-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

「背中炙り古道」と「楯」との関係

2014-05-27 17:30:37 | 歴史

 5月2日に背中炙り峠の調査を行いました。調査の目的は、これまで古道として明らかにしてきた「古道」よりも、もっと古い街道の跡があるはずであるとの私の仮説を確認するためです。

 

 昔の街道は、尾根に作られています。しかし、その原則に照らし合わせて考えると、背中炙り古道のルートでは、大きく原則から逸脱して、尾根でない所を道にしている場所が2か所あります。そして、その2か所とも、本来は尾根筋に道を作ることができるはずだった場所です。

 その原則を逸脱している箇所の一つは、乳母木地蔵堂(峠)から村山へ向かう直ぐの道筋です。峠からの道は尾根を外れて急な斜面の側面を進んでいます。

 ところが、その急な斜面の上には、なだらかな尾根が続いていますので、あえて急斜面をトラバースする必要性はありません。昔の街道が獣道(けものみち)や杣人の作業道から自然発生的に生じたものであるとすれば、歩行が楽で安全な尾根を避けるはずがありません。現在、残っている急斜面をトラバースしている道跡は、自然発生的なものではなくて、無理やり急斜面を削って造られた道です。何故にそのような道が残っているのでしょうか。理由は簡単です。尾根上に楯を造る際に、これまでの道が邪魔になったために、強制的に急斜面に付け替えさせられたものと思われます。楯そのものも大掛かりな工事を要したものと思われますが、道の付け替えにもかなりの労力を要したことでしょう。付け替えた道の中ほどには、「弘法清水」も湧出しました。その工事の年代は、「南出羽の城」の著者である保角里志氏が楯の構築された年代を関ヶ原の戦いに備えたころと推察されていますので、その説に沿った考え方をしますと西暦1600年の少し前あたりになります。

 背中炙り越え街道は関ヶ原の戦いのずっと以前から、銀山の金銀を運ばせた道であることはもちろんのこと、その一千年ぐらい前ごろからも使われていたであろうことを考えると、急斜面に「付け替えさせられる前の道」が残されていることが想像されました。そこで、先ず、乳母木地蔵堂から南へ尾根伝いに調べてみましたが、「楯の跡」ばかりで道の跡は一切残されていませんでした。「楯」自体が尾根を中心に作られていますので、道の跡が残されていないのは無理からぬことです。しかし、楯の最終端からはっきりとした道の跡が現われました。楯の最も西の端には、「切岸」があります。その切岸の直下からつづら折れの道形がありました。

 この道形は、現在残されている付け替えさせられた道(弘法清水のある道)には、繋がっていません。また、道巾と浸食された路面からは、杣人の作業道という程度のものではなく、れっきとした街道として使われたものと思われます。しかし、切岸から上の方の道が消えていますので、楯によって付け替えさせられる前の道の全てを解明することができません。それでも、関ヶ原の戦いを前にして、対上杉軍に躍起となっている野辺沢氏の必死だった当時の状況が目に見えてきます。楯と付け替え道路の工事には、大勢の作業者が必要です。畑沢村住人は勿論のこととして、野辺沢領内住人さらには銀山の鉱夫も駆り出されていたことでしょう。鉱夫は土工事が得意です。



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