-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

ユキツバキかなあ(その14)おしぇど山の椿

2024-01-14 10:06:53 | 自然

 令和5年4月23日、稲荷神社の椿を撮影して直ぐにそのままおしぇど山に登りました。2点間は水平距離にしてたった約110mで、標高差は約30mです。昔は山道があったそうですが、今は藪漕ぎが必要です。慣れていますので何とかなります。尾根の上に文化五年(1808年)に「お伊勢堂」を建てられ、訛って「おしえど」と呼ばれています。さらに遡って戦国時代は、この場所に「村の城」である村人の楯が造られました。

 椿はこの「お伊勢堂」に供えられたようです。即ち文化五年ごろに植えられたのではないかと期待しています。もしも、楯が完成したころに植えられたものならば熊野神社(1655年建立)の椿よりも以前から存在していることになりますが、それは欲張りすぎかもしれません。 

 椿は一株だけに見えますが、一株にしては大きすぎるようにも見えます。根の場所を確認すればいいのですが、いつものようにせっかちに先へ急ぎました。

 ここの花も、花びらが横に広がっており、雄しべの基部の融合らしきものが見えないので、外見は雪椿そのものです。

 

 雄しべを横から見ると、私の実家の椿と大差がないように見えますが、基部がより独立して感じがあります。特に際立った特徴は、雄しべに囲まれた中央にある雌しべです。雄しべよりも背丈が高くて、完全に飛び出ています。雌しべが受粉するうえでは不利になりそうですが、どんなものでしょうか。

 

 葉柄は確かに藪椿(ヤブツバキ)のそれよりは短いようです。しかし、山形市大平地区の雪椿の葉柄よりは長いようです。実測をしないところが私の雑なところです。

 

 一応、葉を透かして葉脈を見もしたが、ピントが合っていません。左手で葉を持って、右手でカメラを持ちながらシャッターを押しました。

 

 実生と思われる小さな株が、所々にありました。やはり、雪椿なら滅多にないことかと思います。

 おしぇど山の椿は、純粋な雪椿とは言えないでしょうが、畑沢では最も雪椿らしいものでした。この椿がいつごろ植えられたかを証明するものはありませんが、稲荷神社脇の椿よりも雪椿の特徴が強いことから、より古い時代に植えられたであろうことは言えるのではないかと思います。

 

 

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ユキツバキかなあ(その13) おしぇど山下の稲荷神社

2024-01-13 15:23:44 | 自然

 実家の椿を撮影して直ぐに、下畑沢おしぇど山の裾にある稲荷神社脇の椿を見に行きました。ここ場所については、いつも大戸K氏から重要な情報を提供していただいており、椿についても教えてもらいました。稲荷神社については、既に'16年に投稿していますが、一応、簡単に説明します。神社は石の祠で、明治37年(今から120年前)に建てられました。椿はその時に神木として植えられた古い歴史を持つものと推定しました。近年の園芸品種ではないだろうとの見立てです。下の写真は'16年4月の撮影です。

 

 令和5年4月23日、ここの椿も満開でした。私の実家の椿と同様に、この角度から見ると雪椿の雰囲気が満載です。

 

 ところが、雄しべの基部を見ると、わずかに融合しているのが分かります。雪椿とは断定できません。基本的に私の実家の椿と同じと思われます。園芸品種が広く出回る前は、椿と言えば畑沢地区のほぼすべてがこの椿だったのかもしれません。

 

 

 

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ユキツバキかなあ(その12) 畑沢の実家

2024-01-12 16:05:46 | 自然

 尾花沢市畑沢の実家には、私の小さいころの思い出深い椿があります。元々は県道に接した庭にありました。道路の脇にあるので、冬季は空から落ちてくる雪だけでなく、除雪で脇に押し出された大量で思い雪にも上から押し付けられていました。それでもその椿は折れることなく地面に這いつくばるように元気でした。上に伸びないので、小さな子供には丁度良い遊び場所になっていました。

 ところが、昭和50年ごろに県道が拡幅・鋪装されるために、少し離れた場所に移され、さらに平成の初期に母屋が解体されるのに伴って再び別の場所に移されています。

 以上の説明でもお分かりのとおり、雪に強いという雪椿の特徴を持っていいます。

 令和5年4月23日 花は満開でした。

 

 下の写真を見ただけでは、花は雪椿そのものに見えます。

 雄しべを横から撮影しました。雄しべの根元部分が分離しているような融合しているような微妙です。しかし、インターネットで見た雪端椿(ユキバタツバキ)の雄しべとは明らかに異なります。雪端椿の雄しべの根元は、はっきり融合していますが、実家の椿の雄しべは完全に融合しているほどには見えません。そうとと言っても山形市大平地区での雪椿の雄しべとの違いも濃厚です。

 しかも、子供時代の記憶では、椿の小さな株をみたような気がします。つまり「実生」があったということです。雪椿は殆ど種子を作ることがないというのは常識です。つまり、雪椿は種子からの「実生」することは殆ど又は全く可能性がないことになります。実家の椿が雪椿である可能性が極めて乏しいことになります。

 

 花の確認と併せて葉柄の毛の存在も確認したいのですが、下の写真のように新しい春に展開する葉の芽は、鞘に包まれています。新葉の葉柄の確認は後日ということになりました。

 

 開花から約1月経った5月29日、新しい葉が開いていました。葉柄には毛が生えています。雪椿の遺伝子を受け継いでいる証拠です。

 

 たまたま写真を整理していたところ、まだ展開しない新葉も写っていました。よく見ると展開していない葉の裏面には毛らしきものが見えます。葉柄になる部分を区別できないのが残念ですが、「毛」の存在がどんな役割を果たすのか面白い研究テーマになりそうですが、どなたか取り上げてもらえませんか。

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繋沢観音堂跡は驚きに満ちていました。(見解が間違っていました。)

2023-12-28 16:16:43 | 歴史

 間違っていました。

 令和5年8月4日から同年同月月9日にかけて、「繋沢観音堂跡は驚きに満ちていました。」のタイトルで(その1~6)を投稿しましたが、その後、地元在住の同級生たちから次の言葉がありました。

繋沢には、観音堂の外にもいろんな建物があった。

 さらに繋沢の入口付近には学校、

 その少し奥に鳥居、観音堂の前には山門があった

 この一言で、これまでの私の見解に大きな間違いがあることが分かりました。私は繋沢観音堂が明治初めに建てられて、その中に六沢小学校が設けられたものと考えていました。

 ところが、上述の同級生の言葉によって、小学校は観音堂とは全く別に建てられたことが分かり、観音堂がその頃に建てられなければならない理由が消失しました。観音堂がいつごろ建てられたのかを、あらためて考えることができました。そこで、最初に戻り、写真、資料及び同級生たちの言葉を今度は慎重に整理しながら検討した結果、私なりに次の推察に達しました。

① 繋沢観音堂と呼んでいた建物は、明治以前のかなり古い時代から存在していて、例えば一般的な寺の本堂というような寺の一部だったであろうと考えられます。

② 明治に入って、無住職であった観音寺は寺としての役目を終えて廃寺となりましたが、建物は六沢地区民と円照寺の手によって観音堂の名前で昭和52年まで保存されていました。

③ 明治7年に、六沢小学校が繋沢の入口付近に建てられました。「常盤小学校百年」に記載されている内容のとおりです。観音堂とは別になっていました。

 

 間違いの原因は、次のとおりです。

① 六沢地区で、きちんとお聞きすべきでした。一番肝心なことでした。六沢地区を知らない人間ならば、最初にすべきことでした。

② 資料を精読すれば、繋沢観音堂が如何に古いものだったかが分かるはずでした。資料を都合のいいところだけを拾い読みした失敗です。

③ 明治7年に小学校制度が始まったころは、世の中があわただしかったので、小学校を建設するなどは大きな負担になります。他村では寺やお堂で小学校を始めたのに、とても六沢村だけが建てるのは無理だと決めつけていました。しかも、繋沢観音堂が建てられたとすれば、そこを小学校の一部として使われたのであろうと勝手に思い込みをしてしまいました。

 以上のことを含めた内容をまとめて、これまで教えて下さった円照寺と同級生に12月26日に報告してきました。するとさらに、その方々から興味深いことを又もや沢山、教えてもらいました。六沢地区の歴史に係る豊富な宝物と素晴らしい人材を再発見できました。

 

 その日、色んな話をお聞きして有頂天になり、六沢地区を撮影するのを忘れていました。

 代わりに今年2月に撮影した六沢地区の風景写真です。

 一昨年の写真もありました。集落から西の方から撮りました。六沢地区が大きな平地にあることが分かります。地名に「沢」が付く理由がないみたいです。これも不思議な興味深いことです。

 

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3年ぶりに雪のない12月

2023-12-10 16:56:54 | 自然

 今年は12月になっても、畑沢には雪がありません。少し前に10センチ以上積もったのですが、いつの間にか消えてしまいました。NHKのデータ連動で見ると、県内で雪が積もっているのは肘折温泉ぐらいです。2020年も雪が積もらなかったので、畑沢で面白いものを見ることができました。例えば箱根山椒魚(ハコネサンショウウオ)の仲間を初めて発見、サイハイランの群生地の発見、粉雪で石仏の拓本らしきことができることを発明などです。結構、楽しめました。

 今年はどうでしょう。令和5年12月8日(土)、山形を9時半ごろ出発して尾花沢市朧気から五十沢地区に入りました。そこから畑沢へ向かいました。いつものこの時期にはできないことです。雪がない限り、峠道を越えることができます。

 峠へ向かう山の景色は、杉以外は葉が落ちて色気のない寂しいものです。この日の朝は、夜中に放射冷却現象のために、沢に濃い霧が立ち込めたようです。「ようです」という推測の表現は、いつものように朝の出発が遅かったので、霧が立ち込めた様子を見ることができなかったからです。

 

 峠に近くなるにつれて、西の方に葉山が見え始めました。新比丘尼峠(私が勝手に命名)でゆっくり撮影しました。葉山の山頂部が雪に覆われています。

 

 上の写真では、葉山の斜面の様子が見え難いので、拡大してみました。実際、肉眼で見た感じはこの拡大した方の状態に近いです。葉山の山肌がはっきり分かります。雪がある部分だけは、厳冬期のような荒々しさがあります。

 

 峠に着いて雪を見ました。かすかに路肩に残っています。

 

 峠の脇に耕作放棄された畑の跡があります。一面が笹や灌木に覆われており、その中に昔は見なかった植物がありました。恐らく外来種かと思いますが、特定外来生物かどうかは分かりません。有名ではないので名前が分かりません。この植物は困ったことに地表を這う蔓が伸びて幹の棘が足に纏いつきます。手で払おうとすると棘がささります。腹立たしい植物です。繁殖力も旺盛で、各地に繁殖しています。これほどに厄介ですので、特定外来生物に指定されているのかもしれません。

 

 峠を抜けて畑沢側へ出ると、今度は北東の方にも遠くの山々が奇麗です。

 

 拡大しました。これは去年、登った荷鞍山(地理院は「二つ森」と言います。)です。この方角だと荷鞍(にぐら)には見えません。

 

 東の方は宝栄牧場です。山の頂が平らになっていて、そこが牧場になっているようです。これまで何度も眺めた風景のはずですが、知りませんでした。草原になっている所が雪で白くなったため、牧場であることが判別できました。牧場があのような標高が高い処にあるとは驚きです。風が強そうです。

 

 畑沢へ到着しました。県道への合流点に中畑沢の石仏たちが立っています。江戸時代から立っています。

 

 そして、「終点」だそうです。私は畑沢が「出発点」だと思っていましたが、五十沢がそのようです。これも知りませんでした。しかも、「民有林林道」の名前です。知らなかった。県が作るときは「スーパー農道」だったはずですが、いつの間にか、道路の管理が県から市に移り、道の名前まで変わっていました。

 

 畑沢の山の木々は、日を浴びて白く輝いていました。正直、不気味です。

 今回は畑沢の中をうろつく時間がなかったので、何も「発見」できませんでした。

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