私は何年か前に熊野神社周辺の椿について3回にわたって投稿したことがあります。
2015.3.15 もしかしたらユキツバキかなあ
2015.4.18 もしかしたらユキツバキかなあ(その2)
2015.5.3 もしかしたらユキツバキかなあ(その3)
さらに、もう確信したように投稿したのが次のタイトルです。
2015.8.30 熊野神社周辺のユキツバキ
以後、「熊野神社の椿」として話を進めます。
畑沢の熊野神社周辺には、大群落とも言えるほどに椿が生えています。畑沢を含めて尾花沢市内に野生の椿が自生しているなどということは聞いたことがありませんでした。従って、熊野神社の椿は神社境内にだけ植えている庭木と見方もありますが、神社の周囲に幅広くぐるりと200mに亘って生え、かつ実生の幼木が次々と林間に出ているのでは庭木と言う訳にはいきません。ただし、「群落」ならば単一の種で構成されるのでしょうが、果たして「単一種」なのか「複数種の寄せ集まり」かが分かりません。当時、私は単一種と思っていましたので群落の用語を用いました。そして、しばしば園芸品種で見かけるヤブツバキ系でないことから、ほぼユキツバキ(雪椿)だろうと見ていました。拙著の畑沢を再発見では確信的に雪椿と断定して紹介しました。
ところが、今年の1月15日にこのブログを見て下さっていた方から「ユキツバキのように見えますが、正確にはヤブツバキとユキツバキの中間種の『ユキバタツバキ』と同定したほうがいいようです」と教えていただきました。植物に詳しい方が、私のブログを御覧になってコメントで教えて下さいました。ありがたいことです。
私にはユキバタツバキ(雪端椿)は初耳でした。そこで雪端椿を含めて椿類全体について勉強することにしました。ところで、一応お断りをしておきます。今回も本題へ到達する前にかなり道草をしてしまうような気がしますので、お覚悟下さい。ところで、このブログにおいては、3種の椿の名称を漢字で表記します。日本の分類学では和名をカタカナで表記します。これは単なる記号にしか見えず、名前の由来が分かりにくくなっています。一方、万国共通の学名にはラテン語を用いられ、その文字には意味があります。このブログは学術書ではありません。由来の分かる漢字で表記します。
さて、先ずは雪椿です。雪端椿を知らなかったことは既にお話ししましたが、実は雪椿も雪椿として認識して目にしたことがありませんでした。もっと正確に言うと約50年前に隣県の雪椿の自生地で、雪椿を前にして雪椿の第一人者と言える専門家による説明を聞いたことがありましたが、全く覚えていません。当時は生き物では魚にしか全く興味がなく、雪椿を知る絶好の機会を逃してしまいました。つくづく料簡(りょうけん)の狭い人間だと恥じ入っています。
その後にもう一度、雪椿を目にしたことがあります。令和元年の11月、友人が白鷹山と山形市大平地区へ案内してくれました。雪椿の花が咲く時期ではなかったので、葉と幹ぐらいしか見えませんでした。しかし、葉や幹からも雪椿の特徴を勉強することができたはずでしたが、この時も「花が咲いていないから」と再び学習できる絶好の機会を逃してしまいました。小生の人生はこれからもこの連続でしょうか。情けない思いです。しかし、ただ一つはっきりと記憶に残ったのが、「大平地区には雪椿が群生している」ことでした。
雪椿の報告をする前に前に大平地区について説明します。山形市は西に尖がった形をしていて、その最先端が大平地区です。上山市、南陽市、山辺町さらに白鷹町とも隣接又は近接しています。大平は白鷹山(標高994m)の北東方向に広がった極めてなだらかな斜面をなしている標高670m近くの高原です。大きな地滑り状の地形ですが、周囲には角ばった火山岩が点在していますので、大昔の白鷹山の火山活動と関係があったのでしょう。詳しいことは知りませんが、山体崩壊とか火山泥流とかでしょう。
大平地区は戦後に開拓されて、その後、戸数が減少したと聞いていましたので、その歴史にも興味が湧きました。ところが、山形県立図書館と山形市立図書館で文献を探しましたが、開拓について記述されているものはありませんでした。そこで令和4年7月13日、西山形コミニュティーセンタにお聞きしたところ、「西山形郷土誌研究会長」を紹介してくださいました。同日に同会長に電話しますと、御丁寧に大平地区について次の説明してくださいました。
① 開拓の文献はない。
② 戦前、大平地区に「白鷹道場」と言う若者の訓練施設が建てられた。
③ 戦後、開拓地となり、10軒ほどがあり昭和30年代が盛りだった。今は1軒だけとなった。
④ 平成の半ばまで、大平地区の住民によって雪椿の手入れがなされ、雪椿と水芭蕉の祭を
やっていた。
⑤ その後、大平地区の戸数が減少して大平地区だけの手入れとイベントができなくなり、
平成30年頃から西山形地区としてイベントを行ってきた。しかし、それも今は手入れされ
ていない。
新たに「白鷹道場」というキーワードが出てきましたので、インターネットで検索すると、「歴史を語る建物たち 第5回」に辿り着きました。「東北公益文科大学 准教授 松山 薫」の記名があります。その中には白鷹道場の古い写真も添えられています。概要は次のとおりです。
① 戦時中、満州(現在の中国東北部)に数え年16~19歳の青少年を移民として送り出す、
満蒙開拓青少年義勇軍という制度があった。その訓練所が昭和13年に茨城県内原に…
…満蒙開拓青少年義勇軍訓練所……として設立され、そこには「日輪兵舎」の名で知ら
れる宿泊・研修用の建物が建ち並んでいた。…これまでに戦時中に全国で少なくとも
40カ所程あったことがわかった。
② 各地での呼称も「日輪兵舎」「日輪舎」「日の丸兵舎」などさまざまだ……。なぜ全国
各地にそのような建物が建てられたのか。日輪兵舎の「日輪」とは太陽の意であるが、
それは 単に平面形が円に近いからというだけではなく、当時の天皇崇拝の象徴でも
あった。
③ 山形県には、少なくとも4カ所にこの形態の建物があった。……ちなみに、…南村
山郡教育会の経営・日本国民高等学校の運営による柏倉門伝村(現・山形市)の
白鷹道場(昭和13年開設)…(は)…石原莞爾の教えを受けた個人が開設し…た。
さらにインターネットで「日輪兵舎」を検索すると、wikipediaにも記述がありました。石原寛治とは関東軍を率いて満州事変などに深く関わった山形県出身の軍人です。
(日輪兵舎を)考案・設計した古賀弘人は…地元の中学を中退して16歳で満州に
渡り、満鉄入社、その後第6師団の漢口派遣隊を経て、帰国後大阪高等工業学校
で建築設計を学び、満洲国軍政部と関東軍の嘱託をつとめたのち、満蒙開拓青少
年義勇軍に関わった。
また、あらためて県立図書館で白鷹道場に関する文献を探していると、昭和60年に西山形郷土誌編集委員会が発行した「続 西山形郷土誌 拓殖編」が見つかり、次の記述がありました。
(1) 満蒙開拓青少年義勇軍訓練所
昭和十二年十二月内地訓練所は…「満蒙開拓青少年義勇団訓練所」を開設した。
…蒙古の「パオ」に似た円形の宿舎、事務室、大食堂等特異な建物…を建設し、「日
輪兵舎」と呼んでいた。…
(2) 大平の日輪兵舎(白鷹道場)
昭和十三年拓務省、満州移民協会、大日本青年団郡内各市町村、柏倉門伝村等
二千四百円の寄付金によって日輪兵舎二棟、収納舎、事務室、炊事室建設された。
十四年五月南村山郡の町村長と校長が白鷹道場を実施検分し、開拓精神の涵養
と義勇軍の予備訓練等に適当な場所である事を確認し、五月十五日から…早朝に起
床し白鷹登山口の沼の水で禊をした。…
『蒙古の「パオ」に似た円形の宿舎は』の表現は、かなり的を射た表現のような気がします。パオは円形のテントなので庇はありませんが、パオを木造にすると庇が必要になり、日輪兵舎の形そのものになります。「日輪」の名称は天皇崇拝の託(かこつ)けではないかと思います。設計者は大陸に渡って満州又は蒙古でパオに感銘を受けた可能性があります。
郷土誌研究会長の御説明を聞いてから、さらに大平の近くで令和元年に見た石碑の内容を知りたくなり、大平地区へ三度目の足運びとなりました。すると、道に迷いながらも地元の方にお会いすることができました。ここでも気さくに私の質問に応じた下さり、次のお話を聞かせてくださいました。
① ここが大平地区の集落があった場所だ。昔は10軒あった。戦後、開拓村として県内外
から集まった。その中に白鷹道場出身者はいなかった。
② 昭和30年代ぐらいから集落を離れる人が出始め、今は1軒だけになった。
③ 白鷹道場は、現在の重機倉庫の辺りにあった。
④ 白鷹道場の訓練生は、近くの沼で泳いで訓練していた。その沼は今の釣堀でもなく、
苔沼でもない。
⑤ 訓練生は兵士として満州に渡った。満州開拓民にはならなかった。
⑥ 分校は、現在のポンプ小屋の裏にあった。
⑦ 集落内では石碑を見たことがない。
沢山の貴重な情報を得ることができましたが、どうしても石碑の存在を知りたくて、大平地区から西へ進みました。その場所で5年前に一緒にここへ来た友人へ電話しました。
「今、大平地区に来ている。5年前にここへ来た時に石碑を見た記憶があるが、場所が分からなくなった。教えてくれ」
「白鷹山から下山してスタート地点に戻るときに、石碑が道路の左側にあった。道路から少し奥まっていて、少し藪になっていた。石碑は土地改良に関わる内容だった気がする」
実に詳細な返答が来ました。この私とは雲泥の差があります。しかも、いつも優しく教えてくれます。これまでも山登りなどで何度か窮地を救われました。
お陰で私の頭の錆が落ちてかなり記憶が戻りました。もう一度、東側へ戻って左側を注意深く茂みの中を覗き込みながら進みました。薄暗い茂みの中に石碑が見えました。持参した鎌で石碑まで刈払いました。元々、石碑の前は小さな広場になっていたようです。石碑の後ろには桜のような大木もあるところを見ると、ここはこの集落の聖地だったようです。私はそのような場所を妙に愛おしく感じてしまいます。
石碑に刻まれた内容は次のとおりです。余計なお世話になるかもしれませんが、それなりに苦労しましたので説明させていただきます。
畑谷部落には水田が極めて少なかったので大変困っていたようで、昭和7年の秋に吉田七兵エが主唱し同志の56名とともに、国有林野の開発計画を立てたようです。「56名」とは畑谷部落の大部分にも見えます。昭和5年ごろに世界大恐慌が始まるなどして農家も大きな打撃を受けていた時代です。不況打開として「時局匡救(きょうきゅう)事業」という公共事業拡大策が取られました。当時、アメリカが景気浮揚策として実施したニューディール政策と同じものと言えるそうです。この地区の水田開発はこれに乗ったものです。工事は3年を要して昭和13年(西暦1938年)に完成しました。開発した水田は8町歩、メートル法で約80,000㎡ですから56戸の水田としては狭すぎます。平地での専業農家なら8戸分でしょう。さらに標高は650mぐらいなので単位面積当たりの収量はもっと少なくなりますが、必死に生産量を高めようとしている様子が分かります。もう一つ大事な情報は、大平地区の開墾よりも7年以上も早いことです。
ところが、この石碑の場所には、馬頭観世音の石仏もありました。向かって右側面には「大正十二年旧三月二十五日建之」と刻んであります。西暦では1923年です。先に紹介した石碑よりもさらに15年も前ですから、大平地区の開墾よりも22年前です。ただ、石仏の所在が必ずしもそこに住んでいた人があったとは限りません。畑沢でも人が住んでいない山の頂上などに石仏が多数、散在しています。
大平地区が最初に開拓村としてこの地帯に開村したわけではなく、既に直線距離で650mの近さの場所に先輩たちが住んでいました。ここは嶽原と言います。大平地区は嶽原の人たちから様々なことでお世話になっていたのではないかと思います。
さて、雪椿が自生している大平地区周辺が分かりましたので、本題の雪椿に戻り令和4年5月16日のお話です。
ブログのコメントを頂戴して、直ぐに4月には必ず大平地区の雪椿を見に行く決心をしていましたが、どうしても他の日程との調整がつかないままに5月の半ばを迎えてしまいました。もう遅いかなと思いましたが、一応、確認のために西山形コミュニティーセンターに電話でお聞きしました。
「見られる」との回答を頂戴しました。
その日、早速、妻と一緒に雪椿と水芭蕉の群生地として有名な山形市大平地区に行ってきました。
大平地区へ近づくにつれて杉林に囲まれると、やがて妻が右の奥を指さしました。
「あそこに椿が咲いている」
まだ、大平地区には入っていませんので、見えるはずがないと思いながらも、車を停めて林の中を覗き込むと、確かに椿が咲いていました。しかも椿がそこかしこに見えました。近づいて確かめると、はっきりとインターネットで調べた雪椿の特徴が表れています。葉も花もボロボロですが大丈夫です。
1 花弁が筒状にならずに平坦に広がっている。
2 雄しべの花糸(かし)の根元が筒状になっていない。
3 葉柄が短い
4 幹は太くならず、地面を這うように伸びる。
花を採取し幹を折った方が見やすく撮影できるのでしょうが、大平地区で大切に守ってきた植物ですから、そのことは厳に慎みました。醜い写真になりましたが、御容赦ください。
それでも畑沢の椿で確認できなかった1と2がはっきり分かります。やはり御指摘があったように畑沢の椿と大平地区の雪椿では違うような気がします。
遊歩道への入り口には看板があります。
ここから左へ入ると広い駐車場があります。私たち以外にも2台が駐車していました。時期外れでの鑑賞は私たちだけではなかったようです。
大平地区の雪椿群落は素晴らしいとは聞いていましたが、これほど広く雪椿が生えているとは想像だにできませんでした。水田や畑が耕作放棄され、そこに高木が生えるまでに時間が経過し、林間に雪椿が繁殖したと見られます。元々、周囲には雪椿が多い所なので、容易に耕作が放棄された場所へ雪椿の種子が動物などにより運ばれて発芽したのでしょう。林間を覗くと辺り一面が雪椿だらけと言えます。森林は何層もの階層をなしているのですが、ここでは高木の下層を雪椿が占めており、その下は厚ぼったい常緑樹のお陰で日光が極端に遮られているために、一般的なより下位の階層である笹や下草が生えにくいようです。
鬱蒼とした藪の中を覗くと、這いつくばるように幹を広げている雪椿が見えました。雪椿らしい枝ぶりです。藪の中は暗かったので、フラッシュ撮影です。
遊歩道沿いの雪椿にもまだ花がまばらに咲いていました。最初の花よりも新鮮です。もっともっと早く大平地区に来ていたならば、見事に満開となった雪椿を鑑賞できたでしょう。我が優柔不断な性格が疎まれます。
地面に花が落ちていました。落花ならば花びらを開いても問題ないでしょう。花弁を一つ押し広げて、雄しべの全体を見てみました。はっきりと雪椿の特徴と言われるように基部まで一本一本が独立してバラバラです。花弁も筒状にならずに平坦です。
雪椿の本題から外れて周辺の様子も紹介します。雪椿を鑑賞する遊歩道は、水路に並行しています。かつて、沢水を引っ張ってきた農業用水路と思われます。
水路に水芭蕉が生えていました。私がここへ行ったときには、もう時季外れでしたので、どちらも花が終わろうとしていましたが、水芭蕉が元気に瑞々しい葉を広げている姿がありました。
水路の岸には延齢草(エンレイソウ)大きな特徴ある葉の中央に小さな花が咲いていました。このほかにも矢車草が見えました。延齢草も矢車草も故郷の畑沢でもよく見られます。畑沢を思い出しました。
以上が大平地区での雪椿でした。かなり雪椿とは関係ないことまで手を広げてしまいましたが、雪椿と水芭蕉、そして大平地区の戦前・戦後の歴史にも私は感じるものが沢山ありました。
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