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渡辺茂夫と渡辺季彦(8-9)蒼穹の譜

2013-03-20 07:46:18 | 音楽の慰め

 

(8)渡辺茂夫の演奏

渡辺茂夫の演奏については、「神童(全2枚)」、「続・神童」(以上、東芝EMI)と「グルリット作曲ヴァイオリン協奏曲」(ミッテンヴァルト)の4枚のCDを聴いた。

「神童(全2枚)」のうちの1枚がソロ・アルバムで、14曲の演奏を収録している。

何回か繰り返し聴き、しばらく間をおいて、思い出した曲の順に感想を述べると:

初めに浮かんだのは、意外にも、パガニーニ「魔女たちの踊り」であった。ヴァイオリン演奏の超絶技巧でおなじみのパガニーニにしては、おとなしい練習曲で、それを茂夫は律儀に弾いている。と思ったのだが、藤沼幹雄氏の解説によると、ピチカート、スタッカート、フラジオレット、ダブル・ストッピングなどの難技巧がちりばめられた曲だそうだ。これには驚いた。技巧を感じさせないほどに、技巧を自家薬籠中のものに消化してしまっているのだ。

次に思い出したのは、これも、意外なことだが、タルティーニ「コレルリの主題による変奏曲」であった。クライスラーの編曲になる曲だが、物憂げな春の午後を思わせるような曲を、茂夫は朗々と弾いている。やはり、藤沼氏の解説によると、タルティーニの得意なトリルが至る所に存在しているそうだ。素人にはそれも感じさせない演奏だ。

ほかにも、次から次へと、茂夫の演奏が記憶からよみがえる。サラサーテ「ツィゴイネルワイゼン」やサン・サーンス「序奏とロンド・カプリチオーソ」などの名曲の名演奏も収録されている。

大きく分けて、緩やかなパッセージを朗々と演奏するもの(F・ショパン「ノクターン」がその代表だ)と速いパッセージを疾駆するもの(H・ヴィエニアフスキ「スケルツォ・タランテラ」がその典型だ)とがあり、そのどちらにおいても、いわゆる技巧を感じさせない。すでに、「うまい演奏」の域を超えてしまっている。

これらの演奏が茂夫の13歳と16歳の時のものだと知ると、何という成熟ぶりかと驚嘆させられる。
今でこそ、五嶋龍や庄司紗矢香など、十代前半から才能を開花させたヴァイオリニストは珍しくないが、茂夫の場合、なにしろ、時代が時代だ。1954年(13歳)と1957年(16歳)に時代を変換してみると、茂夫の演奏の先進性や超時代性が判ろうというものだ。

(9)渡辺茂夫の作曲

渡辺茂夫は演奏家として一家を成すとともに、作曲家としても名を馳せていた。
彼の作曲した「ヴァイオリン・ソナタ第1番」と「ヴァイオリン・ソナタ第2番」が、木野雅之(ヴァイオリン)と吉山輝(ピアノ)の演奏で聴くことができるようになった(ミッテンヴァルトの制作)。録音は2005年11月だという。作曲が1953年頃だというから、50年ぶりのCDデビューである。

渡辺季彦によれば、厳しいヴァイオリン演奏の練習の毎日の中で、茂夫がいつ作曲の時間を持っていたか、まったく想像できない、というのだ。厳格な指導者の背後で舌を出している茶目っ気たっぷりの「神童」の姿を髣髴とさせるエピソードだ。

さて、「続・神童」の最後のトラックに、茂夫の作曲した「星空(アンダンテ)~ヴァイオリン協奏曲 作品4 第2楽章」が収録されている。江藤俊哉(ヴァイオリン)とマイケル江藤(ピアノ)が演奏したバージョンだ。茂夫11歳(1952年)の作品だそうだ。わずか4分足らずのこの曲から激しいインスピレーションを受けた体験を述べてみたい。

タイトルは「星空」だ。このことばに導かれるように、私にはある情景が見えるようになった。それは「蒼穹」と称すべきイメージだ。「蒼穹」とは青空の別称で、広辞苑(第4版)でもそれ以上の説明はない。

数年前、吉田秀和に導かれて、フェルディナント・ホードラーの絵を精力的に鑑賞して、次のコラムをまとめた。
スイスの休日  http://blog.goo.ne.jp/ozekia/d/20061103

吉田はホードラーの幾何学的パースペクティブの独自性や、具象にもかかわらず、非現実的・非日常的・装飾的高みを獲得している不思議や、類似した形態の反復がもたらすパラレリスム(「平行の原理」)を指摘している。

このようなホードラーの特徴を表わす絵として私の注目したのが、その山岳画であった。幾何学的パースペクティブ、非現実的・非日常的・装飾的高み、パラレリスムのいずれもが彼の山岳画に現われていることは、その後、東京・渋谷の Bunkamura ザ・ミュージアムで開かれた展覧会において確認することができた。

そして、ホードラーの山岳画が喚起するイメージが「蒼穹」であることに思い至った。

山の姿を映す湖(幾何学的パースペクティブ)、山を左右対称に配置する構図(パラレリスム)、天球を想起させる空と雲(非現実的・非日常的・装飾的高み)、そして全体を支配する青色。これらが相俟って、「蒼穹」を作り出しているように思った。

同じころ、フィギュア・スケートの荒川静香選手の演じた「イナバウアー」が話題になっていた。ライト・ブルーのコスチュームをまとった荒川選手が舞う「イナバウアー」にも、同じく「蒼穹」のイメージが現われていたことは記憶に新しい。

江藤俊哉の奏するヴァイオリンの調べは、長く、ゆっくりと音階の上下を繰り返すが、そこに、ホードラーの山岳画や荒川静香選手の「イナバウアー」との類似性を発見して、我ながらびっくりした。

渡辺茂夫が「星空」と名づけているように、彼の中には、夜空が見えていたのかもしれない。
しかし、夜空に限ることはないのではないか。むしろ、私には、「ヴァイオリン協奏曲 作品4 第2楽章」の表象するものは、さらに普遍的な、究極の天球である「蒼穹」であるように思える。そこには、遥かに高い象徴性や無限性が感じられる。

わずか11歳の少年が描いた「永遠」とは、一体何なのだろう? (2008/4-5)



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