参道を約40m進むと、右側に板碑らしきものが見えました。梵字でも書かれているのであれば、板碑と断定できるのでしょうが、私には文字が刻まれているかどうかさえも判断できません。ここでも尾花沢市教育委員会社会教育課にある調査内容を見ることができれば、直ぐに分かるはずです。因みに畑沢には板碑が一つもありません。車段には大きなものがあります。板碑でないとすると、墓石ということになりますが、かなり大きな墓石となります。私の師匠である社会教育委員会に勤務していた方の話によると、野辺沢氏が支配していた地域にだけ、板碑の形の墓石があるそうです。
そこから、さらに10mほど奥に進むと、今度は墓石そのものと思える石塔が五基立っています。
一番左は板碑上の墓石と思われます。
二番目の石塔には十八夜塔と書いてありますので、墓石ではなくて観音講のような新興の対象物です。
真ん中の太い棒状の石塔は、所謂、「無縫塔(むほうとう)」と呼ばれている僧などの墓石です。「實相徳淳庵主」と刻まれていますので、實相院の庵主を勤められた庵主様の墓石でしょう。残念ながら年号を読み取ることができません。
四番目の石塔は、通常の墓石そのものです。果たして庵主の墓であったのか、庵主以外の人物の墓であるかは分かりません。無縫塔は、「禅宗の僧」でなけれれば建てることができなかった時代もあったようですので、庵主となっても「僧」の位になっていなければ、無縫塔ではなくて普通の墓石を建てることも考えられます。素人のくせに、ややこしいことを「いっちょまえに」に言っているとお叱りにならないでください。実は、畑沢地蔵庵の近くにも無縫塔と普通の墓石が並んで横たわっているので、實相院もそうであったのかなと思いを巡らせているのです。私でもそれなりに考えることもあります。
そして、一番、右側の石塔は紛れもなく無縫塔です。しかも、建てられた時代が新しいので、文字が全部残っています。
表に「昭和九年 實相唯心上座 旧十二月十一日」、
裏に「有志者一同 ☆☆‥‥ 昭和十六年旧七月七日建立 實相院 良觀代」
とあります。
この庵主は昭和九年に亡くなり、その墓を昭和十六年に、庵主と思われる良觀代の時代に村人有志が建てたものと思われます。ということは、少なくとも昭和九年までは庵主が住んでいたこと、もし良觀代が庵主であったならば、昭和十六年にも庵主が實相院に住んでいたかもしれません。
畑沢の地蔵庵は明治の半ばには庵主が居なくなりましたので、それに比べて實相院はかなり後年度まで庵主が居たようです。畑沢と古殿の集落の規模を比較すれば、理由は直ぐに分かります。