は、あたかも失われた時を求めるように、歩き回った。やがて、世の中の歩調に合わせるようにして、渡辺茂夫と渡辺季彦の生きてきた時代が私のなかに見えるようになった。
(15)エピローグ4・「イナバウアー」効果
その4。「イナバウアー」効果
渡辺茂夫の作曲した「星空」を説明するにあたって、それが「蒼穹」に例えられる、と書いたのだが、その「蒼穹」とは何だ、という説明に行き詰まった。
そこで、画家フェルディナント・ホードラーの山岳絵を持ち出して説明を試みた。我ながら、良い例えだと思ったが、如何せん、ホードラーを知っている人は10万人に一人くらいで、誰でも納得する例えとは言いがたかった。
幸い、フィギュア・スケートの荒川静香選手の演じた「イナバウアー」が、「蒼穹」のもう一つの例えとしてピッタリしていることに気付いて、これを使わせてもらった。「イナバウアー」なら5人に1人はなじみだろう。
そこで、これから、夢想の領域に入るのだが、荒川静香選手のフリー演技の曲として、渡辺茂夫の作曲した「星空」を使っていただけないか、ということを考えている。フリー演技は5分ある。「星空」は4分弱なので、少し時間が足りない。しかし、アレンジ次第で、5分に引き延ばすことは可能だろう。
渡辺茂夫と荒川静香選手のコラボレーションが実現すれば、というのは、今でも夢を見ているのだろうか?
(16)エピローグ5・コラムを中断した理由
その5。コラムを中断した理由について。
「渡辺茂夫と渡辺季彦」のコラムは、当初「薔薇の記憶と見出された時」というタイトルで、2006年3月から掲載を始め、2006年8月に第7回を掲載したところで中断に入った。
当時、ブログに書きたいテーマが多くあって、ほかのテーマに浮気をしたことが一つの理由であったが、もう一つの理由は、CD『神童』を聴き始めたことにあった。
茂夫がグラズノフ「ヴァイオリン協奏曲」を東京フィルハーモニー交響楽団と協演しているのを聴いて、両者の落差に呆然としてしまって、それから先聴き続けることができなくなった。現在の東京フィルハーモニーではそんなことはないが、失礼ながら、当時の東京フィルハーモニーでは茂夫に太刀打ちすることなど到底不可能なことだった、ということを理解した。それで、CDを聴き続けるのを中断することにした。現在ではどうにかその障害を克服して、CDを聴き、茂夫の演奏と作曲について書き続けることができる。
今は、(当時の)渡辺茂夫と(現在の)東京フィルハーモニーが協演したら、どのようなパフォーマンスになるのだろうか、ということを夢想している。
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このコラムにコメントを寄せてくださったり、質問に答えてくださったりした、sugiee さん、フィールドさん、ウッドストックさん、みっちっちさん、俵田武彦氏のご家族、そして、放送ライブラリーの学芸員の方にお礼を申しあげます。 (2008/5-6)
私もまた渡辺茂夫のヴァイオリンに魅せられた一人です。YOUTUBE にアップされていた「よみがえる調べ 天才バイオリニスト渡辺茂夫」とこちらの記事を頼りに、本日、渡辺季彦氏のお宅の前迄行ってみました。
ネットで、「季彦氏は自宅を手放すことになるので、茂夫氏の遺品を近代音楽館に寄贈した」という記事を見た事があるので、ひょっとしたらもう季彦氏のお宅はないかも、と覚悟していたのですが、現存しており、季彦氏の表札がかかり、人の住む気配も感じられました。二階の窓の奥に 12 年前迄茂夫氏がいたのだと思うと感無量でした。まだ演奏会のポスターは貼られているのでしょうか。
帰宅後、改めて YOUTUBE を見てみようと思ったのですが、既に「よみがえる調べ」のほか、ショパンのノクターンなどの動画は削除されていました。不法なので致し方ありませんが、あの動画をきっかけに渡辺茂夫を知る人もいるだろうにと思うと非常に残念です。
放送ライブラリ、私も近いうちに言ってみたいと思います。
10月ですと、渡辺季彦氏宅の薔薇が見事だったのではないですか? 季彦氏は百歳を超えてご健在のようです。
目的はただひとつ、長男を先生に会わせたかったからです。長男は1歳の頃、小児癌が発覚し2歳で左眼を失いました。ピアノ教師である妻は4歳から仕事仲間であるバイオリン教師に長男を預けバイオリンを習わせていました。私は先生に長男のことを綴った手紙を書きました。一度先生に見ていただきたい。当時、先生がどのような状況かもわからず綴った手紙でしたので、返事は期待しておりませんでした。しばらくして先生からご連絡を頂きました。先生が現役のバイオリン教師であることがその時わかりました。先生は私の手紙を読み、一度連れていらっしゃいと言って頂きました。夢のような話で、妻は最初信じてくれませんでした。その後、ことの重大さに妻はあたふたしておりました。
鎌倉のご自宅には、6歳の長女も連れ家族で行きました。ご自宅ではお弟子さんが先生のレッスンを受けておりました。私達は、どきどきして待っていました。お弟子さんのレッスンが終わって私達が呼ばれ、雑談のあと長男のバイオリンを診て頂きました。ワンパート弾かせて先生は止めました。妻はその時、終わったと思ったそうです。先生は次のお弟子さんのレッスンが終わったら、診てあげると言ってくれました。その後、先生は長男に辛抱強く丁寧に指導してくれました。その日は長く、先生のご自宅を出るころには日が沈んでいました。まさに夢のような一日。今でも昨日の事のように思い出されます。その時の出来事をある巨人軍の元選手に話したら、それは長嶋茂雄に指導してもらったようなものと言っていました。先生のご指導とご配慮に今でも感謝しております。
コメントありがとうございました。
そうですか。渡辺季彦先生に息子さんのヴァイオリンを診ていただいたのですか。
先生は気難しい顔をなさっていて、ヴァイオリン教師としても厳格だと聞きますが、一面で、とても優しいところがあるのが伺えるエピソードですね。
深夜に渡辺茂夫を聴いていて、ふと、お父上はご健在なのか気になり、検索でこちらのページにたどり着きました。
記事やコメントからご健在と知り、安堵しました。
私の中で渡辺茂夫は、今でも、一番のクラシック奏者です。
こうしたブログに出会えて嬉しいです。
コメントありがとうございました。
季彦さんはとても磁力の強いヴァイオリン教師なのですね。
また、茂夫さんさんもピュアな気持に満ちたヴァイオリン奏者なのだと思います。
今日知らされてショックを受けています。
本当に子供のように無垢で、ヴァイオリンと美しいものを心から愛する素晴らしい先生でした。
rosaさん、こんにちわ。
今年の春は、映画監督の新藤兼人氏、音楽評論家の吉田秀和氏、そして、ヴァイオリン教師の渡辺季彦氏と、私の敬愛する百歳越えの方々が相次いで亡くなりました。
まさに、一時代が終わったのでしょう。
季彦氏と茂夫氏は、戦後の混乱のなかで、芸術に託す希望を具現した人たちで、このような人たちはなかなか再び現われないでしょう。
その意味では「戦後の終焉」をも象徴する養父子でした。
私は5歳から10歳頃まで渡辺季彦先生にヴァイオリンを習っておりました。茂夫さんは私より5~6歳上だったでしょうか、おさらい会のトリで弾いていたのを覚えています。その後渡米し、病の身で帰国し、パジャマ姿でリビングに座っていた姿も記憶しております。先生とも長い間疎遠になっておりましたが、偶然テレビのドキュメントを見たのをきっかけにまたお会いすることが出来ました。私が通っていたころは白金三光町ですが、西鎌倉のお宅も昔と同じように薔薇に囲まれていました。茂夫さんのお葬式に伺って以来お会いする機会がありませんでした。
先生、茂夫さんについて、何かお尋ねがありましたら私の記憶でお話しできる範囲で協力させて頂きます。
私が毎週土曜に通っていたルートは、目黒通りの白金台五丁目のところを自然教育園に沿って入り、道なりに右へ行って、教育園の塀に沿った道のもう一つ先の道を左へ曲がり、200mくらい先を右に入ったところです。当時はまだ外苑西通りがなく、私が通っている間にこの道も徐々に出来てきました。
今のマップで見るとジンバブエ大使館の手前の路地を7~80m入った左側ですね。住所でいうと白金台5丁目9番地でしょう。