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儀保(ぎぼ=地名)の環状二号線沿いに在る小さな道を左に曲がった処に在ります。樋川(ひがわ)とは、湧き水を集めて樋(とい)から落ちる様にしたものです。宝口樋川(たからぐちひーじゃー)は「あいかた積み」という沖縄独特の積み方で造られ樋の前は石が敷き詰められています。ここは、飲料水や洗濯用水などの為、当蔵(とうのくら=地名)町の住民が造ったものだそうです。昭和51年9月25日に市の史跡に指定されています。 (6年 Y子)
昭和の初め頃に飲み水と洗濯用に分けられたとの事です。宝口というのは、ここの地名から採ったものです。その由来も石碑に刻まれていましたが、去る沖縄戦で無くなったそうです。又、大修理したのは、赤平(あかひら=地名)の人たちだったそうです。 (母 Y子)
<学習の手引き>・・・この近くに最近(30年程前)、製紙造りを始めた方がおられます。ここと水との関係を聴いてみる事を勧めます。
{参考資料}:1807年に寄付を集めて建設された共同井戸。背後の建造は、ここでしか見られない沖縄独特の「あいかた積み」の石垣で、樋川の前は石畳になっている。6つに分かれた水槽は、飲料用と洗濯用に分かれていたという。現在は全く使用されていないが、かつては干ばつでも枯れることのない豊かな樋川だったのだ。 (出典:那覇市教育委員会)
「付則」:和紙の産地・沖縄県 琉球紙(りゅうきゅうし)那覇市首里儀保町の宝口樋川には良質の水が湧き、琉球王府の紙漉御殿が建てられていた。 王府がなくなったのちも、土佐紙の技術者を招いて、改良式の製紙工場が建てられていたが、 第二次世界大戦の戦火で消滅し、絶えていた。 民芸運動に参加していた出雲の安部榮四郎は琉球紙の再興を願っていたが、 弟子の勝公彦が昭和52年12月に宝口樋川に移住し、 地元の芭蕉や青雁皮などを原料とした琉球紙の復元を試み成功した。 月桃和紙(げっとうわし)月桃はしょうが科の多年性常緑草木。沖縄ではサンニンと呼ばれ古来から痰切り、健胃整腸、 消化不良、吐き気などに効果があるとされ、実を乾燥させたものを煎じて服用されていました。 和紙は、機械漉きと手漉き和紙があります。用途は、壁紙、障子紙、はがき、賞状用紙、しおりなどで紙質は、厚手になっています。
琉球紙:蕉紙菴・安慶名 清:芭蕉紙
過去に例を見ない寒波が琉球列島を襲った!兎に角、寒い。道行く人もオーバーを羽織り小走りに体を縮めて足早に去って行く。”異常・異変”気象としか言いようがない。南国、亜熱帯のトロピカル・ムードたっぷりの沖縄には似合わない。四季の変遷が曖昧で年中、夏季を演出している沖縄では常時、島内ホテル、宿泊先では泳げる。ところが、ここ一両日中は寒気・寒風の異変で異常続きである。今朝も寒くて外出どころか、たまの休暇のショッピングにさえ出掛けられない。亜熱帯気候に体が順応し耐性化しているウチナーンチュ(沖縄の人)にとっては本土の様な小寒い寒気や温度にも異常な寒さ・寒波を感じて引篭もりがちになる。一家団欒、室内に篭っている。久しぶりに家族が一堂に会しての四方山話に花が咲く。寒波の副産物というところか!・・・年の瀬も、慌しさを増して来た。あますところ十日余となった。”寒波・寒風・寒気”と共に今年も去り行く。この一年、どんな事件や重大事が各々には有ったのか、感慨深げに振返る年末となった。例年の如くやって来た!! 人それぞれに自分史を刻んでいく。これ又、感傷的になる時季、到来となる。 人生の終末に刻一刻とジワリジワリと刻まれていく日々の感触に黄昏の心境を実感する。 待てよ!あの好奇心旺盛なチャレンジャーとしてのポジティブな気概は? どこへ?・・・気を取り戻し、又、想起して日々の雑事に勤しむ?・・・
この”ヒジ川ビラ”が造られたのは16世紀から17世紀頃だと言われています。この辺は戦争前までは景色の美しい処だったそうです。道の両側は石垣と土の塀で造られていて松並木共よく調和しており、とても、美しいところの一つだったそうです。島尻(今の南部辺り)方面へ旅する人たちは三つの宿場の一つであるここを通って行ったのでしょう。識名園と御茶屋御殿(うちゃやうどぅん)=かつての迎賓館・別荘―とを結ぶ環状線の一部だったと資料には載っています。 (6年K君)
忘れられた名もなき坂にも、この様な歴史上の謂れがあったのかと、今更ながら昔を振返えると感慨深いものがあります。私たちの祖先の遺してくれた大事な文化遺産を今後も大事にしていきたいものです。 (父 K)
<学習の手引き>・・・この辺りを散歩して歴史というものを身近に感じてほしいと思います。前もって資料で調べてから出かけると、より一層、歴史の温もりを直に感じて興味が更に湧いてくると思います。 {参考資料}:金城ダムにあるヒジ川橋から首里城の守礼の門にかけて「ヒジガービラまーい」と言う散策の小道がある。ここは琉球王朝時代の古い道筋をたどりながら地域の歴史や文化遺産に接し楽しく散策出来る様に整備された散歩道である。1.8kmの道筋にあるヒジ川ビラ(石畳道)、「御茶屋御殿跡(王家の別邸)」、「雨乞い嶽」、「崎山馬場跡」などの史跡をたどる様に整備されている。道路に点々とした道標をたどると回れる様になっているので一度は散策したい処である。
備考:写真は「亀甲墓」と呼ばれるもので、お墓の形が”亀の甲”のようになっているので”カーミナクーバカ”と呼ばれている。中国南部のお墓の影響を受けた形で17世紀末頃から沖縄に普及した。墓の形には、この他に「破風墓」(はーふーばが)も多く見られるが、もっと古い形の「岩陰墓(チンマーサー)」や「掘込墓(フインチャー)」もある。
古い寒水川村の地名は、ここ寒水川(すんがー)に因んで付けられたと言われています。ここの井戸は田畑の水としても、洗濯用としても、飲み水、としても使用されています。水の量も豊かであり、水質もよいのです。又、放送局の水源としても使用されていたとの事です。だから、とても重要な処だなあ、と思いました。 (6年 R子)
つい最近(当時30年程前)、昭和54年7月3日に市の史跡として指定されました。むかしは水量も多く、いろいろな面に使用されていました。いまでも、こんこんと湧き出ています。昔から水と人間は深い関わりがあり、水にまつわる話も多いのです。 (父 R)
<学習の手引き>・・・この一帯は、市街地なので、水量も少なくなっている様です。樹木と水量の関係を調べてみるのも、いい勉強になります。
{参考資料}:この写真では、ないが「瑞泉門」近くのに在る首里城直下の御用水として「龍樋」(りゅうひ)がある。龍の頭は500年前のままらしい。実に、うまい水だったと書かれていた。今は飲めないが、当時としては、最高の飲料水だったらしい。もう一か所が、この写真の「寒水川樋川(すんがーひーじゃー)」である。同様に最高の飲料水だった。今は飲み水としては使用されていない。城外にも同じ名前の泉があった。