goo blog サービス終了のお知らせ 

-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

繋沢観音堂跡は驚きに満ちていました。(その4)

2023-08-07 10:00:00 | 歴史

【繋沢に学校があった】

 さて、話を繋沢全体に戻します。六沢の同級生が、「昔は(繋沢観音堂)に学校があったと聞いた」と教えてくれました。しかし繋沢観音堂と学校を直接結び付ける資料は見つかりませんでしたが、「常盤小の百年」という本に常盤地区の昔の学校に関することが記載されていました。それによると、明治7年に学校制度が始まり旧村ごとに学校が置かれ、常盤地区の六沢村以外は既存の建物を校舎にし、六沢村だけは新築したそうです。六沢の学校では江口皐天氏が教員に就いたとあります。「新築」と「江口皐天」の二つの言葉が、「最上三十三観音」というホームページに「第23番六沢」に結び付きました。観音寺を復興(新築)した時の円照寺住職は「江口皐天」でした。観音寺が廃寺となって観音堂が新築されたのは明治初めと「お城山史話」にありましたので、学校に関わる人物と建物の時代が完全に一致します。

 観音堂は「六沢学校」も兼ねて新築されたと思われます。逆に学校制度が明治7年に始まっていますから、観音堂が建てられたのは、明治7年ごろと推察できます。昔は村にあるお堂は、村人の集会場所でもありました。そのころ学校を建てるにも村人の負担でしたので、観音堂と学校を別々に新築することは二重の負担になりますので、どこの村でも既存のお堂などが使われたようです。六沢は新築した観音堂が学校に使われたと考えると、私の同級生が話してくれた「繋沢に学校があった」という話は本当だったことになります。ここのお堂の敷地は広いし、子どもたちが遊ぶ広場も十分な広さがあります。六沢の子どもたちは恵まれた環境で勉強できました。

 

【椿】

 ②の花木については、椿を別途に投稿するときまでお待ちください。

 

【あらためて延沢軍記】

 ③の「延沢軍記」は、既に何度も出しましたが。あらためて「延沢軍記」を簡単に説明します。「延沢軍記」とは野邊沢家に係る事柄について、地元に伝えられている9冊の書を尾花沢市史編纂委員会がまとめたものです。9冊は、それぞれ「「延沢軍記」(龍護寺本)」「野邊沢軍記(塚田本)」「野邊沢軍記(片仮名本)」「延澤観阿弥嶽濫觴記」「野辺沢記」「野邊沢城記」「延澤城沿略記」「野邊沢家日野氏系譜」「延澤古城山天人清水之記」です。どれも、元和八年(1622年)の最上家が改易され、新たに山形藩を引き継いだ鳥居家が支配していた寛永年間(1624~1643年)に野邊沢の地名が延澤又は延沢に変更されてから書かれたものが多いのですが、延澤城沿略記は明治28、29年、野邊沢家日野氏系譜は明治40年、延澤古城山天人清水之記は大正4年です。どの本でも野邊沢と延澤又は延沢が混在しています。野邊沢家の名称は変更ないはずなのに、地名であった野邊沢が寛永年間に延澤(又は延沢)に変わったために、姓である野邊沢までもやたらと延澤又は延沢が誤記されています。歴史に専門的に取り組んでおられる最近の方々も、「延沢軍記」で間違った認識をしてしまい、「延沢」姓を使っている例が多数、見られます。初歩的な間違いですので訂正されるべきものと思います。特に公的な印刷物などを作る際は、行政組織として十分に注意が払われるべきものと思います。人は必ず間違います。間違いの多い私が言うのですから、間違いありません。はて、変ですね。

 さて、これら延沢軍記などの古文書は書き写して所蔵している場合が多いようで、大まかな内容として共通していますが、細かく見ていくと結構、文字が異なっています。今回のブログの繋沢シリーズでは、全ての古文書の全部を並べても意味がありませんので、その中からより正しく書き写されたと思われる一つだけを取り上げています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

繋沢観音堂跡は驚きに満ちていました。(その3)

2023-08-06 10:00:00 | 歴史

図9 昭和48年の観音堂敷地図

 

【繋沢観音堂】

 図9は前回と同じものです。写真は国土地理院が1968年(昭和43年)に撮影した整理番号MTO686XのWEB版に加工しました。

 土地や建物の長さは、図9の写真と国土地理院の地形図を重ねて基準となる道路の長さを割り出し、それを写真上での長さに比率を乗じて計算しました。さて、黒い線で囲まれた区域がすべて観音堂の敷地だとすれば、かなりの広さです。現在の常盤小学校のグランドに匹敵します。

 繋沢観音堂の屋根を白い線で縁取りしました。かなり不明瞭な画像でしたが、建物や樹木の印影などから輪郭を推定しました。「古城山史話」にお堂の写真が掲載されていましたが、著作権者の了解を頂戴する手段がありません。関心をお持ちの方は、古城山史話の原稿を探して御覧頂くか、六沢地区のお知り合いにお頼みください。必ず良好な写真があると思います。お堂は東の参道を向いていて、南北方向に破風を設けた茅葺きの入母屋作りです。破風には魔除けの鬼面らしきものがあったようです。正面には、下屋が見えました。

 「郷土史之研究」に、は当時、観音堂に保存されていた次の三点が記載されています。なお、青井氏の表現が錯綜していましたので、少し表現を変更しました。その後、昭和52年ごろに繋沢観音堂が解体されましたので、それを円照寺が引き継いで保存されています。

翁 面

 康永五年六月十七日納と書かれていたようですが、青井法善氏は「康永ハ北朝光明帝ノ年号デ三年マデシカナイ」と疑問をお持ちでした。「古城山史話」には、円照寺に能面が3個あると書いてありますので、上記の康永年間(1342~1345年で室町時代)の能面を除いた2個は元々、円照寺に伝わっていたものとなります。

額 面

 観音寺の説明書きの中で紹介した山澤城と書かれた山号扁額のことです。

漆絵馬

 野邊沢遠江守滿康(この人物は名前が何度も変わりました。一応、ここでは絵馬に書かれている名前に統一します。)が慶長出羽合戦後に納めたと、元禄五年に修復の際に説明書きがなされています。

 ところで、「延沢軍記」に「繋沢観音堂」が出てくるのは、大正4年に書かれた「延澤古城山天人清水之記」だけです。そもそも、野邊沢城があった時に繋沢観音堂があったかどうかを判断できる資料は見たことがありません。このことに気付いたのは、ブログ「とうほく見聞録」の「円照寺(最上三十三観音第23番札所)」にあった説明文にあります。

…。その後、観音像を安置していた観音寺は廃寺となりますが、村の信者達が近くの円照寺に依頼し、当時の住職の努力により観音寺跡地に観音堂が復興されます。しかし、観音堂が倒壊したことにより、円照寺の境内に移転され、現在に至るとのことです。

 また、このブログの文章の元となったと思われるものが、最上三十三観音札所別当会が主催している「最上三十三観音」というホームページに「第23番六沢」と題して次のとおり説明があります。

いつのまにか観音寺は廃寺となり、村の信者達が近くの円照寺に依頼し、当時の住職江口皐天大和尚の努力で観音堂は復興した。しかし、当観音堂は倒壊寸前となり、円照寺二十世哲生大和尚は、円照寺境内に改築移転、同七月に落慶式を行った。

 つまり、これらが真実だとすれば、

「観音寺があったが廃寺となったので、その跡地に観音堂が復興した。その観音堂も倒壊寸前になった(又は倒壊した)ので、観音像が円照寺に移された」

ということになりますが、文章の用語に疑問があります。「復興」ならば、元々あった建物を再び建てたことになりますが、観音寺の跡に建てるならば、元々、観音堂はそこになかったことになり「復興」と矛盾します。ただし、観音寺がなくなった跡に別の所にあった観音堂を再び建てた場合も復興と言えます。しかし、観音寺があった時に、観音堂が別棟で既に存在していたとは思えません。それは先述のとおり、延沢軍記に「観音堂」が全く出てこないことと、山寺の立石寺などのような大きな寺院ならまだしも、地方の小さな寺が別棟でお堂を建てるとは考えにくいからです。でも、「復興」の意味をもっと考察する必要があります。

 私は

「観音像は観音寺のお堂の中にあったが、寺がなくなったので観音像を安置する御堂を建てた」

と見ています。「古城山史話」によると、観音寺は明治初期に廃寺となったとありますので、観音堂はその後に建てられたことになります。因みに観音堂は倒壊したのではなく、昭和52年ごろに六沢地区の方々が涙を呑んで解体を決意したものだそうです。

 ところで、最上三十三観音のホームページの説明では「倒壊寸前」だったのが、それを元にして投稿したブログでは「倒壊した」とされています。このように私たちは、書き写したつもりだけなのに、間違いを起こします。私の場合はさらに思い込みも入りますので、間違いの多さは人一倍多くなります。

 

【絵馬は観音堂に奉納されたのか】

 さて観音堂は観音寺の跡に建てられたということが事実だとすれば、絵馬が繋沢観音堂に奉納されたとする各種の歴史書等は事実と異なることになります。絵馬が繋沢観音堂に奉納されたとなったのは、何から始まったのでしょうか。「延沢軍記」の解説(p.144)に次のとおり記されています。(縦書きを横書きにしました。)

同年十一月十七日、延澤城主延澤滿康、繪馬ヲ六澤村繫澤観音堂ニ奉納ス。

 「同年」とは、慶長六年のことです。これは、「北村山郡史」から抜粋したとされています。さらに、これを確認するために、国会図書館デジタルコレクションの「北村山郡史」(p.159)を閲覧しました。当然ながら「繋沢観音堂ニ奉納ス」とあります。(縦書きを横書きにしました。)

同年十一月十七日、延澤城主延澤滿康、繪馬ヲ六澤村繫澤観音堂ニ奉納ス

[繋沢観音堂所蔵]

繪馬

慶長六年辛丑閏月十七日敬白

        滿康。

諸願成就皆令滿足故也。

 「北村山郡史」は大正11年の発行です。それでは、さらに時代を遡って「観音堂」の文字が入っている文献を探しました。唯一、観音堂が出て来るのは、大正4年8月に記したとされる「延澤古城天人清水之記」だけです。その部分を次に抜き書きしました。

図13 延澤古城山天人清水之記(抜粋)

 一行目にある「額」は、二行目の「城澤山」の上に入れるべきところを誤ったようですが、意図は分かります。一から三まですべてが奉納されたものとしています。奉納されたものかどうかが不明なのに、保存された状態を「奉納」と解釈したようです。

 「繋沢観音堂へ奉納」は大正4年8月の「延澤古城天人清水之記」から始まったのかもしれません。さらに、北村山郡史では、「延澤(野邊沢)滿康が繋沢観音堂へ奉納」した趣旨の内容にまで言及してしまいました。

 参考までに、昭和2年に著された「郷土史之研究」の中で繋沢観音についての記述には、「堂」や「堂宇」の文字が見えますが、その文字の上に「観音」や「観世音」が付いていません。単なる建物の意味だったのでしょう。そして、「郷土史之研究」のこの部分だけは、正確な記述にはほど遠く、説明が乱雑になっていますのでこれ以上の追及はできません。

 観音寺があった時代には観音堂がなかったとすれば、絵馬などの観音堂に保存されていた物の全てが観音寺に奉納されていたかもしれません。しかし、「観音寺に奉納された」と言い切る文献などの根拠も探せません。ならば、次の表現が妥当なところかと思います。

「現在、円照寺に大切に保存されている□〇∇などは、大正4、11年と昭和2年には繫沢観音堂に保存されていたことが分かっています。しかし慶長六年はおろか、その後の江戸時代にも観音堂が存在していたとする証拠はないが、むしろ観音寺の存在は明らかなので、元々は観音寺にあったのかもしれません。しかし、観音寺に奉納と記す記録もありません」

 ところで、野邊沢滿康が奉納したと言われている絵馬は、現在、円照寺に保存されている外に、荒町の八幡神社に大きなものがあります。何れも野邊沢滿康が慶長出羽合戦に出陣するときに戦勝祈願をして、合戦が終わってから御加護を謝したように見えます。

 「延沢軍記」に収録されている各種の本の中に出てくる祈願所は吉祥院だけで、金剛院(八幡神社の別当)も観音寺も祈願所であるとは書かれていません。祈願所に戦勝祈願しないで、祈願所でない所に祈願している不思議さがあります。さらにややこしくなっているのが、祈願所だった吉祥院は「郷土史之研究」によれば最上家改易の時に寺領が没収されて消滅し、滿康の時代の祈願が、どのように行われていたかが分からない状態です。また、観音寺から繋沢観音堂へ繋沢観音堂から円照寺へ受け継がれたように、吉祥院にあったであろう各種の祈願に関わる書や物も、どこかへどのようにかして引き継がれたのかも興味あるところです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

繋沢観音堂跡は驚きに満ちていました。(その2)

2023-08-05 14:21:56 | 歴史

 さて、繋沢全体の本題に戻ります。観音堂の跡地の広さに驚き、さらに思いは広がりました。

 

① もしかしたら、遠い少年時代の思い出とも繋がりそう。

② 繋沢観音堂跡の椿は、「延沢軍記」の城の馬場の花木とも関係がありそう。

  片仮名本から抜粋して横書きにしました。

  …二の丸ノ階ニ馬場アリ、幅七間、長サ百間也、四方ノ土手高ク築キ花木ヲ植タリ、

   馬場ノ中央ニ茶屋アリ、…

③ そもそも、「「延沢軍記」」や青井法善氏の「郷土史之研究」には、繋沢観音の記述が

  沢山あった。面白いことが分かりそう。

【お祭りの思い出】

 ①の少年時代の思い出とは、小学校時代に六沢の祭礼にお呼ばれした時のことです。お昼を御馳走になった後で、何らかのお堂があったであろう所の出店に行きました。肝心のお堂へのお参りは全くしないで、出店の商品に目が釘付けになっていました。数々の玩具などと一緒に、少年雑誌の付録である古い冊子が私を虜にしていたのです。私の好きだった旧日本軍の軍用機の図解と説明の資料です。当時、日本は敗戦後にもかかわらず、朝鮮戦争の影響で軍国主義的なものが流行し、少年雑誌には軍艦、軍用機、戦車などが溢れていました。私は戦争の道具そのものよりも、そこで使われている高度なメカニズムに興味がありました。特に空を自由に飛ぶ飛行機には大きな夢がありました。結局、他の商品には目もくれず、その古本を買いました。そのために飛行機の知識は飛躍的に豊富になり、今でも「飛行機馬鹿」は治っていません。

 しかし、これらの軍用機が太平洋戦争で数多くの敵・味方の兵士と民間人の命を奪った事実には思いが至りませんでした。大人たちの胸には、まだまだ戦争の生々しい傷が残っていたのに、その傷口に塩を塗るようなはしゃぎようでした。

 さて、かなり鮮明な記憶が残る場所なのに、出店がどこにあったかが思い出せません。でも周囲の雰囲気は覚えています。

「小雨が降っている温かい季節」

「出店までの道は田んぼの中」

「出店の場所からお堂らしきものは見えなかった」

 これだけの記憶では何ともならないのですが、今回、ようやく謎が解けそうになりました。後日、六沢の同級生二人に聞いてみたら、祭礼の場所は繋沢観音でした。祭りは7月16・17日の2日間にわたり、間に夜祭も行われ夜店もあったそうです。青井法善氏の「郷土史之研究」には、縁日は6月17日とありますので、私が祭礼に行った頃は旧暦で祭礼を行っていたようです。雨降りの温かい季節と合致します。お堂が見えないのは、見えたはずなのに出店に夢中だったからです。その頃は観音堂があったはずです。私の少年時代の思い出の場所はここでした。

 

【繋沢観音堂跡の昔を考える】

 さて、繋沢の鳥居が円照寺に移転したことを前述しましたが、昭和52年、円照寺に新たにお堂を建築して繋沢観音を移転していますので、繋沢の方は「繋沢観音堂」となりました。観音堂があった時期と現在では大きく様変わりをしています。そこで、繫澤観音が移転する前の姿を留めている航空写真で当時の様子を想像します。写真は国土地理院が1968年(昭和43年)に撮影した整理番号MTO686XのWEB版です。

図9 昭和48年の観音堂敷地図

 

【もっと昔は観音寺がありました。】

 航空写真にお堂、銀杏及び鳥居を確認し、さらに石仏を目測して記入し、観音寺跡を想像して書き加えました。観音寺の位置は田村重右衛門氏の作図から拾ったものですが、確証はありません。後述しますが、観音堂は観音寺が廃寺になった後でその場所に建てられたという話もあります。そうすると、観音寺は観音堂が建っていた場所にあったことになります。それも確認はしていません。

 「古城山史話」に次の説明がありました。

六)、観音寺

 城沢山観音寺と称し野辺沢家五十石の祈願所であり、つなぎ沢観音の門前にあって同観音の別当寺でもあり城主の尊信殊の外篤かったが、野辺沢家の没落以来衰微し天保期よりしばしば無住職となり明治初期に廃寺となった。然し観音堂の方は一貫して円照寺が管理しており城主よりの貴重な寄進物は大切に保管されている。

観音寺跡は元城内、現六沢に当る。

現在観音堂の方は円照寺境内に移建、装いも新たに最上三十三番札所として繁栄している。

 

 別当とはその寺社の代表管理者みたいな存在です。つまり、観音寺が繋沢観音堂を管理していたことになります。しかし、観音堂は観音寺が廃寺になってから建てられたとする話が本当だとすれば、別当そのものの意味がなくなります。「古城山史話」で別当とする根拠を知りたいところです。別当と言うのが正しいのか誤りかは、判断する材料がありません。

さて、上記の様に最上家が改易されて野邊沢城に城主がいなくなったころから、観音寺は次第に経営が苦しくなっていったようです。衰退する理由を次の様に考えてみました。

Ⅰ 寺領没収か

 因みに延沢(三日町)にあった真言宗の吉祥院は、最上家改易後に寺領50石が没収され、住職はこの地を去ったと青井法善氏の「郷土史之研究」に記述されています。観音寺が真言宗かどうかは分かりませんが、密教系であろうと思われます。もしかしたら観音寺も寺領を没収されるなどしたかもしれません。もしも寺領が没収されていれば、経営難に陥った可能性があります。

Ⅱ 人も物の流れも変わった

 「延沢軍記」の野辺沢記には次の一文があります。縦書きを横書きにしました。

霧山ヶ城の東切通したる、延沢の落城後、森合通路ハ弐丁余の廻り迚、左京殿御切通し給ふとや、

 最上家改易後の寛文年間に、山形藩の鳥居家が延沢銀山からの運搬を改善するために、現在の六沢トンネルの上部にある鞍部に切通しを造って新道を開鑿しました。私は現場を2020年4月に確認できました。硬い岩を削った大工事だったようです。新しい道によって人と物の流れが大きく変わり、繋沢の通行量が極端に減少したでしょう。

Ⅲ 周囲の人家が減少した

 城の裏門側を守る野邊沢家の多くの家臣たちが、繋沢にも居住していたものと思われますが、改易後にその場から離れてしまい観音寺周辺の集落が壊滅状態になった可能性があります。

Ⅳ 寺請制度

 徳川幕府は檀家制度及び寺請制度を始めましたが、観音寺がこの制度とは異なる経営だった場合は、檀家から得られる安定した収入がないので、人通りが極端に減少すれば苦しい経営に陥る場合があります。

 観音寺が衰退して無住職になるなどしたために、六沢村々民と円照寺が昭和52年まで守ってきたのでしょう。円照寺に保存されていた観音寺の山号扁額(さんごうへんがく)が、「古城山史話」に写真が掲載されています。明治初期に観音寺が廃寺となって、扁額が円照寺に保存されたようです。扁額の写真は昭和58年(1983年)ごろに撮影されたようですので、それから40年後の今でも円照寺に大切に保存されているものと思います。

図10 扁額のイメージ画像

 この扁額については、「郷土史之研究の繋沢観世音の項目に「(山澤城と書かれた額面が繋沢観音堂に保存されていて、)城澤山観音寺と称していたのである」と記述されています。観音寺が廃寺となった明治初期から昭和52年に円照寺へ移されるまでは、扁額は観音堂に保存されていたものと思われます。「郷土史之研究」には、さらに扁額の裏に書かれている内容が記されています。

図11 扁額の裏書

 扁額を寄贈した者などの記名だと思います。松平下総守清良は主催者、土方は工作した者、竹下は揮毫者、白井と小松は松平の配下の者と見ました。

 裏書の年号に関係するこのあたりの出来事を「古城山史話」の野辺沢家関係略年表から拾い、簡単な表にしてさらに少しの説明を加えました。

西暦

年号

代官名

御城番名

1622

元和八年

(山形藩領)

鳥居左京之介(山形藩主)

1636

 

(〃)

保科肥後守   (〃)

1643

 

(〃)

堀田太郎左衛門 (〃)

1644

正保元年

松平清左エ門

1648

慶安元年

松平下総守   (〃)

1658

万治元年

松平市左エ門

1665

寛文五年

(御城番廃止)

1666

寛文六年

松平清兵エ

 

1667

寛文七年

(十月十一日破却済み)

 廃城になった野邊沢城の御城番は、鳥居家から松平忠弘まで代々、山形藩主が務めていたようで、延沢領が山形藩から外れて直轄地になってからもそれは変わらないで続いていました。扁額裏書の松平下総守は満17歳頃に山形藩主となり御城番に就きました。10年後、次の御城番にバトンタッチしましたが、その人物は山形藩主ではない様です。さらに7年後には御城番は廃止されています。肝心の御城番がどんな役割を持っていたのかは調べることができませんでしたが、恐らく城の最高管理責任者的なものかと想像しました。

 「松平下総守清良」は当時の山形藩主松平忠弘で、Wikipediaによると「清良」は幼名とのことです。扁額を寄贈した時、忠広は既に36歳なのに何故、幼名を用いたのか不思議です。

 裏書から扁額が作られたのは、野邊沢城が破却(解体)される約3ヶ月前です。松平忠弘は既に御城番の任を務めていませんが、まだ山形藩主です。わざわざ山形から延沢までやって来たのか、それとも寄贈の品物だけを届けたのかは分かりません。何れにしろ、無事に城の解体を完了できるように祈願したように見えます。もしも、山形城主が訪問したならば、さぞかし延沢を支配している松平清左衛門代官も、丁重に迎えたであろう姿が目に浮かびます。代官も山形城主も同じ松平姓ですから、由緒あるお仲間かなと素人らしい想像をします。

 観音寺に関する次の歴史資料もあります。「郷土史之研究」によると、観音堂門前の左側に次の石仏(供養塔)らしきものがあると書かれています。ただ私は現場で実物を確認をしておりません。

図12 観音地蔵経供養塔

 この資料を観音寺に関係していると判断したのは、「七十五世 正憲」の部分です。「世」の文字は住職によく使われます。それにしても75代目の住職とは、よくもここまで代を重ねたものです。供養塔が建てられた文化七年(西暦1810年)は、野邊沢家が消滅した1622年からまだ188年です。

 供養塔の「宮内神宮寺(じんぐうじ)」の文字は、現在の南陽市宮内にある熊野神社の中にあった寺だと思われます。当時は神仏習合で大きな神社に付随して神宮が建てられていたそうです。宮内の熊野神社に神宮寺があったという記録を見たことはありませんが、宮内の熊野神社は全国的に見ても大きな神社であることと、宗教的にも天台宗、真言宗、修験道などを幅広く網羅していたという事ですから、供養塔の「宮内神宮寺」はそのまま受け取りたいと思います。そこで観音地蔵経を六万回も供養して修行したと示す石仏かと思います。そのことから観音寺は真言宗などの密教系の寺だったかと想像します。

 ところで、観音経という単語はありましたが、観音地蔵経という単語を見つけることができませんでした。また、六万辺とか一万部という途方もない回数はどのようにして達成できるのかを想像することができません。

 この供養塔を建てた文化七年は、畑沢の巨大な湯殿山・象頭山の石仏を建てられた前年です。このころ各所で随分と多くの石仏が建てられています。「古城山史話」によると、観音寺は天保年間からしばしば無住職となった旨が記されていますが、文化七年(西暦1810年)から天保年間(1830~1844年)までは20年しかありません。もしかしたら正憲が観音寺の最後の住職だったかもしれません。ところで、六沢には文化四年に建てられた湯殿山の石仏があります。3年の開きしかないので、正憲が揮毫したのかなと想像したりしてみました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

繋沢観音堂跡は驚きに満ちていました。(その1)

2023-08-04 19:42:35 | 歴史

 今回は尾花沢市六沢地区に係ることです。一応、ブログ内容の分類では「歴史」などとしていますが、どちらかというと「あれこれ思いつくまま」分野です。脇道に反れることの多い私ですから我慢してください。六沢は同市の畑沢と比べると広大な地区です。その中から繋沢観音堂跡などについて、「延沢軍記(昭和60年 尾花沢市史編纂委員会編集)」などを参照しながら「あれこれ思いつくまま」投稿します。できるだけ間違わないよう注意を払いますが、それでも間違いを恐れず私なりに掘り下げてみます。

図1 繋沢観音堂跡の位置図

 そもそものきっかけは、「畑沢地区の熊野神社周辺の椿が何たるものか」を調べるために、六沢地区を訪れたことです。7年ほど前、尾花沢市で最も植物に詳しい大高滋氏に野外に自生している椿に教えを請うたところ、明快に答えてくださいました。

「尾花沢市内で雪椿が見られるのは神社仏閣や墓地で、自然の山林などでは自生していない」

大高滋氏は、既に故人となられています。もうお教えを請うことはできません。私は尊い貴重な教えを受けたことになります。もう大高氏のような御仁にはお会いできないかもしれません。

 さて、大高氏の言ことを逆に受け取れば、「神社仏閣の境内や墓地に雪椿があるかもしれない」ということになります。そこで、常盤地区でも最も古い歴史を持つ円照寺なら椿があるかもしれないと出かけました。御住職がおられたので、椿を植えられているかどうかをお聞きしたら、直ぐに御返事を頂戴しました。

「寺には椿はない。しかし、繋沢観音堂跡には、普通の椿とは違った素晴らしい椿があると聞いている」

 大変、優しく対応して下さり、そこへ至る道も丁寧に説明してもらいました。早速、行って見ました。繋沢観音堂跡への入り口は、綱木川を渡って直ぐです。

図2 入口の写真

 

 因みに尾花沢市史編纂委員会が昭和60年に著した「延沢軍記」に掲載している口絵の写真では、入り口に鳥居が見えますし、橋の形も今のそれとは違います。観音堂に鳥居というのも分かりにくいのですが、神仏混淆ならいたって普通のことでしょう。私はそれが好きです。繋沢の入り口にあった鳥居は、現在、繋沢観音とともに円照寺に移されています。柱に刻まれている創立年は、明治14年辛巳(西暦1881年)です。この繋沢観音跡に建っていたという観音寺については少し詳しく後述しますが、観音寺は明治初期に廃寺となったという事ですので、この鳥居はその後に建てられたと推察します。

図3 円照寺内の鳥居

 

 入口から少し進んだ右側に、雪椿らしきものがありました。葉柄が短くて、雪椿の特徴がありました。残念ながらまだ花は咲いていません。雪椿かどうかは判定できません。開花期に出直す必要があります。椿のことは別の日にブログで説明します。椿のことは大事ですが、私はそのこととは別に椿の向こうの景色に驚きました。椿の直ぐ西側の広い場所に石仏が4体ありました。

図4 観世音

 いつ建てたかは分かりません。「観世音」の左脇に草書体の文字が刻まれていたのですが、私の能力不足で一文字が分かりません。「林□如意」「講中」としておきますが、怪しいものです。でも、観音講での石仏かなと見当を付けました。この場所が観音を祀るお堂があった場所ですから、昭和52年までの長い間、観音講が実施されていたと推測します。

 

図5 天照皇大神・豊受大神

 明治26年に16人、大正5年に12人、大正8年に5人の名前が見えます。

 

図6 八幡大神・天照皇大神・春日大神

 いつ建てたかは分かりませんが、この神様のメンバーは明治以降かなと想像しています。

 

 この奥にさらに道が続いていて、石で造られた祠がありました。

図7 観音堂跡祠

 これが繋沢観音堂跡の記念として建てられたものと直感しました。建てられた年などは刻まれていませんが、観音が円照寺に移転した昭和52年(1977年)ごろだと思います。この場所は観音堂の中心位置だったのかもしれません。

 

 さらに敷地内の林を西へ抜けると農地が広がっています。その右側の尾根の付け根に鳥居が見えました。好奇心の塊は老身になっても健在です。細い小さな尾根にお堂がありました。

図8 稲荷神社

 この神社については、菅藤貞次郎氏の「古城山史話」に次の説明があります。

※六沢つなぎ沢の稲荷神社

 元亀二年(1571)稲荷宮として建立。 祭神は保食神(ウクモチノカミ)とし農業を司どる神である。今に残るつなぎ沢稲荷神社々屋の規模は小さく、わずか壱間四方にちょっぴり奥院を付したものだが昔はもっと大規模なものだったろう。境内は今こんもりとした杉林となっているが中に六本杉という変った杉が残っている。何のことはない、これは一度伐採された大杉の切口から又小杉が生え、それが六本になって何れも数百年を経ているのである。付近には尚大木の伐採跡がこけむして随処に残っており、わずかに昔の面影をしのばせる。

 例祭日は旧三月十二日で昔から変ったことがないとのことです。小さな御堂ですが、野邊沢城があった時代に建てられたかなり古い神社のようです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

峠の石仏「湯殿山」調査が一歩前進しました。(その2)

2023-01-09 20:29:37 | 歴史

 背中炙り峠(古道)の石仏湯殿山「湯殿山」は、嘉永五年に建立され、同じ年に同じ長源霊苗なる僧が揮毫した湯殿山がありました。そのことについては、(その1)で紹介したとおりですが、もう少し詳しく言うとは河北町谷地の松橋と寒河江市高松に背中炙り峠の湯殿山と同じ年に同じ人による揮毫の湯殿山がありました。このことは過日、紹介した長井市の方からの情報です。

 そのうち松橋地区については、(その1)で石仏そのものをお見せし畑沢との関係があるかのような勿体ぶった書きかたを最後の方に加えています。その勿体ぶったこととは、下の写真にある若宮八幡神社の看板の説明書きにある単語から気付きいたことです。

 左から8行目の「荒町村」です。これは私が大分前に「尾花沢市史の研究(編 横山昭男)」に次の文章の中で見た地名でした。

領域の変化は政治的に大きな問題であった。領域削減についてこれより先、文政十一年に次のような一件がある。

 それは尾花沢附四十八ヶ村の村々名主連判で、一〇年前に尾花沢陣屋附から柴橋代官領に移管された三ヶ村松橋村、荒町村、工藤小路村の奪還要求を尾花沢代官竹垣庄蔵に行った事件である。この嘆願書に

「前畧、私共郡中村高相減シ素より辺鄙困窮の土地柄ニ而郡中村々之儀定例仕来り候而村用其外共壱村限り相弁し候儀は格別郡中一統エ相拘り候儀は諸色入用共則郡中ニ而割合取斗来候間村々引請割合入用高自然与相嵩ニ次第ニ罷成必至与難儀仕候間依之村々一統評議之上得与勘弁仕候 後畧」

 とあり、その理由は、三村の削減によって郡中村々の諸費用徴収率が嵩むということにつきるが、加えて「辺鄙困窮之土地柄」で、「金銀融通相更ニ無之」土地条件を全文でも明らかにしている。この三村の経済事情はくわしく分からぬが、谷地周辺の平野部の村々であるから「稲作一毛ニ而御年貢上納高役諸夫銭等相勤」る尾花沢領の村々にとって三村の確保のためには必至であった。漸く天保六年この一件は工藤小路、松橋村二ヶ村の返還によって落着している。

 当時、この文中の三ヶ村が現在のどこにあるかを調べて次のような結論を出し、拙著「畑沢を再発見」に載せていました。

  • 松橋村 (現在の船形町内)
  • 荒町村 (畑沢の隣の荒町は延沢村に含まれるはずなので、どこの荒町かが分からない。)
  • 工藤小路 (現在の河北町内)

 今、思えば、実に拙い調査でした。当たっていたのは工藤小路村だけで、実際は三ヶ村の総てが現在の河北町谷地にあります。約五年ぶりに間違いを訂正できます。何故、谷地地内にある村々が遠く離れた尾花沢領に属していたかを知りたいところですがそのことは分からないまでも、少なくとも谷地の三ヶ村が、背中炙り峠がある畑沢とは同じ尾花沢領に属していたことが分かりました。谷地の松橋村と工藤小路村は、その後も明治維新まで尾花沢領だったようです。この両地区は畑沢などと深い関係にあったことになります。

 そして、この三ヶ村領域奪還の代表者が豊島他人太であり、背中炙り峠の通行の願いと湯殿山建立を主導していたのも豊島他人太です。ただ、年月にはかなりの開きがあります。代官所の所領替えと背中炙り峠の通行の問題が重なっていた時代です。長源霊苗が揮毫した「湯殿山」には並々ならぬ強い気持ちが込められているようです。

谷地三ヶ村が尾花沢代官所領から寒河江代官所領へ移管 1816年

  〃  を戻すよう尾花沢附四十八村が要望書提出  1818年

背中炙り峠の荷物通行差止めの尾花沢宿等の訴え通る  1832年

松橋村と工藤小路村が尾花沢領に戻る         1835年

背中炙り峠などに湯殿山など建立           1852年

  〃   通行を認める様返答書          1853年

  〃   通行の一部が認められる          〃 ころ

 

 それでは寒河江市高松の湯殿山は、どのような関係になるのでしょう。高松の湯殿山は、同地区内の工藤某家の屋敷の中にあります。この地区には大きな屋敷を構えた何軒もの「工藤家」があり、大いに栄えたと思われます。さて、谷地の「工藤小路村」の「工藤」と高松の工藤家の関係がありそうですが、解明できませんでした。一応、河北町史と寒河江市史を拝見したのですが、手掛かりを見つけることはできませんでした。調査を継続とします。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする