-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

背炙り峠(8) -峠の通行についての争いに勝つ-

2013-07-11 09:02:14 | 歴史

 江戸時代、背炙り峠の通行に関する訴訟がありました。この訴訟に対して、畑沢村をはじめとして延沢村、細野村の連合体は、毅然とした態度で立ち向かいました。このことについては、「尾花沢市史」(尾花沢市が平成17年に発行)で詳しく解説され、「郷土 Ⅱ」(楯岡高校による昭和45年の調査結果)には上記の三つの村が訴えた原文が資料として記載されています。また、「南出羽の城」(保角里志氏著)でも背炙り峠の重要性を示す例として解説されています。

 このブログでは、尾花沢市史の解説をさらに簡略化して説明します。

説明

 奈良時代よりもずっと昔、既に宮城県側から山形へ入る街道として、宮城県軽井沢から銀山の奥にある上の畑へ入る街道がありました。この街道からさらに山形方面へ行くには、畑沢を通って背炙り峠を越えていったようです。やがて、1,400年代半ばになると、銀山での銀採掘が始まり、取り出された銀などは、背炙り峠を越えて盛んに山形方面へ運搬されるなど、背炙り峠の街道がこの時代の主要道路でした。ところが、羽州街道(現在の国道13号線)が徳川幕府の宿駅制度の本道に位置づけられ鉱山も衰退すると、背炙り峠を越える街道の役割は主要街道から「脇街道」に変わりました。

 それでも、背炙り峠を利用した荷物の運搬が多いので、天保3年(1732年)、宿駅になっている尾花沢、土生田及び本飯田が尾花沢の代官に訴えを起こしました。「背炙り峠を通って荷物を運搬されると、宿駅の利益が減少し宿駅としての機能に支障が生じるので、背炙り峠を通らないようにしてほしい」というものです。それを受けて、代官が言い渡した内容は、この訴えに沿ったものでした。

 それから、21年後の嘉永6年(1853年 ペリーが浦賀に現れた年)に反撃が始まりました。畑沢、延沢及び細野村が連合して、代官所に反論したのです。  

その言い分は次のとおりです。

 背炙り峠を通る道は、昔を遡れば羽州の諸侯が奥州平泉の藤原氏へ出向くとき、延沢家が最上家に出向くとき、銀山が盛んな時代は銀を運ぶときに正式な街道として使われ、そして現在でも村々の産物による楯岡との交易のときに利用されているれっきとした公道であって、横道(抜け道)と言われるようなものではない(背炙り峠を通っても文句を言われる筋合いのものではない。)。これを止められると、村々の者が生活できなくなる。

 しかも、尾花沢宿の者は、尾花沢を通るときには難癖をつけて金銭を強請り(ゆすり)取っているほか、古殿・九日町の木を勝手に伐採するなどの強欲、非道の行いをしている。

 胸のすくような堂々とした、そして必死の論陣を張りました。さらに、現在の東根市にあった長瀞藩は原田、六沢及び上の畑村を領地にしていたので、背炙り峠の通行は重大なこととして、畑沢、延沢及び細野村の連合と同一歩調を取りました。その結果、長瀞藩の年貢輸送と畑沢、延沢及び細野村の産出物の通行が認められました。畑沢、延沢及び細野村は、筋の通らない宿駅の主張に対して、真正面から立ち向かい勝訴したのです。その先祖たちの力強い姿勢を子孫として誇りにしたいと思います。また、畑沢は尾花沢よりも楯岡との取引を重要視しており、背炙り峠が畑沢にとってどれだけ重要であったかを窺い知ることができました。

 ところで、畑沢では反論する1年前に、村の一大事業を行いました。それは、4月21、22日のブログ-巨大な湯殿山碑-の「背炙り峠(1)、(2)」で紹介しました湯殿山碑の建立です。この時のリーダーも、代官所に反論したときのリーダーと一緒です。畑沢の人が総出で石碑の一大事業を敢行し、翌年に反論に及んだと見られます。よほどの覚悟を持っていたことが分かります。

 

 ん!? ここで再び好奇心が湧いてきました。細野村は背炙り峠に来るにあたっては、どのようなコースをとったのでしょう。とても回り道となる荒町経由とは思えませんので、細野から畑沢へ直接通じる山道であったと思います。それはどこだったのでしょうか。細野の知人にも聞いて調べたいと思います。細野地区の地域振興活動は、活発です。きっと歴史についても調べている可能性があります。

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