-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

「ゴングラ」の謎が分かりました。

2019-10-03 21:12:13 | 歴史

 今年の9月に、畑沢へ行った時の会話です。

挨拶しながら、「どさ んぐなや」と聞くと。

「ゴングラだ」と答えが返ってきました。

えーー懐かしい響きの言葉です。長いこと使っていなかったのですが、そうだ、こんな言葉があったのです。そして長年の謎が一気に解けました。


 昭和30年代からは、畑沢の中心となる場所は二箇所ありました。一つは畑沢分校です。畑沢公民館も兼ねていて、畑沢のことについて会議をするとき、映画上映、青年団、婦人会、若妻会、子供会の各種集まり等々、まさに中心的な場となっていました。

 もう一つの場所がゴングラでした。ここに隣接する熊野神社(オグマンサマ)で畑沢祭をして、ゴングラには2軒の屋台が建ち人が集まりました。ゴングラの端っこには消防ポンプ車の格納庫があり、消防訓練がこの場所で行われました。さらにその脇には牛を繋ぐ柵のようなものがあり、年に何回か畑沢中の牛の爪切りが行われました。また、昭和30年に畑沢分校が建てられるまでは、この地の近くある畑沢観音が分教場になっていましたので、元々、畑沢の中心的な機能は全てゴングラにあったようです。

 そして、今回の投稿のテーマである「ゴングラ」の語源になる建物がありました。さて、私が記憶する限りの昭和20年代から40年代においては、稲の収穫が終わって籾摺(もみす)りまで終了すると、出荷する畑沢中の米がここに集められて米の品質を等級付けする「米検査」が行われ、ゴングラの中心部にあった倉庫に保存されました。この倉庫こそ、ゴングラの語源に関係するものです。

 それでは何故、倉庫がゴングラの語源なのでしょうか。説明はさらに長くなりますので、覚悟してください。畑沢に関する古文書があります。尾花沢市史編纂委員会が編集した「村差出明細帳」と有路慶次郎氏が著した「畑沢之記録」には、正徳四年(西暦1714年)に畑沢村の代表者が、新しく赴任した代官へ村の農産物の生産高と村の概要を報告したものが記載されています。二つの古文書の原本は一つだったのでしょうが、書き写す際に二つは別物のように姿を変えています。それぞれ次のように書かれています。なお、本来は縦書きなのですが、このブログでは縦書きできませんので、横書きに変えています。

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尾花沢市史編纂委員会が編集した「村差出明細帳」

   ……

   一、当村郷藏ハ御座候得共、屋敷之儀ハ百姓屋敷三畝歩之所借り置、御年貢定納申候

   ……


有路慶次郎氏が著した「畑沢之記録」

   ……
   一、当村郷藏は有候共、屋敷の儀は百姓屋敷三畝歩之㪽借置候、年貢定納申候  

   ……

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 両者には若干の違いはありますが、大意は一致しています。要するに「畑沢村には村の藏があり、その敷地は百姓が有している三畝歩の土地を借りており、定額の借地代を納めています」という事の様です。ただ「年貢定納申候」の現代語訳はかなり怪しいです。

 ここまで来れば、賢い皆さんはもうお分かりでしょう。ゴングラとは郷蔵(ごうぐら)のことです。ゴウグラの発音が訛(なま)ってゴングラになったのです。尾花沢市史編纂委員会が編集した「村差出明細帳」については、もう5年以上も前に目を通しており、有路慶次郎氏が著した「畑沢之記録」についても今年になってから、翻刻したものです。しかし、これほど「郷蔵」が私の目の前に現れていながら、ゴングラへの発想が全く湧かなかったのです。もうゴングラが私の脳から消えかかっていたのでしょう。ところが、隣の御婦人が発して下さった「ゴングラ」が、私の脳の隅から記憶を呼び戻してくださいました。やっぱり、私が畑沢を知るには「畑沢の人から教えて貰う」ことが一番、大事です。

 下の写真は昭和50年正月です。写真上部の大きな樹木林は、熊野神社の大杉で、この当時は今よりももっと多くの大杉がありました。その下に建物が複数見えます。左端は農家の小屋、道路を挟んで向かい側には小さな消防ポンプ小屋、その右が米の倉庫です。この時の倉庫は木造でした。江戸時代も木造だったのか土蔵であったのかは分かりませんが「郷蔵」です。その右上は畑沢観音堂です。

コメント
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