-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

三つの峠を串刺しにして

2017-11-06 20:15:57 | 近況報告

 11月になり、秋も深まってきました。私が住んでいる山形市でさえ裏山が紅葉しています。ましてや畑沢ではさぞかし紅葉が見事になっているものと、6日に畑沢へ出かけました。尾花沢市の延沢と寺内にも用事がありました。そこで、中沢と畑沢、畑沢と細野、細野と三日町の間にある峠を通ることにしました。三連峠です。

 山形から北へ向かって車を進めているのに、天童市も東根市の山も紅葉が目立ちません。それは、いよいよ背炙峠への登り口に着いても、その様子は同じでした。最近の秋はどこかパッとしません。下の写真は峠の登り口である村山市中沢の道玄です。道の奥に見える山並みは背中炙り峠の楯がある場所です。左の手前の道路わきの「モッコリ」は、採石です。春からずっと置きっぱなしです。来春の道路工事用の資材でしょうか、それとも不意の道路破損用に準備しているのでしょうか。もしも、工事用ならば、道路閉鎖期間が短くなるようにと拝んできました。

 峠に登っても、紅葉の美しさは見られません。遠くに高い山々がかすかに見えました。朝日山系の上部が白くなっていますが、葉山は全く白いものが見えません。この日も自宅を出発するのが遅かったので、靄(もや)のために鮮明な写真は撮れませんでした。

 山の紅葉は期待外れでしたが、畑沢の中に派手に紅葉している木がありましたので、畑沢の紅葉を代表してもらいました。樹種はヤマモミジです。

 下の写真は、畑沢から細野へ向かう農免道路だったところです。左の奥に畑沢地区生涯学習推進センターが見えます。中央の橋は、千鳥川を跨いでいます。この橋の名前が初めて分かりました。「関田川原橋」との金属プレートが貼られていました。地名に因んだ名称なのでしょうが、関田川原などと言う地名を聞いたことがありません。畑沢の地名は奥が深いようです。

 昔、この辺りは農業用水用に川を堰き止めた「おおぜき」と呼んでいたものがありました。雑木と土砂で造られたものです。畑沢の中で最も大きいので、「大堰」だったのでしょう。もしや、「関田川原橋」の「関」は、「堰」の意味なのかもしれません。

 この場所は、畑沢でのビューポイントです。少しだけ写真を撮ってみました。この橋から南側を撮ったのが下の写真です。中畑沢と上畑沢が見え、一番奥が背中炙り峠と楯がある山です。最も高い場所には、主郭(本丸)の跡があります。右から集落の方に下っている尾根の裏側には先達屋敷の跡があり、逆に左から下っている尾根の途中で杉林が少々こんもりとなっている所の近くには、延享元年(西暦1744年)に造立された山の神が鎮座しています。

 逆には北側には荒屋敷地区が見えます。背中炙り峠へ向かう古道と、細野村から来て五十沢へ向かう古道の交差点でした。手前の草むらの下には、千鳥川が左から右へ流れています。今はどこの川も、草むらで覆われていて、水面が見えなくなっています。

 

 峠を越えて、細野地区側に出ると、畑沢とは全く異なる景色が広がりました。最も高く見える山は御堂森です。細野地区は、御堂森と大平山という二つもの高い山から流れ下る水によって削られ、そこに堆積された土壌でできあがりました。それに比べて畑沢は、大平山からの水だけを水源にしてますので、作られた平地の面積が小さくなりました。昔から細野地区の戸数が、畑沢の4倍になっているのも当然です。


 さらに、細野から峠を越えて三日町へ抜けると、前田川に落下している小さな滝がありました。この滝の上流部に農業用水があり、田んぼで水が不要になると、この滝に落ちて来るようです。幸い、崖は硬い岩盤ですので、滝に削り取られることもありません。この岩盤は、恐らく頁岩らしきものでしょう。

 さらに三日町に近づくと、山の神神社が祀られていました。ただの山の神ではなくて、写真左下に水量豊富な湧水も一緒です。神社は昭和年代に改修されていましたが、屋根の部分は昔からのままのようです。残念ながら、年号が刻まれていませんでした。でも元々は江戸時代に造立されたものかと思いました。